シンクレア登場
アゼルには三人の弟子がいるとされている。リアン、マノン、シンクレアだ。
メーガンまで弟子にカウントされてしまったら、弟子が四人ということになるが、もちろん彼女は弟子の自覚などなかった。
三人の弟子はいったいどういう経緯でアゼルの師事を受けることになったのか、それぞれ事情は違うようだが、マノンは元々いたって平凡な家庭の娘だったらしい。
その美貌ゆえに町では有名だったのだが、一〇歳の誕生日を間近に控えたある日、突然意識を失い、奇病に罹患していることが明らかとなった。
躰の成長が止まる原因不明の病気。それに伴う激烈な症状。染色体の塩基配列に異常があるだの、些細な循環論証が生体論理式をおかしくさせているだの、論理世界との反発で違う時空に生きているだの、その奇病以上に異様な奇説が次々浮上した。そんな状況で治療法など見つかるはずもなかった。
病勢が強まり、免疫系が機能せず、一日中魘されている彼女を救ったのはアゼルだった。
彼は一言、
「メーガンのと亜種だな」
と言った。
そのときマノンは意味が分からなかったそうだが、メーガンという謎の女性の名前は深く脳裏に刻み込まれた。
その話を聞いたとき、メーガンは、アゼルは全てを知っていたのだと愕然とした。
あの男は、一二年前、論理兵器によって生死の境を彷徨ったメーガンが特異な躰を獲得したことを、察知していた……。
怒りが湧き起こってくる。あの男は知っていた。ベルトに縛られなければまともに歩くことさえできないメーガンの傷を、知っていた。
「亜種ってことは、メーガンも、あたしと似たような病気だってことでしょう? ののさまに治してもらったの?」
無邪気にマノンは尋ねてくる。メーガンは首を横に振った。
「治してなんかもらってない」
「あたし、こう見えても一八歳なんだけど、メーガンも実は四〇歳超えているとか? 躰の成長が止まってるんでしょう?」
「ピチピチの二二歳だよバカヤロー。成長なんて止まってねえよ。オレの疾患はな……」
メーガンは右手首のベルトを緩め、大いに緩め、とうとう解き放った。不思議そうな顔をしていたマノンも、その手首の異常を見るにつけ、
「脱臼した……?」
ベルトを外されたメーガンの手がぶらりと垂れ下がった。全く力が入らず、指先に神経を集中させてもぴくりともしない。
メーガンは冷ややかに自分の躰の異常を見下ろしていた。
「関節は外れていない。ただ、関節の部分で、論理式が途切れているんだ。それをベルトで補っているということだ。これがないと、関節より先が全く動いてくれない。特に首のベルトが外れたら全身が動かなくなって意識さえ飛ぶことがあるから、首のベルトだけは鍵がないと外れない造りになっている」
へええ、とマノンは感心した。同情するわけでも、顔を顰めるわけでもなく、ただへええと言ったのだ。子供らしい反応だった。本当に一八歳か?
「じゃあ、首を何年もまともに洗ってないってこと?」
そこを尋ねるか。メーガンは面白く感じている自分に気付いた。
「年に一回、ベルトを取り換えてる。突然切れたら困るからな。馴染みの医師がいるんで、そいつにやってもらってるんだが」
「その人、女?」
「男だ」
「じゃあ、首のベルトを外されているときに襲われちゃったら、一たまりもないね」
「女だからって安心できないけどな。性倒錯なんて珍しい話じゃないし」
「なるほどー」
マノンは何度も頷いていた。何に納得しているのか知らないが、メーガンは自分でも、どうしてこんなことを初対面の女に話しているのか分からなかった。
マノンはアゼルに救われた子供だ。奴を崇拝するのは分からないでもない。しかし自分は、あの男に暮らしの平穏を奪われたのだ。憎んで当然。
ところが憎み切れていない。矛盾している、とまでは言わないが、傍から見たら自分は何も考えていない阿呆として映るのではないだろうか。呆れてしまう。
「ねえ、メーガン。生まれつき、そんな躰なの」
「……いや」
「メーガンがののさまを殺そうとしてるのって、そんな躰にされたから?」
さすがに気付くか。話したこと自体は少ないが、単純な思考を好む者ほど、少ない情報を繋ぎ合わせて真実に辿り着くことがある。
「どうだろうな……。家族をあいつのせいでいっぺんに失っちまったってのほうが大きいだろうな。まあ、誰も彼も、自分が死んだなんて気付いてないだろうけどよ」
「ののさまが殺したの?」
「いや。あいつは追われていたんだ。所属していた組織から抜け出したんで、殺されかかっていた。オレの家族はその巻き添えを喰らった。もし、アゼルがオレを庇わなきゃ、オレも死んでたろうな」
「じゃあ、ののさまは命の恩人なんだ」
マノンは嬉しそうにしていた。自分の好きなスポーツ選手が活躍して喜んでいる子供みたいな表情だった。
命の恩人。ある意味では、そうだ。しかしもちろん、そんな無邪気な考えができるはずもなかった。アゼルだってそんなことを期待していないだろう。
だが、どうして今「アゼルが庇わなきゃオレも死んでいた」なんて余計なことを言ったのだろう。マノンに遠慮したのか。よく分からない。
マノンは得意げである。メーガンの陰鬱な気分に構わず、腰に手を当て、その美貌ゆえに演技がかった調子で、
「ののさまがやることは、いつだって正しいんだもん。メーガン、信じてくれるよね。ののさまが世界の救済の為に動いてるって」
さっき聞いた「アゼルの目的」。メーガンは突飛な話過ぎて、信じることができなかった。
煮え切らない態度に苛立ったか、マノンは頬を膨らませた。
「もっかい説明しようか? もう、メーガンったら、世界の危機なのに、そんなぼんやり構えちゃって」
「もう説明しなくていい。理解したから。でも、正直お前から聞いても……」
「あたしの言葉じゃ信用できないっていうの! メーガン、酷いよ! 酷いや酷い!」
マノンは、涙こそ流さなかったが、肩を震わせて悶え始めた。メーガンは肩を竦める。
「分かった、分かった。もう一回聞かせてくれ。ちょっと考えたいんだ」
マノンが嘘をついているとは思わない。しかし、アゼルが世界の救済に動いているという部分はともかくとして、何が世界を破滅させようとしているのかという部分には、疑問を感じざるを得なかった。
マノンが何ともあっさりと話すには、
「世界は病気」
とのことだった。
「神の論理は実世界を構築しているよね。人類が論理学を知り、学び始めるよりもっと前から世界は論理によって成り立ってた。けどその論理には誤謬があり、その欠陥が、世界を破滅に導く可能性を秘めている」
それがマノンの主張だった。確かに論理の瑕疵はその理論全てを破滅に導く可能性がある。
だが、それが世界を構築する神の論理にまで当て嵌まるとは思えなかった。何千、何万年という月日、確乎として世界は在り続けたのである。そんな不安定な論理であるはずがない。
「誰だか知らないけれど、その誤謬を『証明』してやろうっていう物好きがいるみたいなんだよね。そんなことしたら実世界が矛盾して消滅、全ての論理世界だって消えちゃうのに。何を考えているんだが」
そこだった。メーガンが疑問に思ってしまうのは。神の論理には誤謬がある、とは昔から有名な話だったが、その誤謬を誤謬であると完璧に証明した者は未だかつていない。
ある論理学者は、原理上証明は不可能であると断じた上で、だからこそ実世界を支える神の論理は不壊なのだ、と物知り顔で解説していた。
そもそも、理論が完成しなければ論理世界は構築され得ず、誤謬がある論理で実世界が存在できてしまっている現状は、あまりにも奇妙であった。明らかに、人間の用いる論理と神の論理は異質のものである。
一見したところ神も人間も同じ論理記号を用いている。だが細部の異同から、実は神だけの隠された論理記号があるのではないかと睨む一派があると聞く。彼らはそれさえ見つけることができれば神の論理の誤謬を是正できると考えているが、どうだろう。
マノンは言う。
「ののさまは誤謬を『証明』しようなんて思ってない。穴を埋めて『補強』しようと思ってるの。そうすれば世界は未来永劫安泰だかんね。でも、その為には、現存する幾つかの理論を破棄する必要があるみたいで」
「その為に戦争を引き起こし、世界の秩序に皹を入れてるってんだろ? それで、上手くいってるのかよ」
もう答えは知っているのに。意地悪な質問だった。
「あんまり……。前進はしてるみたいだけどね。でも、最近は、やばいことになってて、時間が足りないみたい。きっと神の論理の誤謬を『証明』しようとしている輩が、追い込みに入ってるんだよね」
「ほう……」
メーガンは論理学者として、少なからず興味があった。本当に誤謬の証明などできるのだろうか。アゼルが慌てているのなら、信憑性がかなりある。
本当に誤謬があることを証明したなら、世界は潰えるのか。神の論理さえも人間の論理によって覆されるのか。
もし神の論理が否定されたなら、この世には何が残るのか。神だけか。神はまた理論を構築して、新たな世界を建築するだろうか。今度も人間に論理の力を与えるだろうか。それとも論理とは全くかけ離れた違う力で世界を構築するか。物理力のようなよほど「真っ当な」力だけを用いるか。信仰のような神秘の力を世界の基幹とするか。
メーガンは好奇心の隆起を感じ、自分はアゼルと会わなくとも論理学者になっていたかもしれない、と初めて思った。自分はあの男に導かれて論理の世界に入ったと思っていたのに。この躰だって論理学を究める為にあつらえられたようなものだ。
「ののさまと正面から戦ってる人がいるみたいでね。相当な権力者らしいよ。この間、ののさまグチってたもん――数の力ってのは馬鹿にならない――って」
メーガンはそれを聞いたとき、何か引っかかるものを感じた。権力と聞いてサプレスを連想した自分も、単純な思考を好むらしい。
権力なんてどこにでもある。権力の特徴の一つに「偏在」がある。権利あるところには権力が生まれるものなのだ。
権利を売る者、譲る者、買う者、奪う者、束ねる者、創る者、壊す者。アゼルが戦わなければならないのは、権力を生み出すことになった人間社会のダイナミズム、すなわち世界そのものだ。
メーガンはなぜだかそのように感じられ、サプレスと戦っているのだとしたら、まさしくその通りだろう、と思った。
「ね、ね」
マノンは沈思するメーガンの正面に立ち、その直視するだけでこちらが気後れしてしまうような完璧な相貌を、惜しげもなく突き出してくる。もっと出し惜しみしなよと言いたくなる。
「リアンくんを一緒に助け出してくれるでしょ? だって、メーガンだって、リアンくんのこと、可愛いと思ってるくせに」
「可愛い? いや、あんな生意気なガキ、ムショで不味い飯食ってニキビでもこさえたほうが世の中のバランスってもんが少しはマシになって皆から好かれるんじゃないかな」
「うん? ええと、それってリアンくんが凄く可愛いって言ってるの」
「どうでもいいけど、リアンはサプレスに捕まってるんだろうが。どうやって助け出すってんだよ」
「もちろん、脱獄させるんだよ」
「不可能だ。本部に乗り込んで牢を破るのか? アゼルを暗殺するより難しいぜ」
「でも、メーガンは、ののさまを殺しかけたって聞いたけど」
メーガンはマノンの無垢な瞳を覗き込み、そこに非難が欠片も混じっていないことに驚き、反射的に頷いていた。
「まあ、そうだが……。いやだから、それより難しいから無理だって言ってるの」
「ののさまは言ってたよ。俺を殺せる奴は何でもできる」
自信過剰だな。いや、マノンにそれを言ったのはいつだ? 場合によってはメーガンに宛てた励ましの言葉という可能性もある。
考え過ぎだろうか。いやいや、あの男はそういう奴だ。ほとんど話したこともないのに分かった気になっている自分は重症だろうか。
「とにかく、ここはあたしと一緒に行こう。ね? リアンくんを助けに」
「どうするつもりなんだよ……」
メーガンは一八歳だと自称するマノンをまじまじと見つめた。この少女には本当に考えがあるのだろうか。サプレス本部は特殊な構造をしていて、屋根に穴を開けて侵入しますなんてレベルの計画では話にならない。
「大丈夫。あたしだってののさまの弟子なんだから」
そもそも、弟子って何なんだ。アゼルが懇切丁寧に論理学の神髄を叩き込んだというのか。だったら多少は役に立つかもしれないが、どうも怪しい。
「オレは手伝うって決めたわけじゃねえからな」
しかし事実上、マノンの世話をアゼルから押し付けられたも等しい。アゼルが今どこで何をしているのか。マノンと一緒にいればまたあの男と会えるかもしれない、少し期待してしまっている自分が、何とも浅ましく感じられた。
* *
リアンが目を覚ましたとき、真っ先に視界に入ったのは、青みがかった天井だった。
すぐに、天井が青色なのではなく、顔半分を覆うレスピレーターのプラスチック材が視界を遮っているだけだと気付いた。右腕には翼状針が刺さり、チューブに繋がっている。
寝台の横に点滴瓶とその台が置かれている。腕を動かすと台が揺れたので、慎重に躰を起こす。
そこは個室だった。独房より普通の病室に近い。ただし、酷く殺風景で、窓はなく、扉の近くの椅子には見張りの男が椅子に腰掛けて雑誌を読んでいた。表紙がちらりと見えたが男性誌のようだった。
人工呼吸器を邪魔臭く感じ、外そうともがくと、見張りの男が気付いた。にやにやしながら立ち上がる。
「固定してあるから外れないよ。美味しい酸素を頂きな」
リアンは気付いていた。送り込まれているのは圧縮された酸素だけではない。筋弛緩剤。微量だから倦怠感があるだけだが、古くは毒薬として使われてきたものだ。
論理式の解析によりそれを知ったリアンは、拮抗論理式の構築に早速入っていた。思考は鈍ってなどいない。この部屋に流れているオペランドを利用すれば、数時間かけて完成させることができるだろう。
リアンは曖昧な笑みを浮かべた。
「酸素を美味しいって感じるわけがないだろう。馬鹿じゃないか。それともきみの舌は錆びるように出来ているのかい」
男は笑った。そしてリアンの額を拳で殴り、寝台に押し付ける。
「くだらねえこと言ってねえで、寝てろよ。取り調べが始まるまでおとなしくしてな」
「僕はピンピンしてる。今すぐにでも取り調べには応じられるよ。何をモタモタしてるの?」
リアンは男の表情を注視していた。そして察知する。この男は何も知らされていない。ただ見張りに選ばれ、この味気ない仕事に嫌気が差しているだけだ。
男はもったいぶるように、ゆっくりと、
「知るかよ。細則が色々とあるんだろうよ。まあ、仮に知ってたとしても、言うわけねえだろう、お前みたいな犯罪者に」
犯罪者――そうだ。リアンも色々と罪状をでっちあげられて、一級の犯罪者に仕立て上げられたのだった。
アゼルがしたことは明らかに犯罪だろう。だが、少なくともリアンやマノンは罪など犯した覚えがないのに、指名手配され、賞金まで懸けられている。
国際警察機構サプレスは、正義を標榜しながら悪を厭わぬ、単なる暴力装置だ。前々から分かっていたことだが、この世に頼れるものはアゼル以外にないのかと絶望してしまう。
リアンは顔を背けた。
「力が入らないんだ。ケンカなんかできる状況じゃない」
「そうだろうよ。ふん。おとなしくしてろ」
別に暴れたわけじゃないのに、殴りやがって。リアンは不満に思いつつ、何とか仕返しする方法はないかと考えたが、今は筋弛緩剤の無効化のほうが先決だ。怒りや憎しみなんてものは人間の役になんか立ちはしない。そう自分に言い聞かせる。
見張りの男は扉の近くに戻り、椅子に腰掛けた。足を組み、雑誌をつまらなそうに捲る。
リアンはそれを目視してから、本当にレスピレーターは外れないのかとこっそり弄った。どうやら吸着論理式が生体論理式に浸潤しているらしく、無理に剥がせば肉が破れるだろう。
メーガンが仕立てた公理罨法ほど厄介なものではないが、安全に外そうにも多少の腕力が必要になりそうだ。やはり筋弛緩剤をどうにかしないと。
リアンは神経を集中させた。寝台に横たわり、頭の中に論理式を並べて、まずは命題論理の領域で骨格を形成し、細部を述語論理の領域で詰め、階層を上り下りする。
数百もの命題が互いの複雑な関係に活発な動きを見せ、特定成分と反発する微細な「網」を形成、拮抗論理式としての性質を帯び始める。試験的に自らの肉体に適用すると、筋弛緩剤の効力が薄まった気がした。
もっと精緻化すれば、完全に影響から脱することができるはずだ。リアンは作業速度を速めていった。
部屋には窓も時計もなかったし、リアンの持ち物は当然のことながら没収されていたので、どれほどの時間が過ぎたのか分からなかった。見張りの男が何度も欠伸した。
一欠伸一五分というとてつもなくいい加減な概算をしたリアンは、三時間強ほどかけて、筋弛緩剤を無力化した。躰が回復するのにまだしばらくかかるが、これでいざというときに力が入らないということを避けられる。
いざというとき――それはいつだろうか。無事に釈放されるなら、無用な努力だ。だが、用心というものの九割以上は取り越し苦労に分類される。
他にすべきことがないのだし、無駄なことをしているという感覚はなかった。リアンは作業を終えたとき、体力を回復させる必要性を感じ、すぐに瞼を閉じた。
浅い眠りに落ち、再び瞼を開けたとき、異様に眼が冴えていた。間接照明の青白い光が視界の隅をちらつき、見張りの男が違う雑誌を興味深そうに読み込んでいるのを一瞥した。
空気は冷え、顔面を覆うレスピレーターは呼気によって湿り、鼻の辺りが凍えているような気がした。点滴瓶の水面が上がっており、中身を取り換えたらしい。
いつ取り調べが行われるのか――リアンは考えた。思考は鋭敏であり、今ならどんな受け答えもできそうだった。しかし躰は怠く、筋弛緩剤の吸入量を多くしたか、種類を変えたか。論理式の細工を見抜かれたのか。
考えてみれば当然の話だ。サプレスは論理犯罪者の取り扱いには慣れている。大人しくさせておく方法にも熟達しているだろう。
「起きたのか?」
男が寝台に近付いてきた。よく見れば先ほどとは違う男だった。線の細い印象で、目が魚類のように大きく、瞬きをほとんどしない。
「ああ、まあね」
「昏睡するように薬剤を調節したんだがな……。耐性があるのか」
リアンは頷いた。
「ああ、そうかもね。こういう仕打ちには慣れているから」
「……そうか。じゃあ、もっと量を増やすしかない」
リアンは怪訝に思った。眠らせておきたい、というのか? いったいどういう目的で?
その表情を察したか、男は口元を緩める。
「なるべく穏健な方法が良いと思ってね。だって、そうだろう。我々はサプレス、正義を敷衍させる者だ」
「安らかに眠ってる市民を見守るのが生き甲斐だなんて言わないよね」
「無用な苦しみを与えることは、正義とは言えないだろう」
無用な苦しみ――何に際しての?
リアンは起き上がろうとした。しかし男は寝台に躰を載せ、腕をリアンの首に当てて動きを封じた。
息が詰まる。レスピレーターが圧縮空気を送り込んできて喉が膨らむ。胸の痛みが意識を遠のかせる。
「看護官による薬剤調整のミス――死に方としては最も穏健。そうじゃないか、リアン? 確実に死ねるんだぞ、それも安らかに? 一般市民じゃあまず許されない。安楽死は法律で規制されているからな、分かるか、お前は幸福なんだよ、幸福」
躰の自由が利かない。爪で男の腕を引っ掻いたが、ほとんど力が入らずに、男の痒いところを掻いてあげているような形になった。
息ができないどころではない。気道が破裂して爆死してしまう。もちろんそんなことは起きないが、顔が熱くなり、全身から力がますます抜け、視界が霞んできた。
「お前さえいなければ……。アゼル様は依然安泰……。お前さえ何も話さなければ……」
リアンはそれを聞いて怒りを覚えた。貴様がアゼルの何を知っているというのだ。アゼルに尽くしているつもりなのか。周りをうろつくだけのお前が、虻蠅以上に有価値な存在であると本気で信じているのか。
歯を食い縛った。右腕に繋がる針、点滴される栄養剤、オペランドの流れを読み取り、エントロピーに干渉する。
理に反するエントロピーの減少。局所的な熱の集中。瞬間的に沸騰し、気化し、膨張し、リアンは腕に流れ込む液体が爆発的に増えたのを感じた。
それでも殺し切れない気体の膨張。ほぼ意識を失いかけながらもリアンは実行した。
点滴瓶が爆裂し、破片が飛び散る。男が悲鳴を上げた。
リアンは喘ぎながら呼吸を再開した。意識を失いかけていたが、レスピレーターが強引に空気を送り込み、肺が膨らむ。
男は全身ガラスまみれだった。床に尻餅をつき、か細い悲鳴を上げている。両目を瞑っているところを見ると、目にガラスが入ってしまったらしい。ざまあみろだ。
しかし、リアンはなお自由が利かない躰にうんざりした。針を抜いて立ち上がろうとすると眩暈がする。寝台から下りることさえできない。思考は冴えている、ゆえに焦りが募る。
「惨殺する」
男は呻いた。リアンはそんな彼を見下ろし、戦慄を覚えていた。自分は今戦闘できる状況じゃない。元々、あまり荒事は得意なほうじゃない。
男は血に滲んだ片目を押し開け、唇を噛み破いていた。
「ぶっ殺してやる。アゼル様に纏わりつく害虫め。何が弟子だ。足手纏いの間違いだろう」
男は立ち上がった。そして腰に吊るしていたホルスターから拳銃を取り出した。銃口はリアンの腹に向けられている。
「殺してやる。害虫はさっさと駆除しないとなぁ――」
「それはオマエ」
リアンは目を疑った。男の背後に長身の痩せぎすが立っている。青い長髪。下着のようなベージングスーツを纏っただけの、ほぼ裸の女性。骨張った躰からは生気が感じられない。
凄絶な双眸の光。死んだ家畜でも見るかのような眼差し。男は振り返る。
「誰だお前は――」
「テロリスト」
女はあっさりと言い、その白くしなやかな手指を男の眼球に突き入れた。何の躊躇もなかった。
男は絶叫し、仰け反った。床に転がった男を、裸足で踏みつけた女は、明らかに急所を狙っていた。三度目の蹴りで下腹部を強打し、なお蹴り、蹴り、蹴り、下穿きに血が滲んだところで漸くやめた。
リアンは唖然としていた。
「シンクレア……。また痩せた? どうやってここまで」
青き髪のアゼルの弟子、シンクレアは、身悶えする男を汚物でも見るかのように一瞥してから、リアンに向き直った。その眼に優しさなど皆無で、いつものことながら少年は苦笑を浮かべるしかなかった。
「行くよ」
「シンクレア、助けに来てくれたんだね。でもどうやって逃げるの。ここはサプレス本部の最奥も最奥、逃げ場なんて」
「支度して」
シンクレアはそう言ったきり、押し黙ってしまった。リアンは思い出した――シンクレアとは数年ぶりに会ったが、彼女は返答に二秒以上を要する質問を全く無視してしまうのだった。それでいて完璧主義者だから、中途半端な返答で誤魔化すということを知らない。
彼女と会話するときは、尋問官になったつもりで。アゼルはよく言っていた。
「呼吸器が取れないからさ、外してくれる? あ、皮膚を破かないように」
シンクレアは論理式の破壊に熟達している。多くの優れた理論を破壊し、論理学の発展を一〇年遅らせたとも評価される正真正銘の犯罪者である。
建設的な作業には向かないが、論理式を崩すのはお手の物だろう。リアンの思惑通り、シンクレアはものの数秒でレスピレーターの論理式を破壊し、灰塵へと変貌させていた。
リアンは咳き込みながらも寝台から下り、躰の調子を窺いながら何とか歩いてみせた。
「でも、本当に、どうやって逃げる気? っていうか、どうやって入ってきたの。壁を擦り抜けてきたとでも?」
リアンがそう言ったのは、部屋の扉が施錠されたままであり、シンクレアが普通の方法で入ってきたとは考えられなかったからだ。
シンクレアは一言、
「ずっとここにいた」
と言った。
それだけでは意味が分からない。ずっとここにいた? リアンが運び込まれるまで、ずっといたってことか? そんなこと不可能だが、詳しく聞く時間がなかった。
部屋の外で激しい足音がして、扉の錠を外そうとする物音が続く。リアンは大いに慌ててしまった。
「どうやって脱出するの、脱出しても追われるよ、避難場所は考えているの?」
「全員殺す」
追手は皆殺し。シンクレアは本気でそう言っているのだ。リアンは目の前の女性ほど偽証からかけ離れた人間を知らなかった。ゆえに慌てた。
「そんなの、無理に決まってるだろ。シンクレア、きみはいっつもそうやって説明を省略しちゃうから、マノンにも冷血な人間だって誤解されるんだ」
「誤解じゃない」
扉が開いた。中に踏み込んできたのは二人の男だった。リアンとシンクレアを見てもさして驚かなかった。むしろ安堵した雰囲気さえあった。
「無事だったか――」
「よくぞ無事で――」
二人の男は同時に溜め息をつき、リアンとシンクレアは顔を見合わせた。男の一人が、聞かれもしない内にぺらぺらと喋る。
「見張りが勝手に変わっていたことに、ついさっき気付いてね――しかも交代を申し出たのは前々からマークしていた人物で、いやあ、冷や汗掻きました」
「デンホルム、余計なことを言うな。……きみは誰だ?」
男が怪訝そうに睨むと、シンクレアは胸を張った。酷く痩せているくせに、そこだけは女としての主張が激しかった。
「シンクレア」
彼女は嘘をつくということを知らない。沈黙して欲しいときに喋ってしまうという奇跡的な間の悪さ。さっきみたいにテロリストとでも言ったほうがマシなのに。無垢で純真で、ある意味三人の弟子の中で最も素直だ。
二人の男の表情が一変する。
「シンクレア――」
「アゼルの弟子の? あの凶悪な」
「脱獄する」
シンクレアは高らかに宣言してしまった。二人の男はまたぎょっとして、扉の奥に退散しようとした。
だがシンクレアのほうが速かった。
シンクレアの扱う論理式はシンプルである。電撃。自らの神経系を刺激し、論理構築を理想的な速度で実行、論理世界上での戦いならば超人的な速度でその体術を披露することになる。
二人の男の鳩尾を肘で打ち、悶絶するサプレスの捜査官の首を容赦なく蹴飛ばした。
殺してはいないようだが、しばらく気を失ったままだろう。リアンは少しだけ安心した。
「殺してはいないんだね。全員殺すとか言ってたのに」
「殺す」
シンクレアがなおも二人に攻撃を加えようとしたので、リアンは慌てて間に入った。
「待った! この二人は僕を助けようとしてくれてたんだよ。このまま放っておこうよ」
「……別に構わない」
シンクレアは淡々と応じ、部屋を出た。人の頼み事は結構聞いてくれる人なのだ。きっと心の芯には優しさが詰まっているに違いない。リアンは足を引き摺りながら、彼女に続いた。
いったいどうやって脱獄なんかするつもりだろう。それが不思議で仕方がなかったのだが、シンクレアの肩越しに見える世界は、サプレス本部内とは似ても似つかなかった。
「え?」
リアンは気付けば薄暗い部屋に立っていた。
木の樽が棚の上や壁際にずらりと並んでおり、蜘蛛の巣が部屋の隅に張っている。照明は驚くべきことに本物の水銀灯であった。論理式で表現すれば数百倍の能率で実現できる明かりを小さな部屋に与えている。
リアンは周辺を見回し、これはアゼルが開発した論理兵器〈ディガー〉の仕業だ、と気付いた。
双曲空間上でのみ完璧に表現できるそのサプレス本部の建築構造の間隙を四次元的に縫い、警報装置を擦り抜けて目的の空間と既存の実世界を連結してしまうという、荒業中の荒業。いわばトンネル掘りだ。
数日で論理世界の掘削が完了するわけはなく、きっとシンクレアかアゼルのどちらかが、前もって用意をしておいたのだ。弟子の誰かが捕まったときに速やかに救出できるように。
リアンは微笑していた。アゼルはだから、あれほど簡単に少年を切り捨てて、先に進むことができた。どうでもいいと思っていたからじゃないんだ。
意外とその点を気にしていたことに初めて気付き、リアンは微笑みに苦々しさを加えた。シンクレアは部屋の隅に転がっていた樽をぽんぽんと叩き、呟いた。
「探知された」
あまりにあっさりと言ったので、危うく聞き逃すところだった。リアンは首を傾げる。
「何だって?」
「探知された」
「サプレスに? 連中が追ってくるってこと?」
「皆殺し」
シンクレアは淡々と言う。そして試すようにリアンを見る。
――そうか。まだ逃げられたわけじゃないんだ。
リアンはまだ動きの鈍い自分の躰を忌々しく思った。そして少しだけ、断食と減量を欠かさないシンクレアの気持ちを理解した。きっと彼女はもっと軽く、機敏に、精神だけの存在になって、論理学の神髄に近付きたいのだ。
素直な彼女のことだから、きっと、自分の肉体なんて実世界に撃ち込まれた楔のようなものとしか考えていないに違いない。
でも、ここは実世界。神の論理が支配する、肉体と標準物理の、重苦しい世界だ。
「行くよ」
シンクレアは階段を昇り始めた――どうやらここは地下室らしい。天井の木板を押し上げると、光が漏れ入ってきて、人の話し声も聞こえた。
まだ安全じゃない、そんなことは分かっていたが、サプレスの治療室で首を絞められた恐怖が蘇ってきて、誰かに縋りたかった。自分の足だけじゃ、まともに立っていられない。
シンクレアはあまりに薄着であったので、服を引っ張って引き留めることもできなかった。細い腕を掴み、彼女が冷たい眼と共に振り返った。
「どうした?」
「手、掴んでちゃ駄目かな? 分かるでしょ、震えてるんだ」
「邪魔」
シンクレアは手を振り払った。リアンはよろけたが、シンクレアの長い手が襟を掴む。
「こっちが掴む」
シンクレアはリアンの手首をしっかりと掴み、少年の躰を引き上げるように、階段を上がっていった。
彼女の手は氷のように冷たい。時々ピリピリと痺れているような感触がある。
確かに、震える手じゃ、いつ離してしまうか分からないもんな――リアンはシンクレアの簡明な思考が好きだった。憧れなのかもしれない。純然な数理を扱うのに彼女の思考は最適のように思われて、それなのに彼女は壊すことしか知らない。
きっと、壊さなければならないほど醜い論理式が悪いのだろう。リアンは確信していた。




