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紅い月  作者: 麻道 傾
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冬のある日 3

 喫茶店「FLOWER」それが俺が毎日のように通う店の名前だ。英語で「花」が由来。単純といえば単純だが、春になると正面の公園に咲いている桜をこの店の中から見るという花見客も増えるため、合っているといえば合っているだろう。

 要するに「可もなく不可もなく」というところだ。

「FLOWER」という明るい名前だけあって、店内は白を基調とした明度の高い色で統一されている。ただ、店内にある植物が観葉植物だけで花と呼べるものが一切ないのにはさすがに苦笑せざるを得ないが。

 カランカランという乾いた鈴の音を立てるドアを開けて暖房の効いた店内に入る。

「らっしゃーい」

 明るい店に不似合いな、低く野太いオーナーの声。

「シズム、今日もお前はサボりか」

 店内に他の客はいない。朝食としては遅く、昼食には早すぎるこんな中途半端な時間に来る客は珍しいのだ。

 オーナーの目の前のカウンター席まで移動しながら返答する。

「サボりじゃなくて、朝寝坊したから遅刻なんです」

 コートを脱いで背もたれの部分に掛けて席に腰を下ろすと、オーナーは温かいおしぼりを手渡してくれる。

「ありがとうございます」

 お礼を言って手を温める。真冬の水道水で冷えた手が生き返る。

「寝坊した奴は猫に餌やってる暇ないと思うんだが?」

 オーナーは俺を半眼で見て言った。

「……見てたんですか」

「今はウチの店に閑古鳥が鳴いてるからな。それにお前は毎朝餌やってるんだから見るまでもない」

「まー、そうですけど」

「んで? いつものでいいか?」

「はい、お願いします」

 俺の返事を聞くと、オーナーは後ろを向いて早速コーヒーの準備に取りかかった。

「……あの、オーナー」

「なんだ?」

 振り返らずに、返事。

「ものすごく自然な言い方だったんで突っ込むのを忘れていたんですけど、俺の名前は昇です。シズムじゃないです」

「いいじゃねぇーか。あだ名だよ、あだ名。それにお前はいっつも沈んだ顔してるんだし」

 オーナーは笑いながら言う。いつも笑顔のこの人からすれば大抵の人は沈んだ顔ばかりなのではないか、と思うが口には出さずに別の反論をする。

「沈んだ顔って、すごく失礼ですよ」

「そうか?」悪びれもしていない様子の返事。「実際に、沈んだ顔してるんだから諦めろよ。嫌だったらもっと笑えってことだよ」

「そうですか」

 論点がズレている議論をしても平行線を辿るだけだ。だから、いつも微妙に論点がズレているこの言い合いについては俺が引くことにしている。

「それにしてもお前の親父さんのセンスはすげぇーよな。なんと言っても『しずみのぼる』だからな。沈むのか昇るのかはっきりしろって話だよな」

 オーナーは他人の名前を笑いながらそうやって評する。失礼というより無遠慮なのだろう、この人は。……それに褒めているんだか貶しているんだかよく分からない。

 静見昇、ひらがなでは「しずみ、のぼる」それが俺の付けられた名前。

「オーナー、子供の名前で遊ぶような親は間違ってもセンスがいいなんて褒められることはありませんよ。ただの偶然です」

「その偶然に乾杯」

 オーナーは手に持った空のコーヒーカップを掲げる。

「まだ俺、コーヒー貰ってないんですけど」

「待て待て、もう少しだから」

 ニィと歯を見せて笑ったオーナーはコーヒーをカップに注ぐ。コーヒー独特の香りがここまで広がってくる。

「それに……いや」

 こんな話をこの人にする必要はない、か。

 影のないオーナーの笑顔を見ていると、わざわざ訂正して暗い話をすることが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「……お袋さんだったか?」

 オーナーはできたてのコーヒーを俺の前に出しながら小さく言った。

「え?」

「だから、名前の。お前、暗い顔してるからさ」

「……はい。母親が付けたものです」

 返答を聞くと、オーナーは寂しそうに笑った。

「そうか、すまなかった。お前の前じゃ、お袋さんの話はタブーだったのに」

「いいんですよ、別に。オーナーが気にすることじゃないです。俺が個人的に恨んでいるだけですから」

「お詫びといっちゃあなんだが、その一杯はタダでいいよ」

「どうせいつもタダ同然じゃないですか」

「ありゃあ、ちゃんとお前のバイト代から引いてある」

「ま、そうですよね」

 言って、出されたコーヒーに口をつける。深い香りと共にほろ苦い味わいが口内を満たす……満たす……満たすはずなんだけど……満たさない? むしろ甘い?

 一度カップから口を離して中身の液体を確認する。

「って、これブラックじゃないじゃないですか」

「カプチーノだが?」

「いやいや、いつものやつって言ったらどう考えてもブラック出しますよね。俺、これでも常連ですよ? 好みくらい覚えてますよね?」

「いいじゃねぇーか、どうせ俺の奢りなんだし。それに若いうちからブラックばっかり飲んでると胃ぃ傷めるぞ」

 悪びれもしない明るい笑顔を向けられる。

「……分かりましたよ、ありがたく奢られておきます」

「おう、飲め飲め」

「居酒屋で部下に酒を勧める上司みたいな言い方ですね」

「いいんじゃねぇーの? ウチ、夜は酒も出すし」

 オーナーの論点はやはり微妙にズレている。

「ま、いいですけど」

 再びカップに口をつけて、傾ける。

 香りは文句なしで良い。味は甘いけど、美味しい。

「美味いです」

 甘いけど、の言葉はカプチーノの甘みと一緒に喉の奥に流し込む。

「そうか、そうか」

 オーナーは笑顔。

 無精ひげを生やしたおっさんに使う表現としては不適切かもしれないが、その笑顔は本当に花のような笑顔だった。

 この店の名前はやっぱり「FLOWER」が相応しいんだろう。

 そう思った。

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