冬のある日 2
築四十年のボロアパートは、当然のように外装に関しても二流くらいのボロさを誇る。
家の中は和室で統一されているのに、外に一歩出れば赤サビに覆われた金属の床がお出迎えをしてくれる。
引っ越してきてすぐの頃は踏むたびにカーンと独特な音が鳴る金属床を面白いと感じていたが、今では部屋の中と外のギャップが滑稽にしか思えない。
「二〇五号室 静見」と書かれたプレートを一瞥してドアに鍵を挿す。
二階までしかないアパートの一番端の部屋、それが今の俺の家。
鍵を回して施錠するとカチャリと音がなる。その音を確認して鍵を抜き、今日も今日とてカーンと軽い音を鳴らして歩く。
この音を聞いているとアパートの強度が心配になってくるから不思議だ。大きな地震が襲ったら一瞬にして崩れてしまうのではないだろうか。
まあ、二階の高さくらいなら落ちても死にはしないだろうといつも通りの安直な結論を出して無意味な心配を完結させる。
「なるようになるだろ」
呟き、金属むき出しの錆びた階段を下りる。ところどころ白くなっているのはサビではなくて鳥の糞だから踏まないように気をつけなければならない。
金属階段を降り終えると、やっと安定したアスファルトの地面に達する。人も車もまばらな寂れた田舎道を歩き出す。
通学路を五分ほど歩くと小さな公園がある。遊具は滑り台とシーソーくらいしかない。その他にあるのは、面積の五分の一くらいを占める砂場、水飲み場と四人がけのベンチがひとつくらいだ。一分もあれば外周を一周できてしまうような小さな公園だが、そこで朝食の食パンを食べるのがここ二年くらいの俺の日課になっている。
小学生だったころは集団登校の集合場所になっていたこともあって、この公園にはすでに九年近くお世話になっている計算だ。
園内に踏み入り、地面がアスファルトから土に変わる。多少のぬかるみを残す地面を踏みしめてベンチまで歩き、腰を下ろす。学生鞄も隣に乗せる。
アスファルトは完全に乾いてしまっているようだが、日当たりがあまり良くないこの公園の土は、昨日の朝から夕方にかけて降った雨で湿っているみたいだ。それも仕方のないことだろう。北側以外の三方を民家に囲まれている上に、外周には背の低い木が植えられ、中心には樹齢五十年を超える大きな桜の木が陣取っているのだから。それでも木が葉を付けていないだけ乾きは早いだろう。
ベッドタウンとして開発か進んでいるこの地域に中途半端な大きさの公園が残っていられるのも、すべては桜の木のおかげかも知れない。花見のスペースがないのは玉に瑕だが。
「ま、そのおかげでオーナーは儲かってるみたいだからいいんだけど」
店の立地を自慢していた無精ひげのオーナーの笑顔を思い浮かべて、つい苦笑が漏れる。
「んじゃ、朝飯にしますか」
わざと大きな声で言って、隣に置いた鞄をゴソゴソと漁る。
五枚にカットされた食パンが入っていた市販の袋から今日の分を一枚取り出して、袋を鞄の中に戻してしっかりとチャックを閉める。こうしておかないと中を漁られてぐちゃぐちゃにされる挙句、残った毛玉の処理が大変だからな。
そうして俺がパンをかじり始めた頃、公園の隅の木がガサゴソと揺れて、中から二匹の茶色の猫が出てきた。そしてもう一匹、公園の隣の家の塀を乗り越えて、白猫が地面に着地。三匹はゆったりと俺に近づいてくる。いつもならもう一匹砂場で日向ぼっこをしている黒と白が混ざったパンダみたいな奴もいるのだが、地面がべたべたするからなのか今日はいないみたいだ。
三匹の猫たちは俺の足元に寄ってくるとズボンに身体をこすりつけたり、猫パンチを繰り出したりしている。
『これが意外とよごれるんだよな』という心の声を飲み込みつつ、パンを咀嚼。余ったもう一方の手で三匹を順に撫でていく。茶色の二匹はそうでもないのだが、白猫は喉のところを指で掻くようにされるのが本当に好きだ。グルグルと気持ちよさそうに喉を鳴らして俺にすり寄ってくる。こいつはたぶん隣の家の飼い猫なのだろうが、首輪を付けていない。そのくせ喉の周りを掻かれるのは好きだというよく分からない奴だ。まあ、喜んでくれるなら、それはそれでいい。
猫を撫で回しながらパンの八十パーセントくらいを腹に収めると、まずはひとかけらを千切り取って白猫の口元に差し出す。飼い猫に餌を与えるのはあまりよくないことかも知れないが、一匹だけ与えないと怒って引っ掻いてくるのでいつもひとかけらだけ食べさせている。
いつもはもうひとかけら取ってパンダ柄に食わせているが、今日はいないので残ったパンを二等分する。パンダの奴は野良のくせにいろんなところで餌を貰いまくっているらしく、太っている。それでもパンをあげないと怒るのでいつもひとかけら。
二等分したパンは地面において、茶猫二匹に。白猫が横取りしないように首根っこを掴んで膝に乗せ、頭を撫でてやる。
茶猫はこの公園に住み着いているらしい。朝早い時間や昼は、小学生がいたり幼児を連れた近所の主婦がいたりするので木の陰で寝ているみたいだけれど、俺が来るとパンをもらいに起きてくる。俺がパンを与えないと餓死するんじゃないかってくらい痩せているけれど、別に飢えているわけじゃない。数日間パンをやらない時もあるが今でもちゃんと生きているのがその証拠。
それでも茶猫二匹に多くのパンを与えてしまうのは俺の傲慢なんだろうな、と最近思うようになった。
「自己満足、なんだろうな」
曇り空を見上げながら独りごちる。
でも、自己満足で猫が喜ぶならそれでいいのかも知れない。いや、猫が喜んでいるならそれはもう自己満足とは言えないんじゃ「ニャー」
思考は猫の鳴き声で遮られる。
下を見ると茶猫二匹はパンを食べ終わってようで、身体を俺の脚にこすりつけ、物欲しそうな声を出している。つぶらな瞳がこちらを見つめる。
「今日はもうねぇーよ」
言って、白猫をベンチに下ろすと鞄を持って立ち上がる。
白猫はニャーと一声鳴いた後、道路の方へ歩いて公園から出て行った。おそらく玄関から家の中に戻るのだろう。興味はないので確かめたことはないが。
立っても相変わらず足元にいる茶猫二匹の首根っこを掴み、一匹ずつ砂場に放り投げる。二匹は華麗に着地を決めた後、俺を一瞥して公園の隅の木の下に帰っていった。
ベンチのすぐ横にある水飲み場で手を洗い、ついでに顔も洗う。夏場はいいのだが、この時期の水は冷たくてしみる。
それでもこの習慣をやめようとしないのは、自分が変わってしまうことを恐れている故なのだろうか……。
正直なところ、よく分からない。けれどそれでいいと思う。答えが分かったところで利益がないのなら、疑問は疑問のままで十分だ。
学校を嫌う俺の足は、まだ学校には向かわない。
道路を挟んで公園の対岸にある喫茶店、俺の足が向くのはいつもそこだ。