第538話「覚醒の領主と、大陸を縛る病理」
枢先生の決死の刺鍼によって、ついに魔王軍の過労呪縛から解き放たれた領主ルクレツィア。深い眠りから目覚めた彼女の口から語られるのは、新大陸を覆う歪んだ社会システムと、その裏で糸を引く「過労の元凶」の存在でした。じっくりと描かれる新章の新たな展開を、どうぞ大ボリュームでお楽しみください。
窓から差し込む朝の光が、荒れ果てた執務室を静かに照らしていた。
昨夜の激闘の名残である、引き裂かれたカーテンや床の焦げ跡、四散した大量の羊皮紙は、ガストンやバザルたちの手によって部屋の隅へと片付けられている。室内には、ハクがカバンから取り出して焚いたリラックス効果のある薬草の香りが優しく漂い、かつての刺すような焦燥感はどこにも残っていなかった。
「……う、……ん……」
大きな執務机の奥に置かれた簡易ベッドの上で、ルクレツィアがかすかな声を上げて、ゆっくりと長い睫毛を揺らした。
その瞳が開かれた瞬間、往診チーム全員の視線が彼女へと集まる。ガラス玉のようだった冷酷な輝きは完全に消え去り、そこには知性と、深い疲弊を宿した「本来の人間」の瞳があった。
「ルクレツィア様……! 目が覚められたのですね……!」
ベッドの傍らにずっと付き添っていたバザルが、大きな身体を震わせて声を詰まらせる。
ルクレツィアは、まだ重たそうな頭を押さえながらゆっくりと上体を起こし、自分の白く細い手を見つめ、それから部屋の面々を順に見回した。
「私は……。バザル、それに、そちらの白い服の方は……。そう、ですか。私は、あの悍ましい影に精神を乗っ取られ、この街の人々に、取り返しのつかない奴隷労働を強いていたのですね……」
記憶は完全に残っているのだろう。彼女の端正な顔が、自責の念の重さによって痛ましげに歪む。
彼女はベッドから降りようとしたが、その足元はまだ生まれたての小鹿のように覚束ない。限界までエネルギーを搾り取られていたのだから、当然の反応だった。
「動かないでください」
枢がそっと手を差し伸べ、彼女の肩を支えてベッドへと戻した。
彼の指先は、さりげなくルクレツィアの手首の橈骨動脈へと触れ、その脈の状態を臨床的に観察している。
「『身柱』の鍼によって、自律神経の暴走と悪質な魔力の流入は完全に遮断されました。脈も一秒間に約120拍あった異常な頻脈から、72拍の正常な『緩脈』へと落ち着いています。ですが、あなたの肉体が前借りしていたエネルギーの負債は、これから数日間の完全な休息を以てしか支払えません。今はただ、座っていてください」
「……ありがとうございます、東方の鍼医。あなたの指が触れるだけで、背中の奥が驚くほど温かい。私がどれほど異常な冷えと、焦燥の中にいたのかが、今ならはっきりと分かります」
ルクレツィアは深く息を吐き出し、自嘲気味に微笑んだ。
「臨床的に見て、彼女の『肝』の熱は下がったが、代わりに『脾』と『腎』の気が完全に底をついている状態だな。おい、嬢ちゃん。お前をそこまで追い詰めた、魔王軍の『過労の元凶』とやらのシステムについて、詳しく聞かせてもらおうか」
哭が腕を組んだまま、部屋の壁に寄りかかり、その赤い瞳をルクレツィアへと向けた。
ルクレツィアは一瞬だけ視線を落としたが、意を決したように顔を上げ、重い口を開いた。
「……私の生真面目さが、奴らの呪いの苗床になったのです。この新大陸を開拓するにあたり、私は誰よりも成果を出し、誰もが豊かになる理想の都市を作ろうとしていました。そこに、あの影が耳を囁いたのです。『もっと効率を上げれば、1秒の無駄を削れば、全員が幸せになる』と。気がつけば、私は24時間眠ることも忘れ、部下たちにもそれを強要していました」
「典型的な、精神のオーバーワークによる『気の鬱滞』が引き起こした集団ヒステリーね……」
リナが複雑な表情で外の景色を見つめながら呟く。
「問題は、これがこの都市だけの話ではないということです」
ルクレツィアの言葉に、室内の空気が再びピリッと張り詰めた。
「新大陸の主要な交易都市、回廊、そして生産拠点はすべて、私と同じように『過労の魔王軍』が送り込んだ呪縛のシステム――『効率至上主義の魔導契約』によってガチガチに縛り上げられています。生産性は通常の数倍に跳ね上がりますが、その代償として、労働者たちの寿命と精神は数年で燃え尽きる。魔王軍はその『限界を超えて燃え尽きる人間の焦燥のエネルギー』を、大陸の経絡を通じて中央の拠点で一括して回収しているのです」
「なんですって……!? じゃあ、人間をまるでただの燃料みたいに使い潰して、その負の感情を吸い上げてるってこと!? そんなの、医療でもなんでもない、ただの搾取だわ!」
ハクが驚愕と怒りのあまりノートを強く握りしめる。
「ええ。この新大陸そのものが、人間から『気』を搾り取るための巨大なブラック企業と化しているのです。そして、そのシステムを総括しているのが、中央の魔城に君臨する魔王軍の幹部――『不眠の支配者・ギガワークス』」
「ギガワークス……。実に悪趣味な名だ。気に入らねえな」
ガストンが不快そうに鼻を鳴らし、戦斧の柄をきつく握り直した。
枢は静かに目を閉じ、ルクレツィアの話から、この新大陸全土に広がる「巨大な病理のネットワーク」の構造を頭の中で正確に描き出していた。
個人の病を治すだけでは、この大陸の人間は救えない。社会そのものの経絡の詰まりを、根元から瀉していかなければならないのだ。
「話は分かりました、ルクレツィアさん」
枢が静かに目を開け、その白銀の瞳に迷いのない光を宿して言った。
「往診チームの次の仕事が決まりましたね。私たちはこれより、新大陸の経絡を巡り、ギガワークスが仕掛けた歪んだシステムを一つずつ解きほぐしていきます。まずは、この都市の流通を正常化させ、人々が『正しく休める環境』を臨床的に構築することから始めましょう」
その力強い言葉に、ルクレツィアの瞳に涙が浮かび、バザルは深く深く頭を下げた。新大陸を過労の闇から救うための、往診チームの新たなる果てしない旅が、今ここから本格的に幕を開けようとしていた。
第538話をお読みいただき、ありがとうございました。
領主ルクレツィアの口から語られる新大陸の驚愕の支配システムと、次なる大敵「ギガワークス」の存在をじっくりと大ボリュームでお届けいたしました。社会全体の仕組みが人間を追い詰めるという、壮大な病理に枢先生たちがどう立ち向かっていくのかご期待ください。
さて、今回は作中の労働者たちのように「終わりのないタスクや過酷な肉体労働で、全身のエネルギー(気血)が完全に底をつき、朝起き上がるのも辛いほどの極度な疲労」を感じた時に、生命力のバッテリーを底上げするためのツボをお届けします。
今回ご紹介するのは、足にある高名な万能穴『足三里』です。
場所は、ひざのお皿のすぐ下にある外側のくぼみから、指幅4本分(人差し指から小指まで)下がったところにある、すねの骨の外側の筋肉の部分です。
ここは東洋医学において、消化吸収を司る『脾胃』の働きを劇的に高め、食べ物から新しいエネルギー(気)を生み出して全身へと送り出す、最大のエネルギー製造工場です。松尾芭蕉が奥の細道の旅の際に、ここに毎日お灸を据えて歩き続けたというエピソードでも非常に有名ですね。
ケアする場合は、親指の腹をツボに当て、骨のキワに向かって少し強めにじわーっと5秒間押し込むのを数回繰り返すか、市販のお灸でじっくり温めるのが最も効果的です。足の軽さだけでなく、胃腸の動きが活発になり、体の中から元気が湧いてくるのが実感できますよ。
次なる第539話は、明日**7月6日(月曜日)の【12:00】**に更新を予定しております。週明けのお昼休みのひとときに、都市の復興に向けた枢先生たちの次なる一手をお楽しみに!




