もしかしたらの未来 シリウス・ゲルハイム
ゲルハイム領の片隅にある、ゲルハイム領主の邸の一室で、細君の出産がいままさに佳境を迎えていた。
遠くで馬の嘶きが聞こえると同時に聞きなれた男性の叫び声にも悲鳴にも似た怒号が領主夫人である都の耳に聞こえた。
都は一定間隔で襲いくる腹の痛みに耐えながら、奥歯をギリリと食いしばる。
しばらくして、あわただしい足音と同時に部屋の扉が開かれた。
「ミヤコ…!!」
現れたのは、都が住んでいる豪邸の持ち主で、彼女の夫でもある、シリウス・ゲルハイム。彼は亜麻色の髪を振り乱し、油汗を額に浮かばせ痛みに耐えながらベッドに横たわる妻へ走り寄る。
彼も相当急いでこの邸へ馬を走らせたのだろう。常ならばキッチリと閉められた上着のボタンが1段ずれて止められているうえに、直前まで書類仕事をしていたのだろう、袖口にベッタリと黒いインクが付いていた。
「どうか、どうか耐えてください!あぁっ、わたしが代わって差し上げられればよいのですが…!」
「……ぃ」
「ミヤコ?」
首をかしげたシリウスをきつく睨みつけて、都は声を荒げた。
「うっさいつってんのよバカ旦那!なにもできないなら、産婆さまのお手伝いでもして差し上げなさいよ!」
「すまない…!」
「旦那様、ここはわたくしどもがおりますので、お部屋の外でお待ちください」
部屋に控えていた古参の侍女に促され、シリウスはチラチラと都を気にしながら部屋を出ていく。当の都はすでに意識にシリウスはおらず、腹の痛みを逃すためにラマーズ呼吸に専念をしていたのが、部屋で慌ただしく動き回っていた他の侍女には、さぞ哀れに見えたのだろう。
シリウスを連れ出した古参の侍女は、部屋の外に出て肩を落としている主へ苦笑する。以前ならば、感情を失ったのかと思ってしまうほど、表情に動きのない方だった。それでもごくわずかな、親しい数人に対してのみ僅かな感情の機微を感じ取らせていたのだが、ここまで大っぴらに落胆したり、焦ったりしている様子を見せるような方ではなかったのだ。
古参の侍女は、不敬ながらもそんな主の様子に、密かに胸をなでおろした。
王都で出会った方と結婚をしたらしい、との事後報告に領主邸宅に勤めていた使用人が誤報ではないのかと何度も王都邸宅に問い合わせた。5度目の問い合わせで、シリウス本人が妻を伴って領の邸宅へ戻る知らせを聞き、古参の使用人たちはどうか彼が人間の女性を連れて帰ってくるように、と毎晩祈っていた。
そんな彼女たちの祈りを聞き届けたのか、シリウスが伴ってきたのはれっきとした人間の女性だった。
玄関ホールでそれを確認し、もろ手を挙げて拍手喝さいを、心の中であげていたことをおくびにも出さず、執事頭、侍女頭、それぞれが一斉に頭を垂れた。
しばらくして、主が永久の愛を約束した彼女が、実は稀有な経歴の持ち主だとわかったのだが、それを知って、邸の者は全員得心が言ったと顔を見合わせて苦笑したものだ。
「旦那様、女性というものは子供を産む時、我を忘れるほどに必死なのです。あまり、奥さまのお言葉を気になさらないでください」
「ミヤコ…」
彼女の言葉を聞いているのか、いないのか。切なげに、閉じられた扉を見つめるシリウス。
以前ならば考えられない姿だし、今もまだ夢ではないかと疑っている古参の侍女は、おそらく主がここから離れないことを察して近くの部屋から椅子を運ばせ、彼を座らせる。
「お子様が初めて会うお父様の姿がこのように情けない姿だと、悲しまれますよ。それに奥さまは大仕事を終えてお疲れになっているのに、見苦しい姿は嫌がられますでしょうね。奥さま、旦那様の凛々しいお姿もとても素敵だと以前おっしゃっていましたのに…」
なんて適当なことを言って、インクのしみがついたシャツを着替えさせ、上着もきれいにボタンをとめて、立派なゲルハイム公爵当主を仕立て上げた。
その瞬間、部屋の中からか細い泣き声が聞こえ、やがてその声は大きくなり、シリウスが忙しなく扉の前を8往復したころ、ゆっくりと、待ちに待った扉が開かれた。
「ミヤコ!!」
扉を壊さんばかりの勢いで部屋の中へかけていく主の背を見送って、椅子を片付け始める。
「ミヤコ、お疲れ様です。よく、よく無事にいてくれました…!」
「ばかね…あなたと、この子をおいていかないわよ…」
その日、シリウス・ゲルハイムとその妻ミヤコの間に第一子が誕生した。
後日、古参の侍女は都の
「もし、部屋に駆け込んできたままの袖にインク付けた服だったら、この子を抱かせるの嫌がったかも」
という言葉に、己の行動が間違いではなかったことを確信した。