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紅い月  作者: 麻道 傾
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家出少女 1

 大切な人の生き血を飲むこと。それが紅い月を堕とす条件のひとつ。

 だから俺には月を堕とすことができない。

 だってニヒルな俺には大切な人間なんていないから。

 でも、もし―――大切な人ができてしまったら。

 はたして俺はその時、月が堕ちることを望むのだろうか?




 西の空に沈みかけている上弦の月――半月は赤みがかった黄色い光を放っている。汚れている、と思った。黄色人種の肌に近いその色は『人間の穢れ』を連想させる。

 嫌いというわけではない。もちろん好きでもない。

 黄色の月明かりに照らされていると、その光によって穢れを体内に取りこんでしまうような気がする。けれど、そんなことはどうでもよかった。俺はすでにどうしようもないほど穢れてしまっているのだから。

 深夜の公園。街灯の光はベンチに座る俺に当たり、暗闇が佇む敷地の奥へと細い影を伸ばしていた。

 足元には公園に住み着いている茶猫が二匹。俺が地面に放った一枚の食パンを競うように貪っている。

 こうして何をするでもなくベンチに座っていても、現在進行形で食欲や睡眠欲が襲ってくることはない。

 いつもならこの時間はすでに布団の中で熟睡しているはずだ。けれど今日は、布団に入っても一向に睡魔がやってくる兆しがなかった。

 原因には覚えがない。昨日までは睡眠をいつも通りにとっていたはずだから、それが理由とは思えない。かといって一週間前に苦しめられた風邪の影響なのか、とも考えてみたが、それにしては間が開き過ぎているのではないかと即座に打ち消す。

 当たり前のことだがそんなことを延々と考えていたら眠気がやってこなくなるのはある種の道理。眠る努力を放棄した俺は、適度に身体を疲労させればいいのでは、と思い立って散歩をすることにした。それが一時間くらい前。

 夜食にと、鞄の中から食パンを一枚取り出して家を出た。

 予想はできたことだが、俺の脚は通い慣れたこの公園へと自然に向いてしまい、こうしてベンチで無為に時間を浪費するに至っている。食欲すらなかったので、食パンは一口も齧らないまま地面に放った。

 遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。警官に見つかると職務質問やら補導やらで面倒だな、などという考えが思考を過ぎったが具体的に対応策をとるでもなく、ぼんやりと黄色い月を眺め続ける。サイレンもパトカーも、まるで別世界の出来事だった。そこには、リアルがない。

 ――自分にだけ、時間が流れていないような気がする。

 周りは進んでいるのに、俺だけは立ち止まって毎日同じことの繰りかえし。それは自分が変わらないという点においては理想であったが、同時に限りない退屈を俺に強いることになっている。

 だが、その退屈な状況から抜け出そうとする欲を、俺は持っていない。

 それどころか今は、すべての欲が俺の中から消滅してしまったような気すらしてくる。食欲、睡眠欲、性欲――人間の三大欲求と呼称されるこれらの欲すらごっぞりと消えている。

 自分の中から何かが抜け落ちていくような感覚。

 虚無感。空白感。喪失感。

 どれも似ているようでこの感情の本質を言い表せてはいない。それは、悦び――快楽だった。

 胸に微小な無数の穴が開く。そこから黒くて光沢を持った、石油と水銀が混ざったようなドロドロした液体が流れ出てきて、すぐに蒸発、霧散して消滅。

 気化した液体は俺の中身であり本質であり、そして穢れでもある。

『静見昇』の存在の希薄化に伴い、体内の穢れも薄まり浄化されていく。

 つまり完全なる浄化は自己の喪失によってのみ成し得ると言える。が、それは矛盾だ。一方で自己の浄化を望みながら、もう一方では自己の消滅を望んでいる。……いや、もしかするとこのふたつは同じことなのかもしれない。すなわち、俺はもう救いようがないということ。消滅によってしか浄化することができない、根源的な穢れ。無意識下で自身のことをそうやって定義しているのか。

「はぁ」とため息が漏れる。

 無意味な思考だった。この思考の果てにどんな場所にたどり着いたとしても、現実の俺は一ミリたりとも移動するわけではない。結果がゼロであるならば、原因がどれほどの値を持っていたとしても、その過程はゼロ以下なのだ。プラスにベクトルのない行為は無意味と呼称される。

 でも、と思う。

 変わらないことを願う俺は、どうして無意味な思考を忌避したのだろうか。前に進むことがないのなら、それでいいのではないか。

 ――もしかすると、俺は『意味のある日々』を望んでいるのだろうか。

 変化を望まないと言って自分を取り繕っても、心の奥底ではその逆のことを………

「それ、慈悲?」

 そんな時だった。間近で響いた声に驚き、俺はいつの間にか閉じていた目を開けた。

 俺の前、二メートルほどの空間を隔てた位置にその少女は立っていた。

 月は雲に隠れていて辺りは薄暗い。だが、街灯の光が照らし出す少女の瞳は真っ直ぐに俺の足元――食パンを競い貪る二匹の茶猫に向けられている。

 背中にまで流れる長い髪は茶髪が混じった黒色で、弱い風に時折揺れる。細められた目の奥の瞳の色は残念ながら暗くてよく見えないが、おそらくこちらも黒だろう。鼻筋はわりと通っているほうで、色素が薄い唇は真一文字に結ばれている。服装は、上が赤いジャンバーで下はダメージジーンズ。両手は上着のポケットに突っ込まれていて、口からは周期的に白い息が漏れ出す。年はおそらく俺と同年代くらいだろう。

 少女の視線は足元から上がり、俺の瞳へ。

 ……出来事にリアルがなかった。夢の中にいるのではないかと錯覚しそうな気分。

「それは慈悲なのかって訊いてるんだけど」

 凛とした、それでいて冷たく突き刺さるような声。俺からの返答がなかったのが気に入らなかったのか、苛立たしげなモノを含んでいる。

『怒り』の感情の一種をぶつけられたことによって、俺が勝手に抱いていた少女の神秘性が崩れて、リアルが戻ってくる。夢見心地は壊れて、現実への復帰を強要。

 そこで初めて、質問の意味を理解する。

「……エサやりのこと?」

 確認のための問い。

「そう」

 少女は短く答えて、首を小さく縦に振った。

 肯定を確認した俺は足元へと視線を移す。いまだ二匹は食パンに食らいついている。相当腹が空いていたのだろうか。けれどそんなことは、俺にとって"どうでもいい"ことだ。

 視線を少女へと戻す。

「ただの趣味だよ。俺は腹が空いた猫に慈悲を与えるような崇高な人間じゃない」

 嘘は吐いていないが、潔白な回答だと言い切れる自信もない。

 俺がエサをあげているのは完全な趣味の領域での話だが、その領域内で茶猫に多くのパンを与えるという、ある種の慈悲に似た傲慢があったのも事実だと思う。だがエサを与えるという俺の行為にはどうやっても崇高な意思を感じ取ることは不可能だった。

 脳裏には俺が幻想を抱いていた時の、目の前の少女の姿が映し出される。その姿は、現在の少女と寸分も(たが)うことはないが、なにかが違う。神秘性とも言えるものを内包しているような気がした。

 神秘性――俺の中には存在しないモノ。

 穢れた俺が慈悲を与える姿など想像できない。

「ふっ」

 つい、苦笑が漏れた。

 ――想像できないのなら初めから答えは決まっているじゃないか。俺がこんなことを小難しく考える必要性はなかったんだ。

 内側に向かっていた意識を外へ向ける。視線の先の少女は黙ったまま難しい顔で二匹の猫を見下ろしていた。俺の回答を吟味しているのだろうか。

 やがて、彼女はふっと表情を緩めると数秒間だけ目を閉じた。

 ……ゆっくりと目を開き、ベンチに座る俺を見下ろす。

「あなたは、偽善者じゃないのね」

 言って、優しげに微笑した。

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