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弁駁獣


 昔から、一度やってみたかったことがある。

 車に乗ったまま建物に突入する。

 目まぐるしい逃避行の中で、可能な限り演繹補強した車体は、十分建造物のそれより強靭に完成されると信じた。

 通常のリープ終着地点を逸脱し、警告音を聞きながら、


「まだ余計なレギュレーションを積んでいたか」


 もはや法規など、自分に何の抑止力も持たない。


 マティアスはアクセルを踏み込んだ。無数の弾痕を抱えたビークルが唸りを上げて空間を切り裂き、農業科学研究所の駐機場を突っ切り、植込みだの金網だのを吹き飛ばし、堅牢な壁に正面から激突する。


 柔らかいボンネットがひしゃげ、バンパーが外れて宙に浮くが、集中的に強化したシャシーは鋭利なナイフとなって建築材に突き刺さり、鉄板と論理複合材の層が塊となって転がった。


 砂煙が建物内に立ち込め、フロントガラスを汚した。ワイパーがすぐに清掃する。マティアスはビークルが歪んだシャシーの所為でまともに走行できないことを知ると、素早く車外に出た。


 自動排撃装置が建物内のレールに乗って警戒しに来たが、マティアスは周囲を見渡しここが研究所のどの位置にあるのかざっと理解すると、小物には構わずに突っ走った。

 自動排撃装置の欠点は、必ず威嚇射撃を行うという腑抜けた思考を持っていることだ。床や天井を自在に這う箱型の暗殺者も、マティアスの敏速な行動についていけなかった。


 とある部屋に滑り込み、素早く施錠する。前回乗り込んだとき、建物の施錠機構を調べておいたのが功を奏した。


「だ、誰だ!」


 肥培管理室――たった今全てのモニターが消された。大小合わせて六〇ものモニターが沈黙し、部屋の隅で震えているのは、先日会ったオールストンという男だった。

 マティアスは腕を広げ、害意がないことを示した。背後に神経を向けて、自動排撃装置が追って来られないことを確認する。


「マティアス=グールドだ。現在求職中でね、福利厚生に不備のない職場を探している」


「あ、あなたは! どうして生きて――」


 オールストンは相当に迂闊な人間らしい。まさかそんな反応をするとは思っていなかったマティアスは、静かな興奮を内に湛え、青褪めた研究者に歩み寄る。

 オールストンは後退するが、モニターが設置された長机に背をぶつけてひっくり返った。スリッパが宙を舞う。


「私が生きていたら、何か不都合でも? 今日はちょっと、野暮用があって来たんだが、思ってもみない収穫があったな――」


「何をしにここへ」


「野暮用と言ったろう。聞いてなかったのか? そう慌てるな、危害は加えない」


「お前は間違ってる!」


 オールストンは自身の白衣をくしゃくしゃにしながら、絶叫した。発汗が酷く、唇は紫で、双眸の焦点がマティアスからずれている。


「お前は間違ってる! どんなことになるのか知らないのだ! 神の怒りに触れれば、お前も私も――」


 マティアスはこれ以上近づけなかった。どうも錯乱状態にあるらしい。


「落ち着け。神の怒りだと? 私が間違ってる? 確かにビークルで壁をぶち破って来たのは賢い方法とは言えないが、私はもう失うものなど何もなくてね、分かるだろう? 身が軽くなると考えまで軽薄になって、無茶をしたくなる」


「お前は間違ってる!」


 泡を吹いたオールストンに、マティアスは苦笑した。まともな会話など不可能らしい。色々と聞きたいことがあったのだが、この際、贅沢は言っていられないか。


「肥培管理室ね……、まさかここが密猟場所の管理を行っていたとは。ますます臭ってきたというものだ。ちょっと狼藉を働くが、まあ、大人しくしていろ」


 マティアスは近くにあったマイコンに近付き、軽く操作をした。どうやら密猟の被害に遭った論理世界の環境制御を行っているらしい。


「これは弄らないほうがいいな……、セキュリティシステムはどこだ?」


「お前! 触るな! 死にたいのか!」


 血相を変えてオールストンが立ち上がる。猛然と歩み寄って来るが、何もないところで躓いて顔面を机の端に強打した。

 マティアスは失笑してしまった。


「脅してるつもりか? 大人しくしてろと言ってるのに」


「やめろ、触るな、お前は神の怒りを――」


「黙ってろ、怪我するぞ。……怪我で済めば良いほうか」


 マティアスは拳銃を抜き放っていた。銃口を向けると、オールストンは腰を抜かして尻餅をついた。


「間違ってる……、お前は間違ってる……」


「分かった、分かった。私が間違ってる」


 マティアスは生返事をしながらセキュリティシステムに干渉した。

 メーガンたちが密猟場所に潜入し、アゼルの何らかのメッセージに気付くには、時間的な猶予が必要だろう。管理室を叩くのが最も手っ取り早い援護方法だ。

 それに、アゼルがわざわざ指定したこの場所に何らかの秘密が眠っているのではないか。メーガンが調査を依頼したこの部分にこそ、暴かれるべき何かがあるのではないか。マティアスの直感が、彼にこんな無鉄砲な行為を促していた。


「旧式のシステムだが、随分分厚い……。破壊するのに時間がかかりそうだな」


 マティアスは操作を続けていた。オールストンは力が出ないようで頭を抱えて震えている。そろそろ農業科学研究所の生身の警備員が部屋に駆けつけても良い頃だが……。


《どうした、オールストン? 我が忠実なしもべよ、何があった?》


 突然、スピーカーから声が聞こえてきた。ぎょっとしたマティアスは、オールストンが警報を鳴らしたのかと思った。別にそれでも構わないと思い直したが、


《返事をしろ、オールストン。何か不都合なことでも起こったのか。私がそちらに向かったほうが良いか?》


 オールストンはぶるぶると震えるのみで、返事ができない。会話ができるのかと訝りながらマティアスは、


「お前は誰だ?」


 沈黙が部屋に重く垂れ込め、マティアスは緊張を強いられた。スピーカーの向こうでは物音一つしない。辛抱強く待ったが、全く反応がないので、操作を再開した。


《なるほど……。マティアス=グールド、よくもまあ特務部隊を撒けたものだ》


 再びスピーカーから声が届く。オールストンの震えが大きくなる。この場にいない人間を、どうしてそこまで恐れるのか。


「すぐに追って来ると思うがね。お前は誰だ。私を知っているようだが」


《言う必要はない。……ふん、なかなか骨のある男のようだな。殺すのは惜しいが》


「私は死なない」


 スピーカーの向こうの反応が、それきりまた消えた。マイペースな奴だなと思いつつ、マティアスはセーフティ機構の基幹部を発見し、攪乱プログラムを走らせた。

 幾つかの障害を外部論理式を導入し排除した。順調に密猟地の警戒網が解けていく。マティアスは手応えを感じ、一瞬、油断してしまった。

 いつの間にかオールストンが立ち上がり、近くの操作パネルに触れた。


「おい、動くな」


 マティアスが拳銃を構えても、彼は全く無視していた。威嚇射撃を天井に放ったが、それでも動じない。

 不可解だった。あれほど臆病そうに見えた男が、銃声を聞いてもびくりともしないで、マイコンに向かっているのだ。


「撃つぞ。二秒以内に膝を床に着け」

 しかしマティアスは言いながら、既に撃つ心構えをしていた。足に狙いを定めて、論理銃弾を撃ち放つ。


 平然と作業を続けるオールストンの膝裏を、矛盾律銃弾が貫く。

 鮮血がトポトポと滴るが、彼はそれでも動じない。痛みに悶えることも、マティアスへ振り返ることも、謎の男に震えることもない。

 様子がおかしいどころではない。これは異常事態だ。


「動くな! 次は腹を狙う! その次は胸、最後は頭だ!」


《無駄だ、マティアス》


 スピーカーから声がする。マティアスはこの不可解な事態を理解する為の手段として、謎の男の言葉に耳を傾けるという愚行を犯した。


《彼には私からちょっとしたプレゼントを贈った……。餞別ってやつだ》


「何を言ってる。麻酔でも撃ち込んだってのか?」


《そんな一時凌ぎではない。未来永劫役立つ、究極の論理式だ》


 未来永劫……。マティアスはオールストンを見据えた。

 彼をよくよく見ると、小さな声で何事か呟いている。そして注視を続けていると、頬が濡れていることに気付いた。


「ありがとうございます、クロッソン様、私のような卑屈な男を、新たな神の御許に……」


 彼は涙していた。感涙と言っていいだろう、その表情は喜びでいっぱいだった。あまりに晴れやかな顔をしているので、マティアスは一瞬自分が拳銃を構えていることを忘れかけたほどだった。


「撃つぞ!」


《無駄だ》


 二発、続けて撃った。空間から存在否定され続け、なお直進し更新を続けるという属性を保持するがゆえに、弾道上のあらゆる物質を破壊する矛盾律銃弾が、オールストンの腹と右胸を撃ち抜く。


 焼け付くオペランドの群れが飛散するが、オールストンは動じない。衝撃だけで床に吹き飛ばされて当然なのに、それも全くない。確かに麻酔などでは説明がつかない。

 まるで千年生き続ける大木にちっぽけな斧を振り翳しているかのようだ。大袈裟な比喩ではなく、マティアスはそれほど圧倒された。


 頭を狙うことに躊躇はあった。しかし、人を殺すことへの抵抗よりも、もしこれで相手が死ななかったらどうするべきか、その恐怖のほうが勝っていた。


「撃つからな」


《まだ分からないのか?》


「撃つからな!」


 マティアスは我ながら情けない声を出していると思った。引き金が重かった。武装している人間に撃つのは躊躇がないが、相手は丸腰の男だ。

 では接近して縄でも使って緊縛するのが自然だが、これまた情けないことに、あまりにも不気味過ぎて近づく勇気がなかった。銃を構えて撃つくらいが干渉の限界だった。

 一発、撃った。頭蓋に突き刺さる矛盾律の楔。あまりにも鮮やかに、オールストンの頭部は砕け散った。


 頭部の過半を空洞に満たされ、脳漿をぶちまけたオールストンは倒れるかのように見えた。全身が痙攣し、操作する手が止まり、左右に身がぶれる。

 だが、そんな反応さえも、オールストンには脅威だった。頭を砕かれたら倒れる、それが人間という生き物だ。目の前の男はダメージを喰らったようではあるが、依然立ち続けている。


「どうなってる、この空間に細工が……」


《小細工など無用だ。貴様の前に立つ男は、神の領域に足を踏み入れたのさ》


「神だと」


 これほどぞっとする表現もない。あまりにも抽象的で、陳腐で、それゆえに身を凍らせる。底知れない狂気を感じ、そのうすら寒さが目の前の異様な光景とマッチしてしまう。

 ああ、確かに神なのだな……。マティアスはスピーカーから流れる中性的な声に納得してしまっていた。


 オールストンはしばらく震えているだけだったが、やがて操作を再開した。砕けた頭蓋に肉が盛り上がり、血管や骨を成形していくのを間近に見て、もはや人間ではないのだと感じた。


「何をしたのか知らないが……、もしかすると、アゼルのやろうとしていることと関係があるのか」


 スピーカーからの声は返事をしなかった。マティアスはオールストンに接近し、銃弾を更に撃ち込んだ。腕と脚。物理的な障害には屈さざるを得ないはずだ。何をしようとしているのか知らないが、不吉な予感しかしない。

 倒れろ、倒れろ、倒れろ……。

 それだけを念じて、銃弾を撃ち込む。

 しかし効果がない。

 オールストンは笑っていた。神への感謝の言葉を唱えながら、笑っていた。


「クロッソン様、私はついに辿り着きました、神の世界に、新たな地平に」


 喉を撃ってもまだ喋れるのかと思い、撃ち込んだ。その実験の結果は、喋れない、だった。血を噴き出しながら空気を漏らす音は、あまりにも残酷で、マティアスは自分の行為を後悔した。


《ハハハ! 私と同じことをしているよ、マティアス! 一つ教えてやろう、オールストンは自分が喉を撃たれたとは気付いていない! 貴様とは違う『景色』を感じているからな!》


 管理室のモニターが一斉に点灯した。薄暗い部屋に明かりがもたらされる。オールストンが操作したのだ。

 モニターには密猟地の状況が映し出されたが、モニターの半数以上が侵入者の姿を追尾していた。メーガンと黒髪の美少女、それからリアンと裸同然の長身の女、四人の姿が見られた。

 自分の指示通り、メーガンは密猟地の低層公園に来たのだ。一種の賭けであったので、マティアスは素直に喜ばしく思った。


 だが、別のモニターが異形を映し出していた。

 弁駁獣と思われるが、泥と藁と豚肉を混ぜ合わせて作ったかのような、そんなグロテスクな巨人である。他にも躰が腐りかけた獣や、骨が剥き出しの翼竜、六つ足で移動する砲台など、とんでもない光景だった。四人はそうした弁駁獣とまだ遭遇していない。


「悪い夢を見ているかのようだな……、私が想像した以上のテーマパークだ」


 アゼルはこの光景をメーガンに見せたがっていたのか。マティアスにはこれらの怪物が何を意味するのか分からないが、彼女には分かるのだろうか。


「神の楽園だ」


 オールストンが喉を修復し、漸く意味のある言葉を発せられるようになっていた。マティアスは異形と化した彼を睨む。


「楽園だと?」


「この世の一切の苦から解放された、楽園だ。マティアスさん、貴方も死ぬのは怖いだろう」


「私の名を呼ぶな」


 そんな姿になった奴が知性を保てているというのも、おぞましい話だった。今のオールストンは人間の原型を保てていない。

 オールストンは笑った。笑い、そして、マティアスに初めて正面から向き直った。

 変わり果てたその外貌に戦慄したマティアスは、銃弾を更に撃ち込んだ。オールストンは動じない。


「恐れる必要はないんだ、楽園はすぐそこにある」


「近づくな、オールストン。十分だ、話を色々と聞こうと思ったが、もういい。お前とクロッソンとかいう奴が狂ってるってことがよく分かった。学問的興味が尽きないが、それ以上に、お前らへの嫌悪感でいっぱいだ」


「嫌悪感? それは違うな、受け入れるのが一番楽なんだよ、神の奇跡をその一身に!」


 オールストンが跳躍した。血みどろの彼は急激に躰を変形させた。赤褐色の肉種が内部から溢れ出して来て、足や腕を成形する。元々の彼の躰がほとんど埋没し、もはや全身を火に炙られたかのようなグロテスクな肢体を晒していた。


「化け物が!」


 拳銃を構えると、オールストンは腕を十字に交差して防御した。

 銃を乱射するが、ほとんどが弾かれた。四つ足で着地したオールストンは笑った、狂ったように笑って四つ足で走り寄ってきた。


「くっ」


 部屋から出るしかない。得体の知れない化け物と交戦するのは得策ではない。

 そのとき、ふとモニターに、メーガンたちが大写しになった。

 奇妙な弁駁獣と対面し、動揺しているようだった。


「貴方は幸運な人だ。どういう理由でここを嗅ぎ回り始めたのか知らないが、貴方がコソコソ調べているから、私たちは貴方を警戒し、そして結果的に、この地に導かれた」


 オールストンが腕を伸ばしてくる。躱したつもりだったが、腕が不気味な音を立てて裂け、肉腫が盛り上がって補い、指先がマティアスの喉を掴んだ。とてつもなく冷たく、一瞬肉が焼けたのかと思ったくらいだった。


「うぐっ……」


「そして礼を言いたい。私はこんな世界に飽き飽きしていたのだ、クロッソン様に私に役割を申し付けてくださった……、貴方を殺すという役割を、この場で」


 マティアスはもがき、オールストンの肩を小突いたが、そこも凄まじい冷たさだった。掌がくっつきかける。人間の体温ではない。氷よりも冷たく感じられる。


「あなたの命が欲しい……、きっと喜ばしい世界があなたを包み込んでくれる……」


 何を言っている。この狂人は!

 マティアスは銃弾を撃ち込み続けたが、オールストンにダメージはない。やがて意識が遠のき始めた。このまま死ぬのか、私は。

 視界が曇り、やがて暗くなり、意識の断片が微かに浮遊する。思考と呼べるほど纏まりのある論理は成立せず、いわゆる走馬灯というものが、彼の脳裏を駆け巡る。

 そしてマティアスは気付いた。メーガンが自分に調査を依頼してきた事柄。


 ――熱探査アプリの不具合。


 メーガンが熱探査アプリを密猟地で使用したが、不具合があったと話していた。だが、目の前のオールストンという男と、あの奇妙な弁駁獣たちが同一の原理で変容しているとすれば。

 そしてオールストンの異様な低温状態を考えれば。アプリは正常だった。

 飛躍に次ぐ飛躍、マティアスは非論理的な思索によって、一つの結論を出した。


「そうか……、貴様らは熱を吸収し、そのエネルギーを使って論理式を構築しているのだな? 環境に漂うオペランドを利用するのではなく、内部変数の揺らぎを捉えて論理世界上に物体を配列しているのだな?」


 貴様の肉体に巣食うのは、アポトーシスを圧し潰した、細胞レベルで利己的な、凶悪な変異生体論理式。

 オールストンはまた笑った。まるで笑うことしか許されていないかのようだった。






        *     *





 メーガンはマノンの持っていた万能端末を奪い取り、熱探査アプリを展開した。案の定、正常に作動していない。

 いや、正常ではあるのだ。異常なのは目の前の弁駁獣……。


「見た目以上に、中身が異常だってことか」


 メーガンはマノンに端末を放って返したが、少女は震えるばかりで、取り損ねた。目の前の凶獣に目を奪われているらしい。

 森閑とした低層公園、住所は農業科学研究所によって秘匿され、極秘に管理されていた。もちろん存在自体は公表されているが、研究上の都合でその在処は機密であった。そうした措置は別段珍しくない。


 だが、隠したかったのが研究成果などではなく、こうした化け物だったとは、マノンも想像だにしなかったようだ。メーガンは少女の手を引いて走り出す。双頭の馬にヤモリが合体したかのような醜悪で巨大な弁駁獣が、鈍重ながら着実な足取りで追ってくる。


「メーガン、メーガン! 何なの、あの化け物は!」


「知るかよ、だがアゼルはこれをオレに見せたかったようだな。死ねとでも言いたかったのかね!」


 木を薙ぎ倒しながら迫り来る弁駁獣、メーガンはマノンが転んだのを見て舌打ちし、その小柄な躰を抱えて疾走した。


 セキュリティシステムが警報を鳴らしている。存在を気付かれた。だが、今となってはどうでもいい話だった。この化け物を一度は忘れようと思ったが、アゼルが関わっているとなると話は別だ。

 あの男と、この化け物は、関連している。まさかアゼルが弁駁獣を生み出したわけではあるまい。すると、マノンの話にあった「神の論理の誤謬を暴く」ことと関係しているのか。


「アゼルはきっと、ただ遠くから観察しろって言ってたわけじゃねえはずだ」


 見せたいものがある。それが論理構築物なら、論理解析しろというメッセージのはずだ。

 メーガンは立ち止まり、同時にマノンを森の奥へと投げ飛ばした。尻餅をついた少女は小さな悲鳴を上げたが、弁駁獣への恐怖からか、文句は垂れなかった。


「先に逃げろ。オレはあの化け物を解析する」


「無茶だよ、メーガン! いくらA級ライセンシーだからって、戦闘のプロってわけでもないんでしょ?」


「ライセンス取得試験の苛烈さを知らないようだな。弁駁獣を駆除する方法を本物相手に実践させられたのは一度や二度じゃない」


 メーガンは真如剣を引き抜いた。迫り来る化け物は二つの馬首から涎を垂らしながら、爬虫類の尾を思わせる肉厚の触覚を突き出してくる。

 横っ飛びして一撃を避け、剣の出力を高め、軽く上下に振る。何の感触もないまま、触覚が地面に落ち、赤黒い血液が零れ落ちた。

 マノンが木の幹に隠れながら拍手する。


「凄い、クルマの運転はヘタクソだったのに!」


「いいからもっと下がってろ!」


 弁駁獣は痛みに苦しむ様子はない。それどころか、傷跡から次の触覚が生まれ、しかも今度は色と質感が変わっている。強化されたのだと直感した。


「生体兵器だな、これは」


 メーガンは呟き、そんなシンプルな存在理由なら簡単だが、と内心で付け加えた。

 弁駁獣は馬の蹄を思わせる巨大な脚を振り回し、踏みつけようと突進してきた。メーガンは正面から受けて立ち、下から掬い上げるように剣を用い、弁駁獣の腹を切り裂いた。


 さすがにバランスを崩した弁駁獣に、とどめを刺そうと一歩踏み出したが、再生した触覚が木の幹を粉砕しながら水平に突っ込んできた。跳躍して躱そうとしたが間に合わず、足首を痛打した。そのまま一回転して地面に叩きつけられる。


「……畜生が!」


 土を吐きながら立ち上がったメーガンは、臓物をぶちまけた弁駁獣がなお立ち上がろうとしているのを見て、不死身なのか、と慄然とした。


 最初にこの公園に入ったとき、巨人型の弁駁獣は毒茸を食べて死に絶えた。いや、死んだように見えた。もしかするとあれも不死身なのだろうか。まだ生きているのだろうか。いったいどんな論理式を導入すれば、こんなタフな弁駁獣が生み出されるのか。


「戦争兵器にしては中途半端だし、単なる実験としては物騒過ぎる。これを創った奴はどういうつもりだ」


 思わず口をついて出た疑問だったが、アゼルはこれこそを見てもらいたかったのだ、という気がしていた。あまりにも異常な生物に嫌悪を感じているだけなのか、それとももっと根源的な危機を無意識に感じているというのか。

 メーガンは目の前の弁駁獣を殺さなければならないという気がしていた。解析はその後でいい。


「不死身の生命体なんて存在しない。この世界に真理があるとすれば、それくらいのものだ」


 メーガンは剣を構えて果敢に踏み込んだ。出力を上げて黄金色の刃の静かな駆動音を聞く。弁駁獣の頭部を捉えて、砕く。刃を少し傾けて押し潰すように振り切る。

 弁駁獣は横倒しになり、脚をばたつかせてもがき続けた。メーガンは間髪入れず、もう一つの頭部を切り裂いた。マノンが歓声なのか悲鳴なのか分からない声を出す。


「やったの?」


 メーガンは頷きたかった。そしてさっさと背を向けて、その場を立ち去りたかった。

 普通の生物が相手なら完全な勝利だ。弁駁獣駆逐試験の採点員が見ていたら「強引過ぎる」手法ということになるが、文句をつけようがない大勝利。

 しかし普通の生物が相手ではない。前提が間違っている論理など何の価値もない。


「もっと離れろ、マノン、次の動きが読めない!」


 メーガンは叫んだ。頭部を砕かれ、腹部を裂かれ、地面を這った弁駁獣は、なお動き続けていた。それだけならまだ脅威ではない。自然界の生物の中では、指一本になっても動き続けるものもざらにいる。


 だが、目の前の光景はそれとは明らかに異質だった。

 肉腫が盛り上がり傷跡を埋めていく。

 それどころか新たな組織を成形し、頭部が一つに統合され、眼が四つ、口が二つ、まさしく化け物の名に相応しい凄絶な姿を獲得した。

 腹からは新たな触手が出現し、先端は鉤爪のような突起物がついている。

 マノンが目を丸くし、またもや端末を取り落とした。


「逃げろって言ってるだろうが、マノン!」


 メーガンは叫んだ。少女を守る為に、弁駁獣から一旦距離を取るべきか、それともこのまま突っ込んで再び斬るか――判断が遅れた。

 弁駁獣が咆哮を上げた。躰をくねらせながら地面を触手で打ち、土煙が舞う。その巨大な躰を空中に持ち上げて、得体の知れない体液を撒き散らし、姿勢を整える。

 着地点は、マノン――少女は身を竦ませて動けない。


「メーガン!」


 叫んだマノンはしゃがみ込み、頭を抱えた。弁駁獣は体中から触手を生やし、その鋭利な先端を少女に突き込む。

 メーガンは剣を振り、触手を一本斬った。だが間に合わない。


「マノン!」


 メーガンは叫んだ。そのとき、自分の声と重なり合うものがあった。

 マノンのすぐ傍から放たれた無数の銃弾。一つ一つが人間の頭ほどもあり、巨大な弁駁獣も下から支えられるように、身を削られながら空中で静止した。

 咆哮しながら体勢を整えようとする獣に、ドロップキックを食らわしたのは、青い髪の女だった。痩せ過ぎた躰を競泳水着のような服でおざなりに保護している。

 弁駁獣は華奢な女一人の蹴りで、信じられないような末路を迎えた。蹴られた場所から連鎖的に、肉体が崩壊していったのだ。粉よりも細かく、跡形もなく、消滅していく。


 メーガンはぽかんとしていた。近くに落ちていた、自分の仕留めた触手さえも、細かな粒子となって消え去っていく。

 機関銃の傍で難しい顔をしていたリアンが、ドロップキックからの華麗な着地を決めたシンクレアに、難しい顔をする。


「危ないなあ、僕が攻撃している間は突っ込まないでよ。せっかく新型銃器の性能を確かめてたのに」


「まどろっこしい」


 二人の助っ人は睨み合い、それから何事もなかったかのようにマノンに向き直った。

 マノンは泣いていた。そして少年のほうに抱きつく。


「リアンくん! 信じてたよ、あたし、信じてたんだからね!」


「マノンさ……。こんな場所に呼び出しておいて、いきなりピンチになってるんじゃないよ。メーガンなんて、頼りにしちゃ駄目」


「うん、うん、そうだね、リアンくん。メーガンなんていてもいなくても一緒だよね」


 メーガンは苦笑するしかなかった。弁駁獣を構成していた論理式とオペランドの断片が空から降り注いでくる。邪悪な気配はなかったが、念の為に周囲を警戒する。どうも、あの異様な生命体を見た後だと、心が休まらない。

 シンクレアはじっとりとした目つきでメーガンを一瞥すると、そっぽを向いてしまった。彼女のドロップキックによって弁駁獣が死滅したのは明らかであり、いったいどんな手法を用いたのか興味があった。

 しかし今は、弁駁獣の解析が先だ。端末を取り出して断片を収集、解析に入る。


「いつの間にリアンたちをここに呼んでたんだ」


 メーガンは数値を慎重に吟味しながら、質問した。涙を拭いたマノンは胸を張って答える。


「それは、もちろん、最初からだよ。あたしってば用意周到なの」


「ふうん。リアンたちはつけられなかっただろうな」


 リアンは心外そうに、しかし冷静さを保とうとして淡々と、


「僕も周到さにかけては自信があるけどね。まあ、多分追尾されているだろうね。でもそれはメーガンたちだって一緒だと思うけど」


 そうかもしれない。特にメーガンは、釈放されたとはいえ、サプレスの監視が続いているに違いない。


 そのとき、機械による解析が終わった。というより、中断した。エラーだ。


「エラー……、論理的不整合……、間違って花粉でも取り込んじまったか?」


 メーガンは再び解析を開始した。しかし今度もエラー、次もエラー。不審に思ったリアンも解析に参加したが、エラー。


 解析のエラーとは、すなわち、あまりにも多くの異種成分が混ざっているので、推定の精度が下限値を下回っているということだ。一〇〇文字の文章を一〇〇文字の暗号鍵で施錠した場合、いかなる試行でも開錠するのは事実上不可能であるが、それと似た状況に陥っている。要するに、解析は無理。


「どうなってる。シンクレア、お前、変な細工したか?」


 弁駁獣を粉砕したのはシンクレアの不可解な攻撃だ。しかしこれはリアンが否定した。


「そんなことないよ。シンクレアは綺麗に敵を分解しただけだもん。もし、倒したことによる影響が出るというのなら、僕の機関銃とかメーガンのなまくら剣のほうが、よっぽど問題だと思うよ」


 リアンが皮肉だけでそんなことを言うとは思えない。メーガンは眉を顰めた。アゼルはこの異常を目の当たりにして欲しくて、自分をここに呼んだというのか? それとも何か見落としていることがあるのか?


「今の弁駁獣の構造だけど」


 リアンがマノンに縋られるのにうんざりして、シンクレアに押し付けながら言う。


「不死構造だった。もちろん、全ての生命に寿命はあるんだけど、自殺因子がない。普通の生命体なら、体組織の恒常性保持や形態発生という意味合いにおいて、細胞レベルの自殺は必要不可欠なものなんだけど、あれは全身が癌で出来ているみたいだった」


 リアンの口調が俄かに大人びる。メーガンは密かに感心しつつも、


「……なるほどな、だから再生を繰り返してたわけだ。その論理式を用いれば、解析の役に立つかも」


「まあね。良いアイデアだと思うよ。だけど欠点が一つだけあるな。その論理式が分からないっていう」


「これから考えるんだろうが」


「単純に細胞の分裂を促す論理式なら、簡単にできるだろうね。生体論理式に組み込むのも、ちょっと試行錯誤するだろうけど、可能な感じがする。でも、いいかい、癌を生むということは、元々の核となる論理式も変容をきたすってことなんだ。細胞分裂を促す論理式も癌の浸蝕を受けて壊れ、やがて生命活動は停止する。あんな生命体を創るのは無理だ」


「工夫次第で何とかなるだろう」


「もう何百万回もシミュレーションしてるけどね」


 リアンは自分の端末を差し出した。


「どんなに理想的な初期条件を与えても、数秒ともたない。あっという間に死ぬんだ。あれは下手すると何百万年でも生きられそうなタフな生物だけど、実現となると」


「あっという間に死ぬだと?」


「そう、あっという間に死ぬの」


 リアンはつまらなそうに言う。自分の分からないことがあるのが不服そうだ。

 しかしメーガンは何かが引っ掛かっていた。数秒で死ぬ生命体。普通の生命体ならば、細胞レベルで常時死滅と誕生を繰り返している。それが個体レベルで起こっているというのか。

 そして閃く。

 数秒で死に、数秒で誕生し直しているとしたら? 死ぬことが引き金となって生まれる生命がいたら? 生まれた瞬間に本能的に死を選択する、そんな細胞の寄せ集めがあったら? それを可能とする豊富なエネルギーがあったら? 

 熱探査アプリは弁駁獣の熱を探知できなかった。周辺の熱分布に異常をきたすほどの異常。不可逆変化におけるエントロピーの減少などという、熱力学の大前提を覆す生命体の存在を想定できなかったのが原因だ。

 あの奇怪な弁駁獣は常に熱を吸収している。そのエネルギーで自己を殺し続け、生まれ続けている。

 メーガンはうすら寒いものを感じた。と同時に光が見えた。


「解析できるかもしれない」


 メーガンの言葉にマノンが目を剥いた。


「何だって。いい加減なことを言うなよな、この僕が無理だっていうのに」


「自殺因子がないと言ったな」


「ないよ」


「あるんだ。しかしそれは論理式で明文されていない」


「何だって?」


「莫大なエネルギーの吸収――細胞は爆裂し、再生し、増殖する。ここの弁駁獣どもは、熱を食料としているようだが、奴らは生き延びる為に食事をするわけじゃない。死ぬ為に食事をしている」


 リアンは訳が分からない、という顔をしていた。メーガンは自分の端末を操作し始めた。シンクレアが腰に手を当ててベルト女を注視している。マノンはきょとんだ。


「外部変数を、それもとびきり奇怪なやつを打ち込むぞ」


 メーガンは言った。


「数秒ごとに殺されることを前提とした生命だ。いいか、殺されるんだ、自殺するわけじゃない。未だかつてそんな生命は存在したことがないが、ここにいる。殺されて初めて存続できる生命体なんだ」


 リアンが口をぽかんと開けた。そしてゆっくりと、自分の端末を見つめる。


「自殺因子の外部化――そんな馬鹿な」


「ああ、馬鹿な生命体だ。狂ってる」


 メーガンとリアンは、それぞれの端末のパワーを合わせて、シミュレーションを進めていった。二人が想定した論理式は極めてシンプルであった。それはちょうど、人間の生体論理式の最も複雑な部分を文字に置き換えて誤魔化し、人間と石ころはほとんど同じ構造をしていると主張する一元論者の詭弁にも似たものであった。


 かなりの誤差と問題があるシミュレーションだったが、メーガンは手応えを感じていた。それはリアンも同じなようで、「ワクワク」という表情を隠し切れていない。


「オレは早速標本を解析してみるが、お前はシミュレーションの精度を高めてくれ」


「任せてよ。僕がこいつを丸裸にしてみせる」


 メーガンは採集した弁駁獣の破片を、端末に取り込んで解析を開始した。今度の条件がかなり上手くはまったようで、何度かエラーに見舞われたが、順調に弁駁獣の構造を調べることができた。

 暇を持て余したマノンが、メーガンの端末を覗き込む。


「何か、見た目もそうだけど、論理式の構造も変だね」


「まあな……、だが天才的だ」


「それってコレ作った人を賞賛してるの」


「まさか。歪んでいるのが分かるよ。この世の摂理が」


 不完全な論理式を仮定してシミュレーションしたので、弁駁獣の構造にところどころ靄がかかり、まだまだ全貌を解明するのに時間がかかりそうだった。リアンが舌なめずりしながら改良に精を出しているが、はっきり言って、とりあえず試してみて駄目だったら別のを試す、それだけの作業であったので、どれだけ時間がかかるかは分からなかった。

 メーガンは解析を進め、そしてぼんやりとだが、この弁駁獣が常に何らかの命令を受けていることを突き止めた。


「命令?」


 マノンが不思議そうにする。メーガンは小さく頷いた。


「物理的な電気信号だ。そう言えば、オレがこの前出会った弁駁獣にはアンテナみたいなのがついてたな。この馬の弁駁獣は躰の中にでも仕込んであったのかもしれない」


「どんな命令?」


「さすがに細かいことまでは分からないがな。ただ、どの方向から電気信号が送り込まれてきたのかは、分かるかもしれない。信号を受け取る場所が大体特定できて、精確な行動履歴(姿勢)を突き止め、信号の強弱を加味すれば」


「へえええええ」


 マノンが感心する。メーガンはその作業の全てを端末の演繹素子が勝手にやってくれるとは言わずに、せいぜい澄ました顔を維持していた。

 数十分の格闘の末、リアンが完璧な生体論理式を突き止め、ほぼ同時にメーガンが、どの方向から信号が送られていたのかを明らかにした。


「この弁駁獣を飼っている人間は、複数いるらしい。二方向から信号が送られてきた」


 メーガンは解析結果を口にしながら、自分でも驚いていた。


「一つは、ここを統轄する農業科学研究所の肥培管理室とか呼ばれている場所だな。もう一つは、サプレス本部」


「サプレス本部? のどこ?」


 リアンが顎に手を当てながら首を傾げる。マノンもその動作を真似た。


「あそこの完璧な見取図は公表されてないからな、ただ、空間の端っこだよ」


「端っこ……。あそこは研究所とか保養施設が乱立しているからなあ」


 リアンが物知り顔で言う。メーガンは文句を言われている気分になり、


「リアンの成果を聞かせてもらおうか」


「ばっちりだよ。もう一度あの弁駁獣と出会っても平気。要は自殺させなきゃいいわけだからね、一撃で粉砕する方法を思いついた」


「どうするんだ?」


「一気に細胞を増殖させちゃうのさ。分裂にエネルギーを使っちゃって、自殺するどころじゃなくなる。そうすれば数秒でオダブツ」


「そう上手くいくのかね」


 メーガンは肩を竦めた。リアンは鼻息荒く抗弁したが、まさかもう一体見つけて駆除する元気は、二人ともに残っていなかった。あの怪物の脅威は、見た目のおぞましさにあった。できれば二度と遭遇したくない。


「それにしても、サプレス本部かあ。研究所の要請でも受けて、監督してたのかなあ。やばい代物だからね」


 リアンは考え込みながら言った。メーガンもその線だと思ったが、そう言えばマティアスはメーガンに調査報告書を提出してくれていた。

 とてつもなく面倒だったのを覚えているから間違いないが、紙の書類を端末で撮影して取り込んでいたはずだ。検索にかけると間もなく、探偵マティアスの調査報告書が出てきた。


 その中で注目したのは、この低層公園の所有者に関する調査についてだった。農業科学研究所の詳細が記載されている。

 もちろん財務情報や立地になど興味はないが、記述の中に、弁駁獣に関するような研究内容は書かれていなかった。サプレスの協力を仰ぐとしたら、公的な研究に限られるのではないだろうか。 


 それに、持分権には当然のことながらサプレスは関与していない。更に、サプレスから安全指導を受けていたとしたら、両者共に国際機関であるがゆえに、特殊な協定や活動履歴が目について然るべきではないか。完璧主義者のマティアスがそんな重要な情報を書き漏らすだろうか。


 サプレス――そうだ、マティアスを殺そうとしたのもサプレスの人間だ。アゼルの信奉者の仕業かと思っていたが、研究所との関連が、急にきな臭く感じられてきた。

 マティアスは農業科学研究所の調査の後、命を狙われたのだ。そしてこの低層公園はサプレスからの信号に晒されていた。

 何を意味している。メーガンは思わずリアンを見た。少年の顔は優れない。


「……僕を置いていくかどうかで悩んでるの? もっと大胆に考えたらどう? サプレス本部にとりあえず乗り込んじゃえとか」


「だが、お前は脱獄したばかりだろう」


「命を狙われてたからね。本当はもっとゆっくりしたかったんだけどさ」


 リアンは肩を竦める。


「僕は躰も癒えてないし、マノンと一緒に逃避行を続けるよ。でもさ、アゼルに指名されたんだから、メーガン、きみは行かないと駄目だ。アゼルはきっとどこかできみを待ってる」


 メーガンは全くそそられなかった。もう一度アゼルと会ったら、きっと彼はこう言う。


「俺を殺す覚悟はできたか? お前にはその資格がある」


 そんな資格、クソ喰らえだ。バクテリアにでも喰われて木端微塵に分解されてしまえ。


「行かないと駄目――か。オレはついつい義務とか責任とかを放擲したくなる性分で」


「行かないと、行ったことも後悔できない」


 リアンは口を尖らせて、しかし真摯な目つきで、言う。


「行かないことを後悔するのは、ありもしない幻想に悩まされること。行ったことを後悔するのは、突きつけられた現実に屈した自分を憎むこと。どっちがいい?」


「突きつけられた現実に屈する? そんなことありえないな。このオレに限って」


「じゃあ、行くしかないんじゃないの? 後悔のない人生を歩もうっていうのなら」


「後悔のない人生なんて、どれほどの価値があるのか知らない。たまにはそういう幻想も必要だと思うけど」


 メーガンは嘆息した。


「現実は幻想とは違う。そこが問題だ。オレは現実を生きてる。なら現実を優先する。当然の話だ。面白味のない解釈で申し訳ないが」


「それで正解」


 リアンは笑った。メーガンは首を捻る。


「……お前、前に未来云々とか言ってただろ。ほら、サプレスに囲まれて、地下空間で色々と話をしたときのことだよ。神だ運命だと高説を賜ってくれちゃってたが」


「ああ、あのときは錯乱してたんだ、忘れてよ」


「そんなので済ませられるか。お前、あのとき、オレにアゼルの味方になって欲しかったんだろう」


「まあね」


「お前の話なんかどうだって良かったが、オレが一番気になってたのは、お前の目つきが、まるで」


「まるで?」


「……まるで、オレに同情するような、そんな目つきだったろ。どういうつもりだ、あれは」


 リアンは、少し間を置いてから笑った。白い歯があまりにも清々しい。


「同情? そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと疲れてただけ」


「本当にそうか? ならいいんだが」


 しかしリアンは、何か言いたげにしていた。メーガンは後ろ髪を引かれ続けている。だがそれを聞いたら、リアンが隠そうとしていることを聞いてしまったら、自分が停滞してしまうのではないか。そんな予感が働いた。


「サプレス本部に乗り込むには、色々と計画を練らないとな。もうたくさん無茶をやったから何をしたって怖くないが」


 メーガンは言いながら、愛車を置いてきたほうへと歩み始めた。シンクレアも一緒に来るつもりらしく、すぐ後ろを歩き始める。リアンとマノンは、リアンがこの空間に来るときに使ったビークルのほうへと歩み始めたようだ。

 メーガンはサプレス本部にアゼルがいるような気がしていた。あの男の考えていることは分からないが、潜伏先として最適なのは、天敵の御膝元、まさに相手をコケにした唯一無二の隠れ家だった。


「シンクレア、お前もアゼルと会いたいのか」


 メーガンは長身の痩せぎす女に問う。シンクレアは頷きもせず、


「会いたくはない」


「じゃあ、どうして一緒に来るんだ」


「壊す」


 メーガンは振り返った。端正だが生気をかなぐり捨てて殺気だけを纏ったような物騒な女をまじまじと見つめる。


「壊す? 何を?」


「記憶を奪った者」


「……はあ?」


「自分を知りたい」


 メーガンはしばしの間、何も言えなかった。そのまま歩き続け、ビークルに到着する。

 論理駆動エンジンを吹かし、界層飛躍の準備を進める。運転席で演繹装置が演算を終えるのを待ちながら、


「マノンは、自分の病気を治してくれたアゼルに感謝してる。お前も、アゼルに恩を感じているクチか?」


 助手席のシンクレアはしばらく答えなかった。無視されたか、と思っていると、


「恨んでいる」


 と言った。


「恨んでる? アゼルを? 差し支えなければ、事情を教えてくれ」


「救った」


「アゼルが? 誰を? お前をか?」


「そう」


「何から?」


「自殺」


 シンクレアは視線をメーガンに向けた。その揺らぐことが絶対にない視線は、明らかに病的なものを感じる。だが不快ではなかった。人懐こさや感情とは無縁の彼女から、何らかの意志を受け取った感触がしたのだ。


「――死にたかったのか、お前」


「そう」


「どうして死にたかった?」


 シンクレアは答えなかった。メーガンはしばらく待ってから、


「飛び降り自殺?」


「違う」


「首吊り?」


「違う」


「じゃあ、薬物でか」


「違う」


「ええと、あ、そっか、生体論理式を弄ったのに、あいつに修復されたとか」


「違う」


「うーん、あとは思いつかないな。分からない」


「そう」


 シンクレアは淡々と言う。メーガンは一瞬聞き逃しそうになったが、分からないという言葉に「そう」と答えるのは、彼女にしてはおかしくはないか。

 恐る恐る聞いてみる。


「自分がどうやって自殺しようとしたのか、覚えていないのか」


「そう」


「記憶喪失?」


「そう」


「いつから?」


 シンクレアは答えなかった。メーガンは一つ要領を得て、


「いつからなのかは、分からない?」


「そう」


 メーガンはこれ以上詮索するのをやめた。彼女があまりに淡々としているので深入りしてしまったが、普通に表情があって、普通に愛想笑いするような人間が相手だったら、自殺という言葉が出た時点で質問をやめていただろう。

 恐らく、シンクレアは、何を聞かれても平然と答えるだろう。そういう精神構造なのだ。ゆえに、アゼルを恨むと言った彼女に嘘はないように思える。嘘などつける人間じゃない。

 救われたことを恨んでいる。生を憎んでいる。もしかすると、アゼルは、彼女に恨まれることで彼女に生を与えているのかもしれない。


 もしかすると自分も、アゼルを恨む、それだけを糧に生きてきたのかもしれない。アゼルを殺せなかったと知ったときの自分は、それで完全な抜け殻になることはなかった。

 だがそれは、アゼルを追い続ける過程で、生きるということのレールにすっかり収まってしまって、そこからどうやって脱線すればいいのか分からなくなったからじゃないか。

 もし一二年前、家族を失ったあの夜、アゼルを恨むことができなければ、自分はとっくに死んでいたに違いない。


 ――じゃあ、ののさまは命の恩人なんだ。


 マノンはそう言った。まさしくそうだった。認めたくはないし、認める必要も、もしかしたらないのかもしれない。だがメーガンは、心の中の靄を払拭するには、アゼルに会う必要があるということも、分かっていた。

 メーガンはハンドルを激しく叩く。思考を実務的な方向に収斂させる。掌のジンジンという痛みが彼女を建設的にさせる。


「まずはサプレス本部の敷地内を調査して、見取図を不完全でもいいから入手しないとな。潜入方法は界層飛躍で強引にリーパーを捻じ込むか、職員にでもなりすますか、あるいはお前に何か妙案が」


「突っ込む」


 シンクレアは正面を見据えていた。狭苦しいビークルの中で、彼女は背筋を伸ばし、ルーフに頭髪がこすれていた。


「あん? 突っ込む?」


「正面から」


「……おいおい」


「行けば分かる」


 そしてシンクレアは長い腕を使って発進シーケンスを承認、装置が演算を始め、メーガンは真っ青になった。


「行けば分かるってどういうことだよ! お前頭がどうかしてるんじゃないか! てゆーかオレは手動入力派だから自動制御プログラムをまともに調整してねえんだよ! とんでもねーところに不時着するぞ!」


「もう遅い」


「お前、滅茶苦茶――」


 ビークルが揺れた。計器類が明滅し一部が破損する。分厚い界層を無理矢理突っ切ろうとするので車体が軋む。自動制御という名の蛮勇がスペックも考えずに果敢に調整する。こんなことなら、もうお前は旧式なのだから無茶をするなと念を押しておくべきだった。オンボロをチューナップしたおかげで平気で車体を危険地帯に捻じ込む。


 もう真っ逆様だな――メーガンは同道者を間違えたと後悔した。不思議と笑いが止まらなかった。



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