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『異世界で「ツボ」を突いたら神と呼ばれた件 〜指一本で魔王も聖女も救い出す、世界唯一の最強聖鍼術〜  作者: 鍼灸師いのぴー
【第五章 : 神代再編・枢復活編】

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第492話「潮騒の交易島!鳴り響く算盤と擦り切れる心」

木曜日のお昼休み、ホッと一息つく大切なひとときにお届けするのは、新章『潮騒の交易島編』の開幕です。

魔導船が次に辿り着いたのは、大小無数の帆船が行き交う活気溢れる港町――交易島サン・バルサ。


その華やかな街の流通を統括する「中央商務統理府」を舞台に、膨大な書類と過酷な責任の重圧に追われ、自律神経を極限まで擦り減らした職人たちのドラマが描かれます。

キャラクターたちの生きた掛け合いとともに、じっくりと展開する新章の幕開けをどうぞお楽しみください。

 どこまでも青く広がる海を滑るように進み、往診チームの魔導船が接岸したのは、大小無数の帆船がひしめき合う西海最大の港町――交易島『サン・バルサ』だった。

 タラップを降りた一行を迎えたのは、むせ返るような活気だ。異国の色鮮やかな織物が天幕のようにはためき、山積みにされたスパイスの刺激的な香気が潮風に混じって鼻腔を突く。行き交う商人たちの怒号のような値切り交渉、荷揚げ人たちの荒々しい掛け声。その賑やかさに、ネネは「わあ、すごい……!」と目を輝かせ、思わず駆け出しそうになっていた。


 しかし、その活気の中心部に佇むくるるの足は、完全に止まっていた。彼の涼やかな視線は、港の喧騒の奥、ひと際重厚な石造りで建てられた、灰色に沈む巨大な建築物へと向けられていた。


「……ねえ、すごい活気だけど。なんだかあの建物の周りだけ、空気が妙に重たくない? 見てるだけで、お胸がザワザワするというか……」

 ネネが怪訝そうに、その庁舎を指差した。島全体の流通と莫大な富を統括する「中央商務統理府」の庁舎である。


「ふん、無理もない。ここは西海のすべての金が動く心臓部だ」

 ハクが片眼鏡の位置を直しながら、冷ややかに呟く。

「動く金が大きければ大きいほど、それを管理する人間にかかる負荷も商応にいびつになる。魔獣の爪牙だけが人間を壊すわけではないさ」


 重い鉄の扉を押し開けて一行が庁舎の内部に一歩足を踏み入れると、そこには外の喧騒とは全く質の異なる、異様な「熱気」と「静寂」が同居していた。


 パチパチパチパチ、パチパチパチパチ……!

 耳を打つのは、何十人もの書記官や職人たちが、猛烈な勢いで算盤を弾く音。そして、羊皮紙に数字を書き殴る羽ペンの硬い音だけだった。

 異変は一目瞭然だった。作業にあたる者たちの誰もが、目の下にどす黒いクマを浮かべ、肌は土色に翳っている。呼吸は浅く、誰一人として口を開かない。魔導の罠が発動したわけでも、未知の毒ガスが撒かれたわけでもない。ただひたすらに、過酷な労働と、1セスタのズレも許されないという恐怖が、彼らの精神を内側から磨り潰していた。


「おいおい、どいつもこいつも死神に取り憑かれたような顔してやがるな。戦場でもねえのに、この張り詰めた空気は何なんだ?」

 ガストンが大きな身体を縮こまらせ、居心地悪そうに首を振る。


「魔力の異常や呪詛の気配はありません。ですが……空間全体の気が著しく滞り、収縮しています」

 シオンが周囲の職人たちの様子を痛ましそうに見つめる。

「これは、過度な緊張と休息不足が限界を超えて続いた時の、典型的な『気の閉塞』です」


「――そこ、手を止めるな! 何をしている!」

 庁舎の奥から、部屋全体の空気を切り裂くような鋭い怒声が響いた。

 声を張り上げたのは、この交易島の最高責任者である初老の男性、オルセンだった。机にうず高く積まれた契約書の山を前に、彼は部下たちを怒鳴り散らしている。だが、その彼自身の右腕は、筆を握ったまま見た目にもはっきりとガタガタと震えていた。

その顔は異常なほど上気して赤いのに、目は完全に虚ろで、視線があちこちへ定まらずに彷徨っている。


「オルセンさん、ですね。少し、その筆を置いていただけますか」

 枢が静かに歩み寄り、その穏やかな、しかし拒絶を許さない声で語りかけた。


「なんだお前たちは! 見ての通り、一分一秒を争う商談の最中だ! 往診の要請……? ああ、確かにそんなものを出すよう部下に命じた気もするが、今の私には寝ている時間など、一刻もないんだ!」

 オルセンは枢の手を振り払おうと、強引に立ち上がった。だが、その瞬間に激しい眩暈を起こしたように足元を大きくよろめかせた。机の角にガタツと手を突いて、かろうじて倒れるのを堪えるものの、その胸はまるで全力失走をした後のように激しく上下している。


「触らないでくれ……っ!」

 オルセンは自らの頭を両手で強く抱え込み、血を吐き出すように弱音を吐き出した。

「最近、少し横になろうとすると、耳の奥で嫌な波の音がずっと鳴り止まないんだ。胸がザワザワして、明日、もし自分が計算を一つでも間違えたら、この島の信用も、積み上げてきた商売も、すべてを失うかもしれないと思うと……一睡もできない。頭が、万力で締め付けられるように痛いんだ!」


責任者が放ったその言葉に、部屋中の職人たちの一瞬、痛々しそうに視線を落とした。彼らもまた、明日の仕事への恐怖と、終わりのない重圧のなかにいた。


「……ハク、ネネ。薬草の準備は一度待ってください」

 枢はオルセンの手首をそっと取り、その3箇所の脈(寸・関・尺)にそっと指先をあて、じっと耳を澄ますように診脈を始めた。そして、静かに告げた。

「これは、一服の薬で無理やり眠らせれば解決するというものではありません。脈は細く、まるで引き絞った弓のげんのように突っ張っています。過度の緊張と責任感が『肝気かんき』を著しく昂ぶらせ、体内の熱をコントロールできずに上気させている。明日への恐怖という根を絶たねば、薬の効き目が切れた瞬間に、また同じ発作が彼を襲います」


「でも、先生……! このまだと、この人本当に頭の骨がパチンって言っちゃいそうだよ? お顔も真っ赤だし、すごく苦しそう……」

 ネネが心配そうにすり鉢を抱えたまま、オルセンの顔を覗き込む。


「ふん、医者というのは時に残酷だな。目の前で苦しむ者に、すぐ特効薬を出さぬとは」

 ハクが冷やかすように言ったが、その瞳には枢の意図を察した深い光があった。


「ええ、残酷かもしれません。ですから今は『治す』のではなく、明日の朝、彼が正しい判断を下すための『余白』を、その身体に一度取り戻します。オルセンさん、左の足首を出していただけますか」


 枢の指先が、オルセンの内くるぶしの真下にある、小さなくぼみへと触れる。いつものような華やかな魔法の光も、空間を圧倒するような派手な台詞の応酬もない。ただ、一人の職人の張り詰めた心に寄り添うように、白銀の長鍼が静かに、そして深く滑り込んでいった。


「足の少陰腎経の……『照海しょうかい』に鍼を置きます」


 じわり、と。

 オルセンの足元から、まるで静かな夜の潮が満ちてくるような、深くて重みのある、独特の鈍い刺激がゆっくりと腰から背中、そして頭部へと広がっていった。


「劇的な変化はありません。ですが、照海は体内の水分(陰液)を潤し、頭に上りきった異常な熱や虚火きょかを、強制的に足元へと引き戻す名穴です。不安で胸が締め付けられ、夜も眠れないとき、この響きがあなたに『一歩を踏みとどまる静けさ』を与えます」


「あ……、ああ……、う……」

 オルセンの口から、張り詰めていた糸が切れたような、深い、本当に深い溜息が漏れ出た。

 ガタガタと震えていた右腕の強張りが、じわじわと解けていく。だが、長年の過労と責任感で凝り固まった彼の身体が、この一刺しだけで、すべて元の健康体に戻るわけではなかった。


「……耳の奥の音が、少し遠くなった。だが、まだ頭の芯が重い。おい、やはり私は仕事を続けなければ――」

オルセンはなおも書類に手を伸ばそうとする。


「当然です。これは数か月、あるいは数年かけて、あなたが実直に仕事に向き合い、溜め込んできた身体の澱みなのですから」

枢はそっと鍼を抜き、オルセンの目を真っ直ぐに見つめた。

「今夜はもう、その算盤を置きなさい。私たちが用意する、消化に良い養生粥を食べて、三時間だけでいい、目を閉じてください。あなたが倒れてしまえば、この大交易の船は本当に沈んでしまいます。この島の本当の治療は、明日から、何日もかけてじっくりと行います」


大きな音が鳴ることもなく、静かに、しかし確実に変化の兆しを見せ始めた庁舎。往診チームのサン・バルサ島での長い滞在が、ここから始まろうとしていた。

 第492話「潮騒の交易島!鳴り響く算盤と擦り切れる心」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


 新章・潮騒の交易島編の幕開けとして、過酷な責任感と終わりのない書類仕事によって「自律神経の極限の緊張、慢性疲労、将来への強い不安(肝気鬱結・陰虚火旺)」に直面した職人たちのドラマを描かせていただきました。

 キャラクターたちの会話のやり取りを通じて、新しい章の手触りを感じていただけていれば幸いです。


 今回、枢先生がオルセンさんの張り詰めた心と身体の強張りを緩めるために用いた、足首にある名穴「照海しょうかい」の効能について解説いたします。


 東洋医学において「照海」は、足の少陰腎経あしのしょういんじんけいに属する経穴であり、身体の根本的なエネルギーと潤いを貯蔵する「腎」の力を引き出す非常に重要な場所です。また、全身の「陰(潤いや静けさ)」をコントロールする『陰蹻脈いんきょうまく』の起点でもあります。


 ここは、過度のストレスや過労、頭脳労働によって体内の潤いが枯渇し、脳や心臓が興奮して熱を持ってしまった状態(虚火)を、文字通り「海を照らす穏やかな光」のように優しく静める効果があります。現代における、デスクワークやプレッシャーによる慢性的な不眠、イライラ、めまい、喉のつかえ感、そして自律神経の乱れによる手足の強張りを根本から優しく緩めてくれる、非常に臨床でも大切にされているツボです。


 焦燥の霧が晴れ始めた交易島で、往診チームがどのようにして職人たちの生活と心にじっくりと向き合っていくのか。


次なる第493話は、本日木曜日の【21:00】に更新予定です。

毎日12時と21時の確実な定期更新スケジュールで、一日の仕事を終えてホッと一息つく夜のリラックスタイムに、どうぞお楽しみに!

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