第266話:鏡の森の漂流者、希釈された「存在」を縫い止める
王都に訪れた穏やかな安息を切り裂くように、西の「鏡の森」から、実体を持たない「影」が這い出してきました。
第四章:忘却の聖者と翡翠の巡礼、第27話(通算第266話)。
民衆の愛によって再誕した枢の前に現れたのは、これまでのどんな患者とも異なる異形の存在でした。
彼らには顔がなく、厚みがなく、ただ人の形をした「影」として、地面を滑るように移動します。
神亡き後、世界の記述が不安定になったことで、存在そのものが「希釈」されてしまった民――『鏡の漂流者』。
「……聖者様……。……私たちは……消えたくない……。……どうか……私たちを……この世界に……縫い止めて……」
触れれば透け、言葉を交わせば霧散する。
この「存在の目減り」という難病に、枢は、自身の翡翠の鍼を「存在を記述する筆」として持ち替えます。
「……姿がないのなら、……私が……作りましょう。……。……あなたたちの……魂の……形を……」
聖鍼師・枢、今度は「無」を「有」へと治療します。どうぞ最後までお読みください。
王都の西側に広がる、常に霧が立ち込める禁忌の地――『鏡の森』。
かつて神アルキメスが、世界の設計図を描き損じた「下書き」を捨て去ったと言われるその場所から、それはやってきた。
朝の市場でパンを並べていたミナが、悲鳴を上げる暇もなく硬直した。
彼女の目の前にある石畳を、奇妙な「影」が這っていたからだ。
それは太陽が作る影ではない。
厚みを持たず、しかし確かに人の形を保ち、絶望に満ちた声を地面から響かせる、意思を持った「二次元の生命体」だった。
「……助けて、……。……記述が、……記述が……足りない……!!」
影の民――『鏡の漂流者』の一人が、ミナの足元に縋り付こうとする。
だが、その手はミナの靴を通り抜け、虚しく空を切った。
神がいなくなったことで、彼らを辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた「仮の記述」が崩壊し、彼らは文字通り、世界の「消しゴム」で消されるように、存在そのものが薄まり始めていたのだ。
「……下がって……ください、……ミナ。……。……彼らは……毒では……ありません。……ただ……あまりに……寂しい……だけです」
枢が、杖を突きながら静かに現れた。
彼の心眼には、目の前の影が、もはや「気」の循環さえ失い、情報の破片として霧散しかけている様が映っていた。
枢は、自身の左手で、自身の胸にある**『玉堂』**を、自身の自身の内に宿る「絆の光」を、影を実体化させるための「重り」として出力するために、指先で強く圧迫した。
彼は、地面に這いつくばる影の、本来「心臓」があるべき虚空へと、自身の右手を差し出した。
「……王都の……地下の……怨念とは、……真逆の……病。……。……密度が……なさすぎる……。……まるで……書きかけの……詩の……ようですね……」
枢は、懐から一本の、今まで一度も使ったことのない、漆黒と翡翠が螺旋を描く「重力の鍼」を取り出した。
それは、存在しない場所に無理やり「中心(重心)」を作り出し、記述を固定する禁忌の技――『虚空定着』。
「……少し……痛みますよ。……。……存在を……持つという……ことは、……重みを……引き受ける……ということですから」
枢は、自身の左指を、自身の額にある**『印堂』**に添え、自身の脳を「三次元の設計図」として、目の前の影に投影した。
彼は、影の胸の中央、解剖学的に見て**『膻中』**にあたる虚空へと、重力の鍼を、一気に叩き込んだ。
――ズゥゥゥゥゥゥンッ!!
鍼が刺さった瞬間、影が苦悶の叫びを上げた。
鍼を媒介にして、枢の体内に流れる「民衆の祈りの重み」が、情報の抜け殻だった影へと、濁流のように流れ込んでいく。
二本目の鍼を、影の足元、大地との接点である**『湧泉』**へと、枢は自身の右足を、自身の自身の全体重を乗せて踏み込むようにして打った。
――パキパキ、……メキメキ……。
信じられない光景が、周囲の民衆を戦慄させた。
地面を這っていたはずの「平面の影」が、まるで水を含んだ紙が膨らむように、立体的な「肉体」を持ち始めたのだ。
真っ黒だった身体に、血管が浮き上がり、筋肉が形成され、やがて半透明な「皮膚」が張り巡らされていく。
枢は、自身の左手で、自身の腰にある**『命門』**を、自身の自身の生命力が影に吸い取られすぎないように、自身の経絡を一時的に閉鎖するために強く押さえた。
「……最後……です。……。……自身の……輪郭を、……忘れないで……ください!!」
三本目の鍼。影の頭頂、天と繋がる**『百会』**。
――カァァァァァァァァァッ!!
影だった存在が、一人の、青白い肌を持つ青年として、実体を持って王都の地面に「立った」。
青年は、自身の震える手を見つめ、自身の腕を触り、そして隣にいる枢の衣を、初めて「掴んだ」。
「……触れる、……。……硬い……、……温かい……。……私、……今……ここに……いるのか……!?」
「……ええ。……。……おめでとう……ございます。……今日から……あなたは、……影ではなく、……この……世界の一人……です」
枢は、自身の左手で、自身の腹部にある**『天枢』**を、自身の自身の激しい目眩を押し殺すために、掌で深く抉るように押さえた。
だが、森から這い出してきている影は、まだ数百、数千といた。
第266話。
聖鍼師・枢は、存在を奪われた影の民に「重み(記述)」を与え、神が捨てた下書きを、一人の人間として描き直していく。
王都の門前に並ぶ、無数の影。
枢は、ボロボロになった鍼筒を握り直し、霧の向こう側を見据えた。
「……往診の……行列は……長いようですね……。……。……さあ、……。……全員……まとめて……立たせて……差し上げましょう」
王都は、存在しない者たちが「生まれる」ための、巨大な産院へと変貌を遂げようとしていた。
本日、日曜日8:00の更新を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
第四章の第27話(通算第266話)。
神亡き後の不安定な世界に現れた「存在の希釈」という難病。
神が捨てた「下書き」である影の民に対し、枢が解剖学的な重心と、民衆から受け継いだ「絆の重み」を注入することで、彼らを三次元の存在へと引き上げる姿を描きました。
これこそが、世界の不備を補完し、記述を完成させる聖鍼師の新たな役割です。
今回、枢が影を実体化させるために、自身の「存在の重み」を分け与えて駆使したツボの技術を解説します。
まず、自身の内に宿る数万人のエネルギーを「影を押し広げるための圧力」として出力した**『玉堂』**。ここは胸の中心にあるツボであり、枢はここを「ポンプ」として使い、存在の密度がゼロに近い影に、強引に「質量(気)」を送り込みました。
そして、影が地面から浮き上がり、立体としての重心を確立するために用いた**『湧泉』。足の裏にあるこのツボは、大地とのエネルギー交換の要。枢はここに重力の鍼を打ち込むことで、影が二次元に逃げるのを防ぎ、三次元の物理法則に「縫い付けた」のです。
最後に、不安定な魂の記述を天の理に固定するために叩いた『百会』**。ここを刺激することで、枢は影の民の精神を、神の管理下ではない「新しい世界の記述」に同期させ、消滅の連鎖を断ち切ったのでした。
次回の第267話(第四章 第28話)は、本日**【10:00】**に更新予定です。
影の民を次々と実体化させていく枢。
しかし、彼らの身体には、この世界のものとは異なる「拒絶反応」が起こります。
実体化した瞬間に、肉体が激しい「結晶化」を起こし、美しいが冷酷な石像へと変わり始める若者。
「……枢様、……助けて……。……心が……凍っていく……!!」
10時、翡翠の石像、凍結する魂。
聖鍼師・枢、存在の「硬化」を治療します。どうぞお見逃しなく!




