第233話:深淵の逆侵食、右腕が囁く「救済の終わり」
本日も、深夜までお付き合いいただき、心より感謝申し上げます。
土日ブースト初日、最後の更新となる21:00です。
アルキメスの『最初の没案』であった少年の魂を、自らの漆黒の右腕へと飲み込んだ枢。
虚無と怨嗟が混ざり合うその深淵は、もはや一人の鍼灸師が制御できる限界を、遥か彼方へと超越していました。
「……枢先生、……返事をしてください! ……目を開けて!!」
ミナの悲鳴が遠く、水底に沈む泡のように消えていく。
意識の混濁の中で、枢の耳に届いたのは、右腕の奥底から響く、少年の無垢で残酷な囁きでした。
「……おじさん、……疲れたでしょ。……少し、……代わってあげる。……ボクが……おじさんを『治療』してあげるからね」
主導権を奪われた右腕が、枢の肉体を逆侵食し始める。
聖鍼師の物語は、ついに「自身への往診」という禁忌の領域へと踏み込みます。
本日最後の衝撃、その眼に焼き付けてください。
街道の霧は、もはや霧と呼べるものではなくなっていた。
枢が少年の魂を飲み込んだ瞬間、周囲一帯の因果は完全に破壊され、色彩も、音も、そして重力さえもが、狂った時計のように歪み始めていた。
「……枢、……おい、……枢ッ!!」
カザンが、枢の肩を掴んで激しく揺さぶる。
だが、その指先に伝わってきたのは、人間の体温ではなかった。
冷たい。
まるで、数千年前の氷河に触れたような、絶対的な零度。
枢の翡翠眼は、焦点が定まらぬまま、虚空を見つめている。
彼の右腕は、もはや肩から先が「意志を持つ生き物」のようにうねり、黒い煙を上げながら膨張を繰り返していた。
枢の内側では、壮絶な「対話」が行われていた。
(……おじさん、……苦しいね。……この右腕の中にいる、……数万人の声……。……みんな、……『助けて』じゃなくて……『ボクを消して』って言ってるよ)
少年の声が、枢の脳髄を直接撫でる。
(……いいえ、……それは違います。……彼らが求めているのは、……消滅ではなく……『認められること』です。……私が、……それを……)
枢の意識が、薄れゆく光の中で反論する。
(……無理だよ。……おじさんは、……ただの人間だもん。……神様の失敗作を、……全部背負えるわけない。……だから、……ボクが代わってあげる。……ボクは、……アルキメス様の『理想』だったんだから)
その瞬間、枢の右腕から、無数の黒い触手のような血管が噴き出し、彼の胸元、心臓の直上にある**『極泉』**を、内側から突き破ろうと暴れ出した。
枢は、残された左手で、自身の喉元にある**『人迎』**を、指が喉にめり込むほどに強く押し込んだ。
脳への血流を一時的に遮断し、意識を極限まで研ぎ澄ませることで、乗っ取られようとする自身の「自我」を繋ぎ止める。
「……ぐ、……あ……、……はぁ、……ぁ……!!」
枢が、激しく血を吐いた。
その血は、地面に触れた瞬間、パチパチと音を立てて蒸発し、小さな文字の集合体となって消えていく。
「……ミナ、……離れてろ!! ……今の枢は、……枢じゃねえ!!」
骸が、自身の義手を盾のように構え、ミナを後方へと突き飛ばした。
骸の視界には、枢の背後に、あの翡翠色の瞳をした「少年の影」が、巨大な死神のように重なって見えていた。
「……邪魔を、……しないでよ。……おじさんは、……ボクと……一つになるんだ。……そうすれば、……この世界に……本当の『終幕』を……書けるから」
枢の口から、少年の声が漏れ出した。
その声音には、アザレアの村を救った慈愛の欠片もなく、ただ、書き損じられた物語をすべて白紙に戻そうとする「虚無の意志」が宿っていた。
枢は、自身の左手で、最後の抵抗として自身の腕にある**『支正』**を突いた。
小腸経のツボであり、「正しい支え」を意味するこの経穴を刺激し、自身の歪んだ意識を正常に戻そうとする。
しかし、右腕に宿った少年の力は、枢の経絡を強引に書き換え、自身の「神経」として支配下に置き始めていた。
「……だめ、……です。……君は、……救われるべき……患者であって、……執刀医に……なっては……いけない……」
枢の意識が、真っ暗な海の底から、微かな光を求めて手を伸ばす。
彼は、震える左指で、自身の額にある**『印堂』**――「第三の目」とも呼ばれる急所を、自身の銀鍼で深く刺し抜いた。
「……枢先生!!!」
ミナの絶叫。
枢は、自身の精神を強制的にシャットダウンさせることで、少年の「乗っ取り」を阻止しようとしたのだ。
自身の脳に直接鍼を打つという、医療の常識を逸脱した、自滅に近い禁忌の処置。
その瞬間、枢の右腕の暴走が、ピタリと止まった。
黒い血管は縮み、膨張していた筋肉は元の細さに戻っていく。
だが、枢の瞳からは完全に光が消え、彼は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
「……枢!!」
カザンが駆け寄り、枢の体を抱きかかえる。
枢の体温は、氷のように冷たいままだった。
右腕は、漆黒のままピクリとも動かない。
意識を失った枢の脳内で、少年の声が、遠ざかりながら不気味に響いていた。
(……ふふ、……おじさん、……寝ちゃったんだ。……でも、……いいよ。……明日の朝、……目が覚めたとき……ボクが……おじさんの『一番大切なもの』を……もらっておくからね……)
霧が晴れた後の街道に、夜の沈黙が戻ってきた。
第233話。
土日ブースト初日、衝撃の幕切れ。
自らの意識を封印し、異形の乗っ取りを阻止した枢。
しかし、眠りに落ちた彼の内側で、少年という名の「毒」は、着実に彼の魂を浸食し続けていた。
本日も、全6回の更新を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
土日ブースト初日のラスト。枢が選んだのは、自身の精神を刺し貫き、強制的に眠りにつくという、あまりに悲痛な「自己隔離」でした。
少年の「一番大切なものをもらう」という不穏な言葉。
明日の朝、枢が目覚めたとき、彼の翡翠眼には何が映っているのでしょうか。
明日の日曜日は、いよいよブースト2日目。
**【4月5日(日) 08:00】**より、再び全6回の更新を開始いたします。
目覚めた枢を待っていたのは、五感のうちの一つを失った「不完全な世界」。
絶望の朝に、カザンと骸が、友のために立ち上がります。
明日も、圧倒的な熱量と文字数で、物語の核心へと切り込みます。
今夜はゆっくりとお休みください。
ありがとうございました!




