第438話:白銀対壊鍼、ギルの過去と枢の容赦なき一刺し
廃魔導エネルギー処理場の最深部は、夕闇の訪れと共に、さらに昏い緊迫感に包まれていました。
実験体をすべて無傷で完治させられた壊鍼のギルは、激しい屈辱の炎を瞳に宿し、その右手に握られた漆黒の長鍼から、空間を腐食させるほどの闇の気を吹き出させています。
国家に裏切られ、最新医療の犠牲となった過去を持つ男の、世界への復讐。
これに対し、枢先生は一本の白銀の鍼を静かに正眼に構え、その歪んだ経絡のすべてを「治療」するために前へと進みます。
「おやおや、ギル。あなたの過去にどれほどの絶望があったとしても、その痛みを無関係な患者さんに転嫁することは、医療の敗北を意味します。あなたのその冷え切った復讐心という名の悪性の腫瘍、これ以上肥大化させるわけにはいきません。リナさん、皆さん、そこで見ていてください。これより、この街の病を背負った男への、本気の執刀を開始します」
18時、日曜夕方の決戦。白銀対壊鍼、ギルの過去と枢の容赦なき一刺し。
二人の鍼師の信念が今、火花を散らして激突します。
廃棄場の天井の隙間から差し込んでいた僅かな夕光も完全に途絶え、空間は魔導結晶の残滓が放つ、不気味な青い燐光だけが支配する世界へと変貌していた。
壊鍼のギルが構える漆黒の長鍼は、周囲の光そのものを吸い込むかのように黒く、鋭く明滅している。
彼が放つ闇の気は、地を這う蛇のように砂混じりの床を侵食し、枢が創り出した白銀の絶対領域へと容赦なく牙を剥いて突進していた。
「貴公に何がわかる! 白銀の鍼師よ! このルミナリアの最新医療が、どれほど綺麗事で塗り固められているかを! かつて私の妹は、この街の中央病院が開発した新薬の『治験体』として使い捨てにされた。地上の権力者どもは、自分たちの不老長寿のために、地下の人間を家畜のように扱い、エラーが出ればこの廃棄場へと生きたまま投げ捨てるのだ。私が彼らの命を暴走させて何が悪い! これは、この歪んだ世界に対する、当然の等価交換だ!」
ギルの絶叫と共に、彼の身体から漆黒の魔力が爆発的に膨れ上がった。
その怒りと絶望の質量は、かつて枢が対峙した異端審問官や大提督のそれとは異なり、社会の底辺で虐げられてきた者たちの、血と涙の怨念そのものであった。
ギルは地を蹴ると、肉眼では捉えきれない三連撃の刺突を、枢の胸元へと繰り出した。
キィィィィィンッ!
金属同士が激突する高音が、狭い廃棄場の中に幾重にも反響する。
枢は右手の銀鍼一本で、その凶悪な黒鍼の先端を、ミリ単位の精度でことごとく弾き返していた。
火花が散る至近距離の中、枢の白銀の瞳は、ギルの肉体を巡る経絡が、復讐心という名の強烈な「気滞」によって完全に変色しているのを捉えていた。
「おやおや、ギル。あなたの妹さんの悲劇は、断じて許されるべきではありません。この街の医療が病んでいることは、私も認めましょう。……ですが、だからといって、同じ地下街で苦しむ無関係な人々を実験台にすることは、あなたが最も憎んだはずの『地上の一握りの権力者』と、全く同じ行為をしていることになりますよ。その矛盾に気づかないほど、あなたの心は、絶望という病の末期症状に陥っている」
「黙れ! 綺麗事など、我が壊鍼で穿ち砕いてくれるわ!」
ギルは弾かれた黒鍼を反転させ、今度は枢の視界を奪うように、足元から黒い霧の棘を無数に突き上げさせた。
全方位からの奇襲。
しかし、枢の歩法は乱れない。彼はリナたちを背後に庇いながら、地を滑るように一歩後退すると、左手の往診鞄から、ひときわ長く鋭い「極大の銀鍼」を抜き放った。
「悲しみを受け止めるべきあなたの経絡が、完全に冷え切っています。手の太陰肺経の、尺沢を穿ちます。その過剰な怒りによって昂りすぎた、上焦の熱をすべて引き下げましょう」
枢の身体が、黒い霧の棘をすり抜けるようにして、ギルの懐へと深く滑り込んだ。
ギルが黒鍼を突き出すよりも早く、枢の銀鍼が、ギルの肘窩のやや外側、上腕二頭筋腱の外側にある経穴、尺沢へと、容赦のない速度で深く突き立てられた。
「ぐあぁっ!?」
ギルの右腕から、パチチチと不気味な黒い電流が霧散し、手にした黒鍼の威力が半分以下へと激減した。
尺沢への穿刺によって、肺経の熱が強制的に排泄され、彼の攻撃の原動力であった「激しい怒りの気」が、根元からへし折られたのだ。
「おのれ……、だが、私はまだ止まらん! この命が尽きるとも、世界の法を呪い続けてやる!」
ギルは左手で床の魔導結晶の破片を掴むと、それを自らの胸へと突き刺し、強制的に残りの全魔力を暴走させようとした。
自爆をも辞さない狂気の選択。
リナが「先生、危ない!」と叫ぶ中、枢の表情から一切の躊躇が消え、その手元が白銀の残像を描いた。
「させません。足の太陰脾経、太白。あなたのその頑なな執着の根源を、ここで完治させます」
枢の二の刺しが、ギルの足の親指の付け根の後ろ、骨の際の経穴、太白へと完璧に命中した。
太白は、脾経の原穴であり、肉体と精神の「過剰なこだわり」や「執着」を司る経絡の要。
そこへ枢の純粋な白銀の気が注ぎ込まれた瞬間、ギルの体内で暴走しかけていた漆黒の魔力は、まるで冷水を浴びせられたかのように、一瞬にして完全に鎮静化した。
ギルの手から魔導結晶の破片が滑り落ち、彼はその場にガクリと膝を突いた。
彼を包んでいた禍々しい闇の霧は完全に晴れ、廃棄場には、静かな夜の空気が戻っていた。
ギルは激しい息を吐きながら、自分の胸元と足元に刺さった二本の銀鍼を見つめ、力なく笑った。
「……見事な執刀だな、聖鍼師。我が怒りも、我が絶望も、貴公の鍼の前にはただの『制御可能な気の乱れ』に過ぎないというわけか……」
「ギル、あなたの絶望は、私がこれからこの街の医療のすべてを往診することで、必ず治療してみせます。だから、あなたは生きなさい。生きて、妹さんのために、本当の医療が何であるかを、この底辺の診療所で私に見せてください」
枢は静かにギルの前に屈み、彼の腕と足から銀鍼を優しく抜き取った。
ギルの瞳からは狂気が消え去り、そこにはただ、長い間泣くことを忘れていた一人の孤独な人間の、静かな涙が零れ落ちていた。
しかし、二人の戦いが決着したその瞬間、廃棄場の天井が凄まじい爆音と共に崩落した。
降り注ぐ瓦礫の向こうから現れたのは、地上の「中央病院」の紋章を刻んだ、最新鋭の魔導装甲を纏った兵士たちであった。
彼らの目的は、ギルの捕縛ではなく、地下の実験データと、それを知った枢たち全員の「消去」であることは明白であった。
つづく。
5月17日(日)18:00、白銀対壊鍼。
聖鍼師・枢。宿敵の心を救うも、新たなる地上の脅威が迫る。
21時、本日最後の更新は、第439話「地上の傲慢、中央病院の黒い部隊とリナの電光一閃」へと突入します。
第438話「白銀対壊鍼、ギルの過去と枢の容赦なき一刺し」を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
新章の最初の大山場である、聖鍼と壊鍼の直接対決。
妹さんを最新医療の犠牲にされ、世界への復讐のために患者を使い捨てにしていたギルの過去は本当に切なく、重いものでした。しかし、どれほどの絶望があろうとも「目の前の命を絶対に諦めない、傷つけない」という枢先生の往診医としての信念が、ギルの頑なな心を真っ向から打ち破る展開となりました。
そんなギルの狂気とも言える暴走を止めるため、枢先生が繰り出した容赦なき二本の一刺し。
今回は、いのぴー先生の深い東洋医学の知見に基づき、高ぶりすぎた感情を物理的・精神的に鎮静させる、非常に劇的な二つの経穴の流れを描写させていただきました。
まず、ギルの右腕の肘にある尺沢を穿つことで、復讐の怒りによって胸の中に過剰に溜まっていた熱と気の暴走を一気に引き下げ、黒鍼の凶悪な攻撃力を根元から無力化しました。
そして、自爆覚悟で魔力を暴走させようとしたギルの足にある太白を刺激し、精神的な「過剰な執着」や「歪んだこだわり」を司る経絡の原穴を優しく満たすことで、世界への憎しみという名の病根そのものを瞬時に鎮静させ、彼を本当の意味で正気へと連れ戻しました。
ただ力でねじ伏せるのではなく、相手の悲しみや絶望そのものを経穴によって治療する姿は、まさに枢先生にしかできない最高の医療の形でしたね。
しかし、ギルの心を救ったのも束の間、地上の闇である中央病院の魔導部隊が、口封じのために襲撃してくるという最悪の引きとなりました。
地下の惨状を隠蔽しようとする地上の傲慢に対し、今度は仲間たち、そしてリナさんの戦士としての力が火を吹くことになります。
次回の第439話は、本日【21:00】に本日最後の更新予定です。
夜の帳が下りた廃棄場で、襲い来る地上の部隊を相手に、リナさんの電光一閃の業がどのように炸裂するのか。
加速する第二部の激動の展開を、ぜひお楽しみに!
皆様の熱い応援コメントや、ギルへの感想が、次の夜の更新を最高潮の熱量で執筆するための最高の気となります。
21時、硝煙燻る戦場の最深部にて、再び皆様とお会いできることを楽しみにしております。




