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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

以て血を

美しいドーナッツ売り

作者: 志摩鯵
掲載日:2026/07/20




公(・)爵(・)と聞くと誰もが身構える。

けれど今の大ヴィン帝国には、公爵家が140ある。

その上、大昔ならともかく貴族院の活動に爵位の等級は、関係ない。


ニュートゥールズバンズ公なんて聞いてもピンと来ない。


南洋あたりの島国で原住民は、全員、墓の下に眠っている。

今は、島全体がサトウキビか綿花(コットン)の大規模農園(プランテーション)。

だが、南洋省の管理下にあって領主の僕も詳しく知らない。


ともかく貴族の中では、中の下ぐらいの暮らし向きだ。


ただ食うに事欠かないことは、間違いない。

今や大ヤーネンドンでは、生きる事さえ難しい。


産業革命以来、弥増(いやま)し続ける汚染と公害。

工場から垂れ流される汚水と排気。

学者たちは、これが凍てついた歴史の中で永遠に最悪の時代として記録されると嘆く。


市中に溢れる貧民は、文字通り住むところさえない。

彼らを待っているのは、餓死か病死。

どちらにしても確実な死。


だが手を差し伸べるものはいない。

彼らの代わりなど幾らでもいる。

帝都から運び出される棺と入れ替わりに新しい労働力が流れ込んでくる。


まさに死の都(まち)だ。


この汚れ切った空気と水、病人が溢れた帝都で唯一の楽園。

それが僕ら貴族や新興富裕層(ブルジョア)が住む一角、N19(ホイッスラー)だ。


かつて僕らの祖先は、この街を”黄金の鳥籠”と呼んだ。

反乱を恐れた国王が諸侯を監視するために移住させた街だからだ。


領地を取り上げられることに激しく抵抗した貴族もいた。

だが臆病な祖先のおかげで僕は、こうしてこの街に住んでいる。


(それすら僕にとっては、どうでもいいことだが…。)


「大城谷(オオギダニ)勝克(マサカツ)の絵だ。」


ディックの声に僕は、ハッとした。


今、僕と彼の前には、絵画が掛かっている。

先日、届いたばかりでディックが僕に見せたいと言って来た。


「悪い、聞いてなかった。

 外の悲鳴が気になった。」


「悲鳴?

 それより、この絵を見てくれ。

 どう思う?」


ディックは、そう言って督促(せが)む。

だが僕は、そんなつもりはなかった。


彼は、ヴァルドサ森林伯リチャード(ディック)。

第8学年(中学生)からの付き合いだ。


でも実のところ僕は、彼が好きではない。


とにかく彼は、派手な男で友人が多い。

誰にでも優しくし、誰とでも仲良くする。

しかしそれが僕には、不気味に思えて仕方がないのだ。


それでも互いに貴族だ。

表面上、こうして付き合っていかなければならない。


だから今日も、ずっと上の空だったのだ。

それでさっきまで窓の向こうから聞こえた絶叫で外のことを思い出していた訳だ。


そこで最初の話に戻る。


確かに今の帝国は、酷い身分差別がある。

だがそれは、庶民と貴族の間だけだ。

今時、僕が公爵だからと言って特別、驚く人はいない。


むしろ1200家以上ある貴族の中で中の下ぐらいの位置にある。

僕は、媚(こ)び諂(へつら)って懇意にする価値のあるような男じゃない。


ディックは、何を考えているんだろう。

今も彼は、熱心に届いたばかりの絵について話している。


「やはり日ノ元(ひのもと)は、独自の芸術を生み出す土壌があるんだ。

 彼らの精神性は───。」


「なあ、ディック。

 …その、なんだ。

 今、ハラルダ(ハル)は、どうしてる?」


そう僕は、申し訳なさそうに言った。

絵を見に来たのは、口実でこちらが僕の本当の目的だった。


「ええっ?

 妹(ハル)に会いに来たかったんなら正直に言えばいいのに。

 じゃあ、こんな絵には、用はないな。」


ディックは、そう言って僕を案内した。


「だが感想を一言聞きたいよ。

 義兄として、20年来の親友としてさ。」


ハルは、僕の妹だ。

今は、ディックの妻になっている。


2人が結婚すると聞いて僕は、胸が悪くなった。


ディックは、あちこちで女の子と遊びまわっている。

学生時代、あらゆる女子生徒が彼と肉体関係になっていた。

到底、家庭的な夫になると思えない。


僕は、奥手だ。

だから仄かに好意を寄せる女性が彼の玩具になるのが辛かった。


もちろんそれは、僕が悪い。

だが爽やかな笑顔を見せる女友達がディックの淫蕩な罠に堕ちたと考えると不愉快な思いを堪えられないのだ。


そんな彼が義弟になることも正直、気分が悪い。

そもそも妹を狙って僕と友達面しているのなら一層、不愉快だ。


しかし仮に当主でも結婚に口出しする時代じゃない。

僕は、妹の気持ちを尊重した。


だが結論から言って僕の懸念は、取越苦労ではなかった。


ディックは、怪しい連中と付き合い始めた。

遊びも派手になり、男娼にまで手を出していると聞く。

さっきの絵も日ノ元(ひのもと)とかいう遠い国から取り寄せられた。


近頃、一部の画家や小説家が持て囃しているが、彼らの作品は、同性愛やサディズム、神秘主義や悪魔崇拝、反社会的な風潮がありありと見受けられ、一握りの変わり者が熱狂的に支持しているだけで、それ以外の大半の人々は、風変わりな流行と受け止めていた。


「ひっ、うわッ!」


思わず僕は、顔を背け、飛び退いた。

ディックの案内で廊下を進んでいると奇怪な光景が目に飛び込んで来たからだ。

それを見てディックは、軽く笑った。


「ははっ。

 そんな大したものじゃないだろ?」


そう彼は、笑ったが僕には、異常としか思えない。

壁にあったのは、人間の頭に蝙蝠が集まって血を吹き出している絵だった。

他にも噂の退廃芸術に含まれる奇怪な絵や像が普通に並んでいる。


「こんなものに囲まれていると心が休まらない。」

と僕は、ぼやいた。


「ありきたりなんだよな。

 女の裸とか、どこかで見たような古い城や森の絵なんか。」


そうディックは、新(・)し(・)い(・)芸術が古典芸術より、如何に優れているかを誇らしげに語った。


「あら、ディック。

 兄さんを連れてくるのが早くありませんか?」


廊下で出くわしたハルが僕らを見つけて、そう言った。


「義兄さんは、最初からお前に会いに来たかったんだ。

 ハッキリ言うのが恥ずかしかったんだぜ。」


「なんだ、そうなの。」


ハルは、元気そうだ。

僕は、ひとまず安心した。


僕と妹夫婦は、それからつまらない世間話をした。

平凡な内容で覚えていない。

会話より、ずっと僕が見ていない間、二人が何をしているのかが心配だった。


アドルフ・ハートボーン、セルゴ・アーノルド、オリバー・ピープス、チャールズ・レイヴァーティン・ボールティエ…。

裸の女と汚らわしい動物が描き殴られた卑猥な油絵、情交する男女の青銅(ブロンズ)像、男同士の乱交を題にした小説、吐き気がする反道徳的な詩集。

噂の退廃芸術と目の前の二人が結びついて僕は、頭がクラクラした。


「…か、帰るよ。」


僕は、そう言って逃げるように自宅に戻った。

ディックと妹が何と言って答えたのかも、よく聞こえなかった。


「……義兄さん、随分と顔色が悪かったね。」


ディックは、ハルにそう話しかける。

ハルも小馬鹿にしたように笑った。


「腰抜けだもの。」






(汚らわしい!)

僕は、そう考えながら馬車の外の流れる景色を目で追った。


ディックがどれだけの女に手を出したと思う?

ハルは、それをどう思っているんだろう。

僕が女ならディックみたいな男は、一番に軽蔑する。


「お館様、お帰りなさいませ。」


使用人たちが帰宅した僕に挨拶する。

僕は、身震い一つして屋敷に逃げ込んだ。


「フレデリカ(デリ)!!」


「はーい。

 あなた、お帰りなさいませ。」


僕が呼ぶと客間からすぐにデリが顔を見せた。


「思ったよりも遅(・)か(・)っ(・)た(・)ですわね。」

とデリは、僕の手から絹帽子(シルクハット)を受け取る。


もちろん僕にしては、友達の家に長居したという意味でだ。

結婚当初は、僕がいつも早く帰って来ることに驚いていた。


―――デリ。

そう、デリだ。


彼女は、僕の妻である前にディックの恋人だったことがある。


かつてデリは、ディックに夢中になっていた。

学生時代、彼女は、ディックといつも一緒に笑っていた。

彼の腕にしがみついて幸せそうにしていた。


それが急に彼女を僕に宛がったのがディックだ。

理由は分からない。

彼女もそれを受け入れた。


「オスカー。

 君の父上のこと、本当に残念に思う。」


その日、ディックは、そう話を持ち掛けて来た。

確か、僕の父の葬儀が済んで1週間ほど経ったころだ。

要約すると公爵家を継いだ僕には、妻が必要だろうということだった。


「家のこともデリなら任せられる。

 彼女と君は、家格もつり合ってるし、信頼できる。

 君も良く知ってるし、どうだろう?」


もちろん気味が悪かった。


だが父を亡くして家のことで頭を抱えていた僕は、デリと結婚した。

実際、彼女が助けてくれなければ僕は、終わりだったろう。


それでも彼女を僕は、受け入れられずにいる。


「ディックは、どうでしたの?」

そうデリに訊かれ、僕は、不安になる。


「…さあね。

 相変わらず派手に遊んでいると聞いて心配だったけど。

 でも、僕がいる前で乱痴気騒ぎなんかしないだろう。」


「ええ、でも心配ね。

 ハルは、彼と上手く行くと良いんだけど。」


「ああ…。」


その晩、僕らは、寝室のベッドで横になる。

僕は、気が重い。


妻も妹も、あの獣(けだもの)のようなディックの女になった。

寒気がするような悪夢だ。

しかも目が覚めている間も悪夢が終わらないなんて。


あの色情魔が妻や妹の肌に触れ、肉体を汚した。

僕の気持ちは、休まらない。


(デリには、悪いが。

 彼女を妻だとは、思えない。)


急いで僕は、虚ろな眠りに逃げ込んだ。

この現実からすぐにでも隠れるように。




ある日、新型飛行機の出資について説明を受けた。

病院騎士団(ホスピタル)は、400人ほどの旅客を乗せる蒸気機関式飛行機(フライ・スチーマー)を開発するため、貴族や金持ちから出資を募っていた。


もちろん形だけのものだ。

僕に専門的な知識など分からない。


「儲かりますよ。」

2時間弱の会話を要約するとそれを繰り返し聞かされるだけ。


「デリ。

 僕は、この話に乗っても良いと思うよ。」


僕は、うんざりしながら妻に言った。

難しい話や配当や利回りだとか全くついていけない。

しかし彼女は、金額など細かな部分まで営業員と話し合っている。


「あなた、大金が掛かってるのよ?」


「僕らには、子供もいないんだ。

 そんなに稼いでどうするの?」


「子供は、これからじゃない。」


「……そうだね。」

と僕は、ためらいがちに答える。




気分を変えようと僕は、外にぶらりと散歩に出た。

そこでいつもの悩みにブチ当たる。


(女が欲しい。)


悪い言い方をすると、そうなる。

だが僕は、心から本当のことを話し合える恋人が欲しい。


何でもいい。

仮面を被った嘘だらけの生活から離れたい。

妻の背後に昔の男を見るのは、もう止めたい。


生活のためではない。

僕自身の心のために。

一人の女に出会い、言葉を交わし、愛を求めたい。


そんな許されない望みを持ってしまう。


(ダメだよ。

 デリだって僕のために我慢してる。

 彼女を裏切って外に女を作るなんて。)


「義兄さん。」


突然、チャックに声をかけられて僕は、顔を上げた。


別に約束していた訳ではない。

近所に住んでいるんだから、こういうこともある。


「どこかに?」


「いや、散歩だよ、ディック。」

と答えながら僕は、ディックの同伴者に吐き気を覚えた。


まだ年端もいかない少年だった。

美しい顔をしていて、それと分かる派手な服装をしている。


「ディック、何の真似だい?」


「これは、はははっ。

 …これは、高尚な哲学なんだよ、オスカー!」


とディックは、微笑んだ。

僕は、寒気がして身震いする。


「古代の哲学者は、こうして男同士の恋愛をしたんだ。

 肉欲に溺れることが目的じゃない。

 魂を高める崇高な文化的行為なんだよ。

 若者は、年長者とこうして信頼関係を深め、多くを学んだんだ。

 僕は、彼を援助してる助言者(メンター)って訳さ。」


ディックは、そう自慢げに話している。


(その手で妹に触れるのか!)

僕は、なんとか怒りを抑え込んで我慢した。


「ついて来なよ。」

ディックは、そう言って僕を伴った。


僕らは、少し歩いて表通りに出る。

風上に位置するこの地区(まち)には、工場排気も届かない。


―――そう説明され、ここにいる大半の貴族は、信じている。

疑い深い連中は、酸素ボンベ着き地下シェルターから出て来ないという噂だ。


蒸気機関式自動車(スチーマー)も禁止されている。

ホイッスラーでは、馬車だけが交通手段だ。


バラ窓の美しい大聖堂が青い空の下に輝いている。

もっとも迷信は、今の我が国で否定されている。

あの大聖堂も今は、文化会館(コミュニティホール)になっていた。


文化会館正面広場には、黄金の補佐官像が立っている。

その下に若い女がいた。


女は、露店でドーナッツを売っている。

客足が絶えず、次々に客が集まっていた。


よく見れば女は、本当に美しい。

客は、彼女目当てにやって来るのだろう。


「最近、評判のドーナッツ屋さんなんだ。

 もちろん見れば、分かるだろ?」


と言ってディックは、目線で女を指(さ)した。

僕も思わず見蕩れてしまう。


形の良い頭から流れる金の髪。

見る人を驚かせる紫陽花色の瞳は、日差しの中で変化し、淡やかな赤か紫に見えた。

そして若々しい身体は、細く流れるような佇まい。


僕は、一目見て彼女の虜になった。

ディックと別れ、家に戻ると悩ましい妄想に憑りつかれた。


(あの子こそ、僕の本当の妻として迎えたい。)


もう僕の目の中でデリは、色褪せ始めていた。

彼女が何の価値もない物のように思える。

それほどあの若い娘は、美しかった。


この燃え上がるような思いは、不安に苛(さいな)まれもする。


(だが彼女にも既に恋人がいるかも……。

 それに僕と彼女は、かなり歳も離れている。

 相手にしてもらえるはずがない。)


僕は、ベッドの中で寝返りをうつ。

眠るデリの顔を見ても壁を見るのと今は、変わらぬ心持ちだ。


(もし彼女が金に困っているのなら?

 あの淑やかなドーナッツ売りが身体を売るようなことになったら。

 浅はかな、好色な貴族共が遊ぶ一時の玩具にされるようなことは!

 やめろ、いやらしい妄想は!!)


僕がそんな悩みを膨らませているとドーナッツの露店は、大聖堂前に現れなくなった。

もう二度と彼女に会うことも、姿を見ることもできないのか。

僕は、胸が引き裂かれるようなショックを受けた。


(ヴァルカ(ちくしょう)!

 そしてヴァルカ(信じられない)だ!!)


僕は、とりあえずディックの屋敷に方向を変える。

もしやあの男の手に落ちているかも知れない。


「やあ、オスカー。

 来てくれてうれしいよ。

 庭にチューリップが咲いたんだ。」


とディックは、嬉しそうに僕を出迎える。


「突然、来て悪いね。

 上がらせてもらうよ。」


だが僕は、すぐにドーナッツ売りの話を切り出せなかった。

しばらくディックが支援している芸術家や最近の作品について話した。

しかしそれを知ってかディックは、何気なく僕の愁いの種を口する。


「義兄さん、あのドーナッツ屋を覚えてるか?」


「なんだ。」

僕は、ドキリとした。


「あの店の娘、コールリッジの菓子屋で働いてるそうだ。

 露店が出てない時は、店にいる。」


「へえ。」

と僕は、興味のないふ(・)り(・)をした。


しかし僕は、ディックやハルとのつまらない会話から逃げるように屋敷を出た。

そして早速、コールリッジに馬車を向かわせ、件(くだん)の店を目指した。


「ようこそ、お客様。」


そこは、金持ち向けの高級店で美術館のような内装をしていた。

黄金の飾り帯が垂れ、壁には、細工や宝石をあしらっている。

だがそれより何より、例の娘がいた。


「まあ、閣下。

 失礼ですが、ひょっとして以前に露店でもお見掛けしましたよね?」


と女は、僕に話しかけて来た。

その時、彼女の瞳が嬉しそうに輝いたのを僕は、気付いた。


その日以来、僕は、菓子屋に通い詰めた。

妻が毎日、菓子を持って帰るのをどう思っているのかも気にならない。

僕にとって全てが彼女中心になっていった。


毎日、通う僕と彼女にも会話が増えていった。


「閣下、恋をしていらっしゃいますね。

 分かりますわ。

 だって私と同じ目をして見えますもの。」


その日、僕の胸は、締め付けられた。


(知りたい。)


僕は、店を出ると買ったばかりの菓子を握り潰してしまった。

恋慕というには、あまりに歪な望みのために。


(チャックが、あの女好きが、まだ君に触れてはいないか?

 そんなことが聞ける訳がない。

 いや、そんなことより、僕の気持ちを…。)


なぜ僕は、愛してもいない女を妻にしてしまったのか。

なぜ僕を支えてくれたデリを裏切るようなことを考えてしまうのか。

僕に勇気があれば?






「ひィ…ん!

 んあ……ぁ………っ!」


廊下でデリが悲鳴を上げて倒れる。

背中から血を吹き、無残な姿に変えられる。


絹帽子(シルクハット)を被った狩(・)人(・)は、倒れたデリを跨ぐ。

そして悍ましいノコギリ刃の着いた武器を振り下ろし、妻の息の根を止めた。


「うあ……■■■■■■■■■■ァァァ!!!」


僕の声は、人(・)間(・)の声ではなくなっていた。

人が人でなくなった怪異。

獣(・)の鳴き声に。


狩人。

それは、単なる猟師ではない。


人間が獣と呼ばれる化け物に変身する謎の現象があった。


それを止める方法は、見つかっていない。

戻す方法も分からない。

故、長い歴史の闇の中、獣を狩ることのみ続けられてきた。


(僕が!?

 僕が獣だって!?)


僕は、訳も分からないまま狩人に飛び掛かる。

巨大で毛むくじゃらの腕がけたたましい音を鳴らして壁や床を壊す。

だが狩人は、夜の風みたいに僕の攻撃を避けた。


僕は、死んだ妻を一瞥(いちべつ)する。

彼女の真意は、どこにあったのか。

本気で話し合えば、本当の夫婦になれたかも知れない。


だが、そんなことは、もうどうでも良い。


「■■ァァ■■ッ!

 ■■■■■ィィィ!!」


(なんで僕が!?)


やっと灰色の僕の人生に喜びが見えたのに。

あの菓子屋の店員に会うだけで良かったのに。


僕よりも悪い奴は、幾らでもいる。

大勢を騙し、傷つけ、自分の利益しか考えない奴らが。


(それなのに僕がどうしてこんな目に遭わなければならない!?)


狩人との攻防の一瞬、相手の顔が見える。

それは、あのドーナッツを売っていた若い女だった。


(あは、は、はははははははっ!!)


そうだったのか。

あの女が僕に好意を持っているように見えたのは、獣を見つけた狩人の表情だったんだ。


「■■■■ヴォア…ッ!!

 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ァァァォォォ!!」


僕らは、屋敷を飛び出し、往還に戦いの場を変える。


少しずつ、僕の毛むくじゃらの身体は、巨大に膨らんでいた。

今や近所の屋敷が見下ろせるほど僕の背は、高くなっている。


「け、獣だ!」

「うわあああ!」

「なんでこんな場所に!!」


あちこちから悲鳴が聞こえる。

だが悲鳴は、咆哮に変わりつつあった。


「ママ、くぉ……■■■■■■■■■■ギョ■■ォォォ!!」


ある家で小さな子供が悍ましい獣に変じた。


別の家でも枯れ木の様な老人の肉体が俄(にわか)に膨張した。

疲れ切った老人は、若者のように素早く立ち上がる。


「■■■■■■■■■■■■!!」


「ち、父上…!

 やめ……うわあああ!?」


あちこちから獣の咆哮と悲鳴が一斉に上がる。

だが次第に悲鳴が聞こえなくなり、獣たちが家々から飛び出した。


ねじくれた黒い毛。

呪われた獣たちは、美しい狩人を取り囲む。


だがドーナッツ売りは、どんな獣にも臆することはない。

いやむしろ獣以上に俊敏に敵を撃退した。

華麗なる殲滅戦が始まる。


―――ばちん!


月下に鳴る錆びついた金属音。

狩人の持つ武器は、変形する。

時に大きく、時に長く。


接近戦から距離を取っての戦い。

一対一あるいは、多くの敵に囲まれながらの闘い。

目まぐるしく変化する戦いを一人で突破していく。


(ああ…!

 気持ち良い!!)


僕は、恍惚としていた。


外の町の貧困を知りながら安寧を貪る貴族共。

今や身分に伴う義務を放棄した王の豚共。


それが僕たちだ。

それが獣になって死んでいくのは、堪らなく気持ち良いぞ。


(そうだ…!

 こいつらは、生きていてはいけない。

 権力と金の亡者、着脹(きぶく)れした下種共だ。)


幾つもの刃物を組み合わせた拷問器具のような武器が獣の頭を砕いた。

獣は、もう僕一人になった。

ドーナッツ売りは、血みどろの顔を僕に向ける。


いよいよ僕の番だ。


だが、最期に教えてくれ。

君の名前も聞くことができない臆病な僕に。

君には、愛する人がいるのかを。




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