冬のある日 11
特筆することもなく、約一日が経った。現時刻はだいたい午後三時くらいだろう。
『面倒は見てやるが、ベッドまで貸してやる気はないぞ』
とはオーナーの言葉。ソファーにずっと寝かされたまま、夕食・朝食・昼食に粥と薬を半ば無理矢理に胃に突っ込まれ、食事と水を飲むとき以外は起き上がることすら許可されなかった。
この上なく退屈な時間を過ごすことになったが、そのおかげでもう身体にダルさは残っていない。おそらく、熱も引いている。唯一残っているとすれば、頭にできた小さなたんこぶくらいだろう。
現在オーナーは外出中。家に常備してある風邪薬が切れてしまったらしく、夕食の買い物のついでに近所のドラッストアまで出かけている。
アヤカの件がどうなったのかは知らないが、物音は聞こえないのでまだ部屋に閉じこもっているのかも知れない。
「暇だ……」
テレビを点けてバラエティ番組でも見ようかとも思わないわけではないが、俺はこれでも居候の病人の身。たとえ『見ろ』と言われたとしても遠慮してしまうのは日本人の性か。
仕方なく、ソファーの背後にある窓から空を眺める。未確認だが、喫茶店「FLOWER」が左右と後ろを住宅に囲まれているという立地を考えると、空が見えるこの窓は南向きだろう。立って見下ろせば公園や桜を見ることができるはずだ。
だがまあ、ソファーから立つことを許可されていない俺からでは雨が止んだ空しか見ることができない。ところどころにある雲の切れ目から青空を覗くこともできるが、ほとんど一面が灰色に包まれているような状態だ。今日も太陽は拝めそうにない。
いい加減に代わり映えのない空を見ているのに飽きてきたので、もう一眠りするとしよう。身体の調子が良くなってきたことをオーナーには昼のときに伝えてあるので、夕食はまともな食事をご馳走してくれるらしいし。
窓の外を見ていた視線を元に戻し、目を閉じた時にちょうど部屋のドアが開く音がした。
「あれ? オーナーもう帰ってきたんですか?」
視線をそちらに向けると――
「昇くん……」
――アヤカがいた。ドアの影に隠れるようにこちらを覗いている。
「………」
咄嗟にはどう声をかけるべきか思いつかず、沈黙してしまう。
「よ、よう、アヤカ」
寝転がったまま、片手だけを挙げて挨拶。「……元気か?」
「元気、だよ。今日学校休んじゃったけど」
そう言って恥ずかしそうに笑うアヤカの目元は少し赤い。
「昇くんは?」
「え、俺は………」
どう答えようか、迷う。一応まだ風邪は治っていないわけだから元気ではないと言うべきか、治りかけなのだから余計な心配をかけないためにも元気だと言ってやるべきか。
「一応、元気。だいぶ楽になってきているから」
結局そう答えることにした。どうせ社交辞令で訊いたようなものだ。『元気』でなくても適当に理由をつけて『元気』と答えておいて間違いはないだろう。
「良かった……」
適当な返事だったはずだが、アヤカは心底安堵したような表情を浮かべる。
『罪悪感』という物質を胸に注射されたような気分になった。チクチクして胸をかきむしりたくなる。
――お前は俺を嫌いになるんじゃなかったのか? なんでそんな顔見せるんだよ。
「……そんなところに立ってないでこっち来たらどうだ?」
アヤカとの問題を長引かせるのは精神衛生上よろしくない。俺の心は決まっていて変わることはないのだから、早めに決着をつけてしまいたい。
「でも、昇くん、風邪……」
「アヤカと話したいことがあるんだ」
弱々しい反論を強引に一蹴する。どちらにしろ俺は問題解決まで、こいつの前では悪役を演じなければならないんだ。
起き上がって、ソファーに空きを作る。急に起き上がったことで重力の感覚に慣れていない頭がクラクラしたが、そんなものは無視だ。空いた席をポンポン叩く。
「座れよ」
アヤカはドアに半分隠れたまま動いてくれない。顔が映し出す表情は怯えたもの変わっている。
注射された『罪悪感』が身体の中で急激に増殖している気がした。全身が気持ち悪い。今すぐにでもかきむしりたい。
――なんなんだよ、これは。悪役を演じろって言ったのはお前だろ? なんでそんな悲しそうなんだよ。
「座ってくれよ、頼むから……」
俺にはアヤカに厳しく当たり続けるのは無理だった。
「うん……」
小さく返事をしたアヤカは俯きながら俺のほうを見ないようにして歩いて、隣にちょこんと腰掛けた。
「あのさ………」
そこまで言って、口ごもる。言葉が喉から出てこようとはしない。
「………」
「………」
アヤカも下を見て、両手をギュッと握っているだけで話そうとはしない。当たり前だが、俺が話し出さなければ何も始まらない。
氷の壁を溶かす太陽はいまだに姿を見せない。現実と同じように、きっと曇り空が続いているのだ。
一日、ずっと考えていた。いや、考えてしまった。動くことができず、なにかに夢中になることもできなかった俺の頭の片隅にはいつもアヤカがいた。思考は堂々巡りを繰り返し、たどり着く結論はいつも告白を断ったときと同じ。
変わりたくない。
アヤカと付き合うこと自体は嫌ではない。けれど付き合うことによって、今までの関係で築いてきた『何か』が壊れてしまうような気がした。自分が変わってしまうことが怖かった。アヤカとの関係を一度壊してでも、『静見昇』という人間の一部を定義する『何か』の存在を守ろうとした。
結局はなにひとつ守れていないのかも知れない。『何か』は、アヤカとの関係というラインの切断によって、苦しんでいる。罪悪感という形での痛みの現れ。
だから俺は決めた。
はっきりさせる。
俺たちの関係は友達止まりだ。それ以上には決してなれない。俺は絶対に前に歩き出すことはない。
そんな後ろ向きな決意。
俺は変わらない。変わりたくない。
だから歪んでしまった関係を素人の力で無理矢理にでも修正する。
もっと歪んでしまうかも知れない。だが、そんなのも知るか。自分が決めたことだ。首を絞めることになったとしても責任くらい自分で背負ってやる。上等だ。
もともとこの行動は氷の壁に殴りかかりに行くようなものだ。立ち止まって凍えているだけでは、元に戻るのはずっと先だ。それまでに餓死しちまう。なら、歪に進んだ関係を修復するには後ろ向きに歩き出すしかないだろ。
「……俺は、お前とは友達のままでいたい」
「………」
唇を噛んで、アヤカの表情から目を背ける。
「恋人にはなれない」
「………」
「俺、アヤカのこと、友達としては『好き』だ。でもそれは異性に対する『好き』じゃない。『Like』止まりなんだ。どうやっても『Love』にはならない」
「それでも私は……」
「俺はお前を受け入れることはできない。だからごめん、無理なんだ。できれば前みたいな関係に戻りたい。告白はなかったことにしたい」
「………」
「前みたいに戻れないなら、お前が諦められるように縁を切ろう。俺はもうお前に話しかけたりしないし、二度とこの店にも来ない。オーナーには悪いけど、バイトも辞めさせてもらう。店の前の公園で猫に餌やることもしない。極力お前とはかかわらずに生活する。………選んでくれ」
卑怯な賭けだった。
「選べないよ………昇くんずるいよ」
アヤカの声は震えていた。
絶交か修復か。告白する決意をやっとの思いでしたのであろうアヤカにとっては、選びようのない選択。限りなく理不尽だった。
「俺は悪役演じなきゃいけないから……」
言い訳だった。卑怯で理不尽な賭けの言い訳。だが、俺の気持ちをこれ以上口にするのはもっと卑怯に思えた。それではただの誘導尋問だ。
賭けは俺にとって、限りなくハイリスクなものだ。人間関係を修復するために、『生活』という『静見昇』を構成する重要な要素を差し出したのだ。
でも、だからこそ卑怯なのだ。賭けの勝敗を決定するのは、無慈悲な確率に左右されるカジノの機械ではなく、感情を持った人間なのだ。アヤカは俺と、そして自分自身の負うリスクを知っているからこそ、絶交の選択はできない。
「……戻りたい」
アヤカが鼻をすする。見ると、目には涙を湛えていた。
「そんな悲しそうな声してる悪役なんてどこにいるのよ……」
「……ここにいる、だろ」
わざと明るい調子で言おうとして失敗した。声が震えた。
「そんなつらそうな昇くん見てられないよ。嫌いになれるわけないでしょ」
「おいおい、それは理不尽――」
「私は!」
アヤカがいきなり立ち上がって叫んだ。「昇くんが好きなの!」
「アヤカ、近所に聞こえるって。ボリューム下げろ」
「知らないよ、聞こえたっていいもん!」
涙を流しながら怒って俺を睨む。
その時、階下の玄関で「ただいまー、帰ったぞー」というオーナーの気の抜けた声がした。しかし、興奮しているアヤカはそれすら聞こえていない様子。
「昇くんのことがどうしようもなく好きなんだもん。嫌いになれないよ。諦められないよ! たとえ昇くんが嫌だって言っても一緒にいたいんだもん!」
「おい、オーナー帰ってきたって」
「知らないよ、お父さんがどうしたって言うの。私は昇くんのこと絶対に諦められないからね! 絶対に諦めないからね!」
言ってすぐにアヤカは走って部屋を出て行った。ダダダダと廊下を走る音と、「うおっ、危ねぇ」というオーナーの声。そして遠くでバンッ! とドアが閉まる音がした。部屋にまた閉じこもるつもりだろうか。
俺が呆然と座ったままでいると、オーナーが買い物袋を持ったまま恐る恐る部屋に入ってきた。
「昇。お前、なにやったんだ。怒られてたのか、告白されてたのかもよく分からんし」
「………さぁ? どうなんでしょう」
正直、まったく分からない。
「俺はいつになっても乙女心って分かりそうにないんだが……」とオーナー。
「同感です……」
男二人、ただただ顔を見合わせて、傷心の娘から憤激の娘に変わってしまったアヤカにどんな対応をするのかを考えるのだった。