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全能神の証明


 リスターは研究棟に入ってすぐ、銃火に晒された。実弾兵器だったが、論理による防御もままならない状況では十分に脅威だった。

 入口付近の壁に背をつけ、柱を盾にしながら、


「誰かは知らんが、今は緊急を要する! お前が味方している人間は、世界を壊そうとしているのだぞ!」


 銃声が止んだ。通路の奥から姿を現したのは、驚くべきことに、特務部隊の面々だった。

 その筆頭、マーチャントがリスターの目の前に無防備に立った。

 リスターは澄ました顔で彼の前に立つ。物騒な鉄の塊を抱えた特務部隊員が取り囲む。


「マーチャントか。お前らは誰の命令で動いている?」


「言う必要はない」


「当ててやろう。クロッソンだろう。あの男に従う必要は全くない」


 マーチャントの表情は動かない。今すぐにでも「撃て」と部下に指示を下しそうな無慈悲な顔だ。


「感じているだろう、論理の揺らぎを。世界は崩壊を始めている。元凶はクロッソンだ」


「その証拠はない」


「特務部隊が聞いて呆れるな。いつまであの男の下働きに専心するつもりだ。全ての特務部隊員がクロッソンの配下にあり、全員がリアンを殺そうとしていた。おかげで私まで反逆者として疑われた。いい迷惑だ」


「……リスター、お前は不思議な男だ」


 マーチャントは瞳に強い光を宿しながら言う。


「我々の任務に気付いていながら、なぜ告発しない? なぜ単独で行動する?」


「さてね。組織に属する者として、お前らに同情しているのかもしれん」


「……ならば、ここで一戦交えるのもやぶさかではないと? お前一人で?」


「……まあ、どうだろうな。一人で、というわけにはさすがにいかないかな」


「リスターさん、伏せたほうが色々と『都合!』がいいかも」


 女の暢気な声音。リスターは瞬時に伏せていた。マーチャントたち特務部隊員が、次の瞬間巨大な丸太の直撃を受けて、半数が吹っ飛んだ。

 残りの者は周囲を警戒したが、既に遅かった。ファネルが特殊な銃を撃ち放ち、網で捕獲される。もがけばもがくほど絡まり、やがて全身が緊縛されるという塩梅だった。

 あっという間に十数人の特務部隊員を制圧したのは、サングラスをかけた小柄な女解析官、ファネルだった。


「ふっふっふ、可愛い同僚たちよ、長らくファネルちゃんを仲間外れにしくさって、ここで会ったが百年目、さんざん虐め抜いてやる、うふふふふ」


 リスターは思わぬファネルの加勢に感謝しつつも、時間を無駄にできなかった。そのまま走り出す。


「ファネル、礼を言う!」


「うふふふ、この日の為に、お前たちを倒す戦術パターンを四〇種類も用意していたんだぞ、ファネルちゃんの用意周到さに慄くがいい」


 ファネルは特務部隊員たちを足蹴にしていた。リスターは苦笑しつつも先を急ぐ。熱反応が顕著に異常な地点がある。地下だ。

 研究棟の最奥、薄暗い部屋の前に到着すると、痙攣を続けるアゼルと、その傍らで死んだように横たわっているメーガンの二人が視認できた。

 リスターは長年の経験から、その部屋にすぐに踏み込むのを自制した。そしてその選択は正しかった。


 アゼルの肉体から千切れ飛んだ肉塊が不気味に変貌を遂げ、巨大な蛇のような怪物になり、跳び掛かってきた。

 武器が拳銃しかないのでそれで応戦しても、千切れた肉は新たな蛇となるし、頭部を砕かれた蛇も再生を遂げて、全く効果がなかった。


「確かに、撃ったら増えるな」


 リスターは観念した。まともに戦っても勝ち目はない。だが、シンクレアは自分に何を託したのか。アゼルか。メーガンか。アゼルには既に近寄れそうにない。

 メーガンを助けろと、そういうことだろうか。あの人形どもの持ち主はクロッソンと見てほぼ間違いないが、どうしてアゼルまで人形と似た振る舞いをしているのだ?

 疑問を押し込め、リスターは行動に踏み切った。ぐったりと床に伏しているメーガンに近付く。首のベルトがはだけ、白い肌がくっきりと浮き出ていた。


「大人しくしていろ!」


 銃弾を撃ち込み、一瞬の時間稼ぎをしながら、メーガンを抱え持つ。しかしこの女の体重は予想以上にあった。俊敏に運び去ることができない。


 八方から大小様々な形の蛇が襲いかかってくる。リスターは息を止めた。腕と足に食らいついた蛇が肉を食いちぎるのを淡々と観察する。

 理性の力で激烈な痛みを封じ込める。それにも限界があるが、部屋を出るまでもたせてみせる。


 銃弾を喰らって床を這っていた大蛇が、のたうち回りながら接近してくる。あれに咬まれれば怪我では済まない。頭からまるごと飲み込まれて終わりだ。

 メーガンを放り投げて応戦するか。しかしそうすればメーガンは死ぬだろう。見捨てるか。

 そんなことはできなかった。足の力が抜けてその場に倒れる。メーガンが力なく手足を広げて落ちた。大蛇が口を大きく開けて迫り来る。


「ちっ、しくじった」


 せめてメーガンだけでも……。リスターは腕を伸ばした。

 腕の先にはメーガン。更にその先には見慣れたブランドの革靴。

 目を見張った。

 そこに立っていたのはマティアス。首に青い痣をつけた青年が、二丁の拳銃を構えて立っていた。


「マティアス!」


「室長、伏せて」


 マティアスは次々と銃弾を放った。蛇は吹き飛び、しかも再生や増殖かなわず、白い煙を立てて縮んでいった。

 その効果に驚きつつも、リスターはメーガンを抱えて立ち上がった。マティアスは栗色の短髪を銃を持った手で軽く掻き、少し照れたように笑った。


「慈善は良き投資、と昔から言いますからね。偉大なる先人の知恵を違えるわけにはいかないでしょう」


「マティアス……」


「投資された人間としては、相応の成果を出さないと、見限られます」


「私がお前を助けたのは慈善からじゃない。最初から投資だったさ」


「そうでしたか」


「で、何を土産に帰ってきた? このサプレスに」


「あの奇妙な怪物を倒す方法――というのはどうでしょうか」


「イマイチだな」


 リスターは蛇に咬まれた箇所を簡易演繹で止血しながら、言った。


「どうせならこの世界の異変を止める術を持ってこい。何が起きているか知っているか」


「推測ですが、クロッソンが不老不死を目論んで神の論理の誤謬を完全に証明しようとしているのでしょう」


「……クロッソン、やはり」


「神の論理の誤謬においては、人間の不老不死が許容されますからね。ですが、その証明はあと一歩のところで止められている。そしてその一歩は、あまりに難しい。何せ証明は不可能なのですから」


「そうなのか?」


 リスターは言いつつも、マティアスの表情が翳っていることに気付いた。この表情には見覚えがある。初めて理不尽な論理犯罪の現場に出張ったとき、上司の励ましを期待してじっとこちらを見つめていたときのような。あの寂しげな情けない顔だ。


「神の論理は完全です。紛れもなくあれこそが真理なのだと、悟りました。あと少しのところで私も怪物に殺されるところだったのですが、何とか間に合いましたね」


「マティアス……、お前、何を見た?」


「神はここにいる、その事実です。できれば私もメーガンの加勢に行きたいのですが」


「何を言っている?」


「メーガンは今、戦っているんです。神の完全性を証明できれば、この異変は止まる。しかし論理界層が崩落するのも時間の問題だ。ここも危ないかもしれない」


 よく分からなかったが、マティアスが錯乱しているとも思えなかった。アゼルの肉体からまた蛇が生え出てきて、凶悪な牙を剥き出しに、床を這う。マティアスはそれを銃弾一発で仕留めた。


「いったい、どうやって仕留めているんだ。それは実弾か」


「ええ。ただ、細工をしているだけですよ」


 楽園への道筋をつけている、それだけです。マティアスは呟いた。





        *     *






 空から降ってきたのは男だった。メーガンとクロッソンの間に突然出現し、銃弾を受けてもヘラヘラと笑っている。


「クロッソン様、役割を終えました、私もこれで楽園の――」


 しかしその姿はあまりに醜悪で、血だらけ、メーガンは直視を躊躇った。クロッソンが悲鳴に近い怒声を上げる。


「オールストン! 貴様までこの楽園に来るとは! まだ許可していない、許可していないぞ!」


 オールストンはクロッソンに殴られ、地面に這った。それでもブツブツと何か言っている。


「さっさと変身させてあげたらどうだい、この空間では、望みどおりの姿になれるんだろ」


 メーガンは引き攣った笑い声を上げた。クロッソンは怒りで顔が真っ青になっている。


「殺す」


「殺してから言えよ、相手に警戒されるだろ」


「殺してやる」


「楽園には相応しくない言葉だよなあ」


 メーガンは指を振った。クロッソンは機関銃を形成し、無茶苦茶に撃ちまくった。草花が散り、樹木が倒れ、水辺で遊んでいた少年が流れ弾に当たって倒れた。


「酷いことをしやがる」


 メーガンは怒りを覚えながら言った。彼女自身は無事だった。全ての銃弾を弾き飛ばしていたから。


「なぜだ」


「なぜって、お前が弱いんだよ。演繹補強もろくにできない三流が」


「お前はここでは論理の力に頼れないはずだ! 私だけの特権! 特権のはず!」


「おいおい、クロッソン。特権だって? 冗談だろ。特権なわけないだろう。神は全ての人間に、均等に機会を与えてくださったんだ。誰でも論理記号を頭の中でイメージできれば、世界を書き換えることができるんだ。知らないのか」


「ここは、誤謬世界。神の及ばない場所だ!」


「神に最も近い場所、の間違いじゃないのか? 少なくともオレはそう思うが」


「何を!」


「証明してやろうか。いいか、クロッソン、後戻りはできないし、お前の道連れなんて一人も必要ないと思っている。そんなオレが手を下すんだ、結末は想像できるよな」


「何を言っている! 結末だと! 結末など、私の人生に必要ない! 永遠に! 永遠に! この私は君臨し続ける!」


「ありがとう、陳腐な言葉を最後にくれて。そこまで永遠が恋しいのなら、奪い去る権利はオレにはないものなあ」


 メーガンは頭の中に精緻に組み立てられた論理式を吟味した。命題の細部にまでこだわったその美しい体系は、いよいよ命題論理学の領域で完成を待ち望んでいた。

 全てが等値記号で繋がれ、楽園が揺らぎ始める。小さな地震がこの平穏な地に襲いかかる。


「何だ……? 何をした、メーガン!」


「やっぱり気が変わったよ、そこのオールストンだっけ? そいつだけお前に懐いているみたいだから、ここに置いていく。後の奴らは全員ウチに帰すからな」


 クロッソンは驚愕に目を見開いている。メーガンは手を振った。


「貴様、証明したのか、神の論理の完全性を! 馬鹿な、馬鹿な、誤謬は現に証明されつつあるのだ! ここに、ここに!」


 クロッソンは空間に浮かび上がった無数の論理記号を仰いだ。醜く、婉曲な表現だったが、メーガンは一目で、これは正しい、誰にも覆せないほど正しい論理だ、と感服した。


「私が誤謬の証明を適用させれば、神の論理など呆気なく崩れ去る! 分かっているのか、メーガン」


「やってみなよ」


 メーガンは腕を組んで微笑した。


「オレだって、まだ神の論理の完全な証明を世界に適用したわけじゃない。勝負しようじゃないか、互いの知恵を持ち寄って」


「私の勝ちだ」


 クロッソンは一転して笑顔になった。勝ち誇っているというよりも、相手の負け様を目に焼き付かせようと、前のめりになっている。むしろその姿が無様であるということに、彼はいつになったら気付くのか。

 永遠に気付かないのだろう、とメーガンは思った。憐れだ、とも思う。

 自らの論理の成果を世界に適用する。

 直後、楽園は大きく揺れた――だが決定的な打撃にならなかった。クロッソンはけたたましく笑う。


「無様だ、無様だぞ、メーガン! 貴様の負けだ、アゼル以外に楽園を揺るがすことができる人間がいようとは、少し驚きだったが」


「だが、オレの論理は時間をかけてじっくりとこの空間を喰らうかもよ」


「ふ……、ふふ……。永遠というのは果てしない概念だ。いずれ神の論理に接近し、向こうの世界に帰れるよう誤謬の証明を不完全なままにしておくつもりだったが、まあいい。この楽園を無限に拡張し、無限の喜びを得れば良いだけのこと。違うか」


「違わないね。きっとアンタはそういう人生を送ることになる。死を失った生を人生と呼んで良いのか、オレには分からんが」


「ぶっ壊してやる。貴様らの世界を! 私の証明で! 神の論理などなくとも、私の創り上げた楽園は永久に不滅だ! いいか、適用してやるぞ、貴様の証明は不完全だった、なぜなら私の証明が完全だからだ! はは!」


「そうだな。オレの証明はまだ不完全かもしれない。ピースが一つ足りなかった」


「負けを認めてももう遅いぞ! 貴様は私を怒らせた! 全人類は私を除いて破滅する! 朽ちるがいい、神の古き戒律と共に!」


 クロッソンが神の論理の誤謬を世界に適用した。眩い光が楽園を包み込む。

 メーガンは小さく頷いた。


「そう、それが最後のピースだ」





        *     *






 きっと、まだまだ外延があるに違いない。人間の知らないところに、知覚の及ばぬところに真理は隠されているに違いない。

 もし神が我々人類を睥睨し、その無知を憐れんでいるというのなら、どうか教えて欲しい。知に限界はあるのか。終着点はあるのか。我々の努力が報われる日は来るのか。完全な知性を得たとき、人類はどうなるというのか。

 そこにあるのは満足か。失望か。それとも我々はあなたのようになるというのか。完全なる傍観者に。


 メーガンがぱちりと瞼を押し開けた。ぎょっとしたマティアスは、全く同時にリスターの珍しく喜びを発散する声を聞いた。


「やはり影響は排斥されたらしい。アゼルの細胞も正常を取り戻した。傷口から出血しているが、問題ないレベルだ」


 マティアスはベルトを手に持っていた。メーガンの恨めしい目つきから察し、優しく巻きつけてやる。


「まさかベルトを絞めないと躰を動かせないなんて、デタラメな躰だな、メーガン」


 マティアスが笑いながら言うと、彼女は口を尖らせていた。


「もっと、きつく」


「え?」


 声を出しづらいらしく、掠れた声しか出せなかった。メーガンは面倒臭そうに繰り返す。


「もっと、きつく。絞め殺すつもりで。じゃないと躰が動かない」


「あ、ああ……。分かった。しかし特殊な金具だな、吸着論理式の接触面積を増やす工夫か? 慣れないと手間取るぞ、これは……」


 マティアスはぼやきながらも言われた通りにした。きつくきつく絞め上げる。

 がばりと起き上がったメーガンは慌てて首に手をやり、ベルトを緩めた。


「殺す気か! あと少しで首の骨を折るところだったぞ! お前そっちの趣味!?」


「お、お前が絞め殺すつもりでって言ったんだろうが。覚えてるか?」


 メーガンは涙目になりながら咳き込み、マティアスを睨みつける。


「大体な、人の生体論理式を勝手に盗み見るのは犯罪だぞ、女の裸を盗み見るより重大な犯罪だ、この破廉恥野郎!」


「治療の為に必要だった、それだけだ。……メーガン、虫の居所が悪いようだが、何か心配なことでもあるのか」


「いや」


 メーガンはかぶりを振った。気が抜けたように、


「楽園の住人全員が、クロッソンと一緒に楽園に留まるとか抜かしやがって……。後悔したときにはもう遅いってのに」


「無理矢理連れて来るべきだったんじゃないか」


「ああ、今頃そこらへんに転がってるよ。きっと連中、オレのことを死ぬまで恨むだろうな」


「楽園というのはそんなに良い場所だったのか」


「いや」


 メーガンは肩を竦めた。


「ごくごくありふれた場所だったよ。クロッソンってのは、無数の論理界層を所有していた富豪だったはずなのに、あんな場所を理想にしていたんだな。美女に囲まれて満足そうだった」


 メーガンはそして不思議そうにする。


「マティアス、お前、雰囲気変わったな……。ていうか、どうしてここに?」


「酷いな、加勢に来たんだろう。低層公園にお前らが容易く侵入できたのも、私が農業科学研究所に突撃したからだというのに」


「ああ、道理でセキュリティが甘かったわけだ……」


 メーガンもマティアスもそれきり喋ることがなかった。リスターがアゼルの怪我の処置をしているところを眺めながら、漸くマティアスが、


「神の論理の完全性……、論証を見ていた」


「どうも。採点は?」


「加点方式なら満点だが、減点方式なら零点だな。相手の証明をそのまま取り込み、矛盾律を台風の目のように取り扱い、未知の論理記号を三つも導入した」


「オレにとっちゃあ、頭の片隅に道具として出番を待ってた論理記号の内の一つなんだがな」


 マティアスは意味が分からなかった。何かの比喩だろうか?


「……お前のような無鉄砲な女が歴史を創るんだな。実感したよ。洗練も何もない論証だが、人類は神にまた一歩近付いた」


「どうだか」


 メーガンは苦笑いし、それからだんまりを決め込んだ。マティアスは彼女のことが気がかりだったものの、誤謬を修正したことにより世界の論理はいかように変容したのか、興味があった。

 世界の混乱は収まったのか。更なる混乱が襲いかかるのか。

 マティアスの持っていた通信機が音を立てた。リスターとメーガンの視線が集まる。ちょっとした居心地の悪さを感じつつもその場で出た。


《ああ……、やっと繋がった!》


 聞き覚えのある声。マティアスは一瞬考え、そしてあまりに身近だったその人物の名前を呼んだ。


「シェリルか? 釈放されたか」


《いえ、まだです。マティアスさんは、無事ですか?》


「ああ。私の命を狙っていた男は島流しにしたから、もう脅威はない」


 誤謬世界は証明に取り込まれ、一つの矛盾律として神の論理を支え続ける。何者もそこへ入り込むことはできないし、脱出も不可能。島流しという表現をマティアス自身気に入った。


《良かった……、良かった!》


 シェリルの声は不安定に揺れていた。もしかすると泣いていたのかもしれない。いつも無愛想でクールな彼女の動揺に、マティアスは心が温まるのを感じた。


「シェリルこそ大事ないんだな。釈放の日は迎えに行く。知っているか、慈善は良き投資という言葉があって、身を挺して私を庇ってくれた礼は必ず」


《慈善なんかじゃありません》


 シェリルの輪郭のはっきりした声に、マティアスは口を噤んだ。


「……じゃあ、投資か?」


《冗談じゃありません。マティアスさん、本気で言っているんですか》


「え? ああ……、よく分からないが、すまない、変なことを言ったかな」


《私ほど自分勝手な女も珍しいですよ》


「うん?」


《自分勝手なんです、私!》


「自分勝手って、何拗ねてるんだ、おい……」


 通信が切れた。マティアスは通信機を凝視し、何なんだ、と呟いた。

 自分勝手どころか、身を投げ出して助けてくれたではないか。シェリルがいなければ死んでいたかもしれない。その行為が、彼女自身の為になる、ということか? それはもちろん、自分が死んだら彼女も多少なりとも悲しいのだろうが……。

 近くでメーガンが笑っている。マティアスは気分を害した。


「何だ、おい、メーガン」


「いや、お前も鈍いなと思って……。あいつの行動見てたら、誰だって怪しむもんだろうよ」


 シェリルの行動? 元サプレスの興信所勤めということで意気投合し、長く一緒に仕事をしてきた。彼女が自分を庇ってくれたのは、信頼関係を上手く醸成した結果だ。それ以上でもそれ以下でもないだろう……。

 何か見落としている感覚がして、記憶を探っていると、メーガンの息を呑む気配があった。

 振り返ると、リスターがアゼルに手錠をかけようとしている。メーガンが突進して彼を突き飛ばした。

 リスターは半ば予想していたのか、無様に倒れることなく、メーガンと距離を取って佇立した。


「公務執行を妨害するとどうなるか分かっているのか」


「アゼルから離れろ。逮捕する気か」


「当然だ。私はサプレス、正義を執行する者だ。長年追ったヤマを漸く捕まえた。様々なリスクを背負った甲斐があった。この男には罪を償って貰う」


「確かに、アゼルは罪を犯した」


 メーガンがアゼルの手にかかりかけた手錠を慎重な手つきで外す。


「こいつには罪を償ってもらわなきゃいけない。だが刑務所で償えるような類のもんじゃないだろう。死んで罪を償うのも違う。こいつにはもっと別の方法で贖罪してもらう」


「別の方法だと」


 リスターは怪訝そうにしている。マティアスは、室長は面白がっている、と感じた。表面上は怒りが爆発しそうだが、彼はそういう人間なのだ。


「ああ。アゼルにはこの世界を救ってもらう。この重過ぎる世界を」


「……メーガン、まさか引き続きアゼルに戦争を起こしてもらうとか言うんじゃないだろうな? 狂信者の理屈だ」


「まさか。オレはただ、アゼルの力が必要になると思うだけだ。たとえば、学校を建てたり」


「学校?」


「農園を経営したり」


「農園?」


「あ、そうだ、住宅地も必要になるかなあ。不動産も転がしてもらって」


「何を言っている?」


「重過ぎる世界はやがて終焉を迎える。そう遠くない未来だ。来たるべきときの為に備えておく。アゼルにはその潮流を作ってもらう」


「薄っぺらな終末思想か。付き合ってられん。おい、マティアス」


 リスターが顎で指示する。


「銃を持っているな。メーガンを拘束しろ。邪魔をされてはかなわない」


 マティアスは頷いた。淀みのない動作で拳銃を取り出す。メーガンが怒ったように彼を睨んでいる。

 マティアスは銃口をリスターに向けた。かつての上司は目を見開く。


「おい……、何の冗談だ?」


「残念ながら、室長、私もメーガンの意見に賛成します。私はもう、サプレスではありませんし、あなたの命令も受けません」


「マティアス、お前もアゼルを憎んでいるのだろう」


「ええ。ですが私は刑務所の看守ではありませんから」


 マティアスは銃口を向けたまま不敵に言ってみせる。


「苦しむ姿をこの眼で直接見る為にも、アゼルには自由に動いてもらおうと思います」


「マティアス、それは詭弁だ」


 リスターは苦々しい表情だった。しかしすんなりと後退する。


「……ふん、分かった、マティアス。よほど犯罪者になりたいらしい。さっさと行け、休まる瞬間は一瞬もないと思え」


「分かっています」


 メーガンは気絶しているアゼルを背負おうとしたが、右腕が動かないらしく、なかなか上手くいかなかった。マティアスが彼女に拳銃を渡し、アゼルを抱え持つ。


「……なあ」


 部屋を出るとき、メーガンは不思議そうにしていた。


「どうしてそこまでしてアゼルの肩を持つんだ。さっきの言葉じゃ、オレでも納得できない」


「見たんだ」


「何を?」


「農業科学研究所で殺されかかったとき、神の論理の断片を見た。そしていずれこの世界が崩壊するであろうことを見た。神の論理は完全だが、まだまだ解明されていない『先』がある。そしてそれを解明しない限り、世界はいずれ論理界層の重みに堪え切れず、朽ちるだろう」


「やっぱそうだよなあ。アゼルを庇う理由ができちまって、嬉しいような悲しいような」


「私からも聞いていいか」


「聞くのは自由だが、答えるかどうかはオレの自由だぜ」


「最も肝心な部分の、神の論理の証明なんだが……、どう解釈しても、その……」


「ああ。オレも強引だとは思ったがね。世界が世界を定義している、あの結論に納得できないのか」


「ただそこに在る、それが神の論理……。そう言ってしまっているように思えたのだが」


「まさにそうだろうな。始まりがなければ終わりもない。完全性とはそういうことだからな」


 メーガンの言葉にマティアスは考えざるを得なかった。ならば所詮人の子である我々は、神の領域には踏み入れられないということだ。そして、神の思考を理解できない我々が神の論理を完全に解明する瞬間は訪れない。メーガンはただ、神の論理の完全性を証明しただけで、その完全性の源泉にまで踏み込んだわけではない。

 人類は有限世界の中で、限られた資源を享受するしかない。その意味では、論理歴以前と何も変わっていない。論理界層は世界の拡張に過ぎず、人類の延命措置にしか過ぎない。

 なるほど、この事実を知らされた人間は閉塞感を禁じ得ず、絶望にさえ浸ってしまうかもしれない。そして救世主を求めるだろう。


 新たな神でも、神を殺す者でも、何でもいい。圧倒的なカリスマを輝かせる者。

 それはアゼルか。


 必ずしもマティアスはそれを肯定しなかった。自分の隣で他人の拳銃をしげしげと眺めているベルト女。彼女にその可能性を感じ始めていた。


「これ、改造したか? 実弾なのに論理素子がギッチリ詰まってるが」


 銃を示しながらメーガンが問う。マティアスは頷いた。


「ああ、巨大な熱量を誇る誤謬生命体を、界層飛躍技術の応用で楽園に飛ばしていたんだ。退治方法はそれくらいしか思いつかなくてね」


「ふうん。しかし位置情報はどうやって?」


「実世界近辺で、空間が異常な振る舞いをしていたからな。エネルギーが集中していて、実のところそこにしか飛躍させる余力がなかった。そこが結果的に楽園だったということだ」


「ふうん。それにしても、首の痣、オレと似た感じになっちまったな」


「ああ。手の形がくっきり出ていて、私のほうがみっともないが」


「ベルト、締める? そっちの趣味なんだろ?」


「どっちの趣味だ。妙なことを言うな」


 メーガンは自分の冗談に大笑いし、マティアスは舌打ちした。昏睡するアゼルはしばらく起きそうになかった。

 研究棟を出ると、バラバラになった人形の破片の真ん中で、痩せた女が立っていた。


「おっ、シンクレア」


 メーガンが気軽に挨拶する。シンクレアは無反応だった。アゼルを見て、少し口元が緩んだように見えたのは勘繰り過ぎか。


「返す」


 シンクレアが切れたベルトを差し出す。メーガンは口を尖らせて受け取った。


「これ、切れてるじゃねえか。もう使えねえよ」


「ありがとう」


「あ?」


 シンクレアは淡々と言う。


「助かった」


「これのおかげで?」


「そう」


「どうして?」


 シンクレアは答えなかった。メーガンは困ったように頭を掻き、


「ええと、じゃあ、質問を変えると……、これがあの論理演算子の海から抜け出すのに役立ったってこと?」


「そう」


 メーガンは何となく理解したようだった。シンクレアは背を向けて去る。

 マティアスはアゼルを抱え直しながら、首を傾げる。


「何の話だ?」


「このベルト、オレの背中の皮膚を、革に張り付けて論理式を組んでいるんだが、どうやらオレとシンクレアの間で繋がりがあったみたいだな」


「……そのベルト、お前の皮膚が使われているのか!?」


「表面だけな。そうでもしないと、関節の論理式が機能しねえんだよ。知らなかったの?」


「知ってたら、あんな風に強く握り締めなんかしなかった……」


「なるほどなあ、オレがアゼルとファネルに繋がったとき、シンクレアもその影響を受けて、あの空間から脱出できたんだな。なるほど、なるほど」


 マティアスは服に隠されたメーガンの背中を見た。皮膚を剥がしてベルトに変え、関節の異常を補う――因果な躰だ。

 彼女が背負う運命の重みを、マティアスは詳しく知らない。きっとアゼルにも関わる。知るべきなのかもしれない。あるいは見知らぬフリをするべきなのかもしれない。そんなことさえマティアスは分からない。

 ただ、これだけは言える。マティアスはこれまで以上に積極的に、メーガンの人生に関与することになるだろう。

 サプレスの空は途方もなく高い。空間は比類なく安定し、警報音が虚しく鳴り響いている。


「無事みたいだな」


 メーガンが呟く。何が、とは問わなかった。マティアスは小さく頷き、さて、探偵の次は何をすることになるのかな、と自分の近い未来に向かって問いかけてみた。





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