第232話:棄てられた自画像、道端に咲く「未完成」の少年
本日も、夕方の更新をお読みいただき、心より感謝申し上げます。
アザレアの村を救いながらも、その異形ゆえに「怪物」として疎まれ、静かに村を去った枢。
右腕に封じ込めた数万の怨嗟は、今も彼の経絡を内側から焼き、精神を削り続けています。
「……枢、……休め。……お前の呼吸は、……もう……壊れかけている」
カザンの制止も聞かず、血を吐きながら歩を進める枢の前に、一人の少年が立ちはだかりました。
その少年は、アルキメスがかつて「完璧な世界」を作るために、最初に切り捨てた『未完成の自画像』。
「……ボクを、……殺しに来たの? ……それとも、……ボクを……『治療』してくれるの?」
神に捨てられた子供と、神の絶望を喰らった鍼灸師。
孤独な二つの魂が交錯する、新章の幕開け。
第232話、救済の「本当の意味」を問う、慟哭の往診をお届けします。
アザレアの村を後にしてから、数時間が経過していた。
街道を包む朝霧は、いつの間にか重苦しい湿り気を帯びた夕霧へと姿を変え、一行の行く手を阻んでいる。
枢の歩みは、一歩ごとに土を抉るほどに重かった。
右腕は、もはや「肉」としての機能を失いつつある。
漆黒に変色した肌の下では、封じられた数万の怨嗟が、逃げ場を求めて暴れ狂っていた。
「……っ、……はぁ、……ぁ、……ぅ……!!」
枢が、激しく咳き込んだ。
口から零れ落ちたのは、鮮紅の血ではない。
どろりとした、文字の破片が混ざったような「黒い泥」だった。
「……枢先生!!」
ミナが駆け寄り、枢の背中を支えようとする。
だが、その手が枢の服に触れる寸前、黒い右腕から放たれた不気味な衝撃波が、彼女を優しく、しかし確実に跳ね返した。
「……来ないで、……ください。……今の私は、……触れるものすべてを……『否定』してしまいかねない……」
枢の声は、地底から響くような、重く、掠れたものに変貌していた。
枢は、震える左手で自身の足にある**『足三里』**を、渾身の力で突いた。
胃経の要穴であり、強壮のツボ。
枯れ果てようとする自身の生命力を、無理やり底上げし、一歩でも先へ進むための「燃料」を絞り出す。
さらに、手首の内側にある**『内関』**。
心を守り、吐き気を鎮めるこのツボに、自身の爪を立てて深く、深く抉るように圧迫した。
脳内を駆け巡る数万の「死にたい」という囁きを、物理的な激痛で塗り潰すために。
「……そこまでだ、……鍼灸師。……これ以上進めば、……お前の『心臓』が……先に止まるぜ」
骸が、自身の義手を枢の行く手へと突き出した。
死の気を纏う骸でさえ、今の枢から漏れ出す「因果の猛毒」には、本能的な恐怖を感じていた。
「……止まるわけには、……いかないんです。……私が止まれば、……私の中にいる……彼らの物語が……本当に……『なかったこと』になってしまう……」
その時だった。
霧の向こう側から、パタパタと軽い足音が聞こえてきた。
現れたのは、十歳にも満たないであろう、一人の少年だった。
ぼろぼろの麻の服を纏い、裸足で冷たい土を踏みしめている。
その髪は白く、瞳は透き通るような翡翠色をしていた。
「……おじさん、……すごいね。……そんなにたくさんの『ゴミ』を、……一人で……持ってるんだ」
少年の声は、鈴を転がすように清らかだったが、その言葉には、一切の感情が宿っていなかった。
「……坊主、……どこの誰だ。……こんな場所で……一人で何してやがる」
カザンが、警戒を解かずに問いかける。
この霧の中、子供が一人で歩いていること自体が、この世界の「異常」を物語っていた。
「……名前? ……ないよ。……ボクは、……アルキメス様が……一番最初に描いて、……『やっぱりこれじゃない』って……消されちゃった……落書きなんだから」
少年の言葉に、枢の翡翠眼が大きく見開かれた。
少年が歩くたび、その足跡からは色が抜け、地面が白く変色していく。
彼こそが、アザレアの村を襲った「白化病」の真の源泉。
アルキメスがかつて「自分自身の理想像」として描き、未完成のまま廃棄した、生ける『没案』。
「……君が、……最初の……」
枢が、膝を突き、少年と同じ目線になろうとした。
激痛が全身を走るが、枢はそれを無視して、少年の虚ろな瞳を見つめた。
「……おじさん、……ボクを……直してくれるの? ……それとも、……他の人みたいに……ボクを……消しちゃうの?」
少年が、無邪気に右手を差し出した。
その掌は、既に輪郭がぼやけ、背景の霧が透けて見えている。
枢は、躊躇わなかった。
彼は、呪われた真っ黒な右腕を、ゆっくりと、しかし確実に少年の手へと伸ばした。
「……危ねえッ、枢!!」
カザンの叫び。
二人の手が触れ合った瞬間。
アザレアの村で起きたこととは比較にならない規模の、巨大な「因果の放電」が周囲を焼き払った。
霧は一瞬で蒸発し、街道の木々は真っ白に脱色され、砕け散る。
枢の右腕から、黒い「絶望」が少年の体内へと流れ込み、少年の「虚無」が枢の肉体を白く侵食し始めた。
毒と虚無。
どちらが先に相手を消し去るかの、凄絶な「生存競争」が枢の肉体の中で始まった。
「……ぐ、……ぁ、……ああああああああああああああッ!!!」
枢は、左手で自身の頭頂部にある**『百会』**を、自身の鍼で貫いた。
百の気が集まるこのツボを強制的に開放し、自身の全精神力を、この少年の「再記述」へと注ぎ込む。
「……君は、……ゴミなんかじゃない。……アルキメスが……捨てたとしても、……私が……ここに刻みます……!!」
枢の指先が、少年の胸元――**『膻中』**を捉えた。
感情が集まるそのツボに、枢は自身の右腕に封じられた「数万の人生」のうち、最も温かく、最も優しい記憶を、一滴だけ滴り落とした。
少年の虚ろな翡翠色の瞳に、一瞬だけ、本当の「光」が宿った。
「……あ、……ぁ……。……暖かい、……ね……」
少年の体が、枢の腕の中で、光の粒子となって崩れていく。
それは消滅ではない。
枢の右腕という名の「牢獄」へと、少年の魂が、一人の患者として迎え入れられた瞬間だった。
第232話。
アルキメスの『最初の没案』を飲み込み、枢の右腕は、さらなる深淵へと変貌を遂げる。
一人の少年を救うために、枢は自らを、さらに人間から遠ざけていく。
本日、18:00の更新を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
土日ブースト第5回。現れたのは、アルキメスの捨てられた自画像とも呼べる少年でした。
彼を救うために、枢は自らの肉体を「虚無」の受け皿として差し出し、さらなる異形へと足を踏み入れました。
救うたびに、人間としての形を失っていく枢。
その姿を、カザンやミナたちは、どのような思いで見つめているのでしょうか。
次回の第233話は、本日最後の更新**【21:00】**にお届けします。
少年の魂を飲み込んだ右腕が、ついに言葉を発し始めます。
「……枢、……代われ。……今度は、……ボクが……お前を救ってあげる」
内側から響く少年の声。枢の意識が、闇へと沈んでいく。
21時、本日最大の衝撃があなたを襲います。
最後まで、どうぞお見逃しなく。




