第196話:翡翠の城壁、静止した呼吸を盗む水鍼
3月28日、08:00。休日の1回目更新をお読みいただきありがとうございます。
診療所を後にした枢一行の前に現れたのは、美しくも残酷な「翡翠の都」でした。
門を固めるのは、人間としての情動を捨て、ただ規則正しく脈打つ結晶の兵士たち。
「……枢、……あれは門ではない。……巨大な『因果の結び目』だ。……力で抉れば、……王都全体の命が、……一気に砕け散るぞ」
骸の警告。
枢は、自身の往診鞄から、これまで一度も実戦で使わなかった「透き通るような水の鍼」を取り出します。
「……壊す必要はありません。……この門の『呼吸』を、……私たちが、……一時的に借りるだけです」
鍼灸師・枢、王都奪還の第一鍼。
静止した世界が、一人の男の指先によって、再び「流動」を始めます。
馬車の車輪が、不自然なほど静かなアスファルトの上で止まった。
王都へと続く街道の終着点。そこには、かつて人々を温かく迎え入れていたはずの白亜の城門が、天を衝くような巨大な「翡翠の結晶」に飲み込まれていた。
城門だけではない。王都全体を覆うようにして、半透明の緑色のドームが展開されており、その表面を無数の「光の回路」が血管のように這い回っている。
「……信じられませんわ。……これだけの規模の術式、……最高医局の魔力炉をすべて繋いでも、……維持できるはずがありませんのに……」
サロメが馬車から降り立ち、翡翠のドームを見上げて絶句した。
「……魔力炉じゃねえ。……中にいる『数万の人間』だ」
骸が、自身の目を細めてドームを凝視した。
「……あのドームを這い回る光の回路……、……あれは王都の住人たちの『経絡』を強引に引き摺り出し、……一つの巨大なネットワークとして繋ぎ合わせている。……都そのものが、……一つの巨大な、……生ける電池になってやがるんだ」
骸の言葉に、アンナが唇を噛み締めた。
彼女が脱出してきた時よりも、結晶化の範囲はさらに広がり、都の内部からは一切の「生活の音」が消え去っている。
「……カザン兄貴、……枢様。……門を固めているのは、……かつての私の部下たちです。……ですが、……中身はもう……」
アンナが指差した先。城門の前には、全身を緑色のクリスタルでコーティングされた重装歩兵たちが、微動だにせず整列していた。彼らは呼吸も瞬きもせず、ただ一定の周期で胸元の「核」を点滅させている。
「……枢。……あいつらをなぎ倒して進むか?」
カザンが槍を握り直し、足元の地面を蹴った。
「……いいえ、カザン殿。……彼らはドームと直結しています。……彼らの一人を傷つければ、……その反動がドームを通じて、……中に囚われている数千人の患者さんに、……激痛としてフィードバックされます。……それは、……最も避けるべき事態です」
枢は、自身の往診鞄から、氷のように透明で、触れると形を失いそうなほど柔らかな**『水霊の極細鍼』**を取り出した。
「……破壊ではなく、……同調。……私は、……鍼灸師です。……この城壁という『巨大な身体』の、……脈動の一部になればいい」
「……へっ、……言うじゃねえか。……だが、……ドームの周波数は、……常に変動してやがる。……合わせるのを一瞬でもミスれば、……お前の『気』がドームに吸い尽くされて、……お前自身が、……新しい城壁のレンガに早変わりだぞ」
骸が、冷やかしながらも自身の漆黒の鍼を数本、予備として指の間に挟んだ。
「……骸。……あなたの『死鍼』で、……一時的に私の心音を消してください。……私がドームに触れる瞬間、……私の存在を、……『無』に近づける必要があります」
「……無茶を言う。……俺の鍼でお前の心臓を止めれば、……二度と動かなくなるかもしれねえんだぞ?」
「……あなたを、……信じていますから」
枢の翡翠色の瞳が、真っ直ぐに骸を射抜いた。
骸は一瞬、毒気を抜かれたように肩をすくめると、不敵な笑みを浮かべて枢の背後へと回った。
「……後悔するなよ。……鍼灸師・枢」
骸の放った黒い鍼が、枢の背骨の第3胸椎下にある**『肺兪』と、第5胸椎下の『心兪』**へと、同時に突き刺さった。
ドクン……ドクン……。
枢の心拍数が極端に低下し、彼の体温が急速に奪われていく。
サロメが悲鳴を上げそうになるのを、嵐が影の中からその口を塞いで制した。
「……静かに。……枢の『幽体』が、……今、……境界線を越えようとしている」
枢の意識は、極限まで薄まり、周囲の風景が溶け合うような感覚に陥っていた。
彼は、完全に「死者」に近い状態のまま、翡翠の城壁へと一歩を踏み出し、掌をその冷たい結晶の表面に添えた。
――キィィィィィィィィンッ!!
ドーム全体の振動が、枢の掌を通じて、彼の微かな脈動へと流れ込んでくる。
それは、数万人の悲鳴と、編纂者たちの冷酷な数式が混じり合った、不快な旋律。
「……見つけました。……このドームの、……唯一の『呼吸の隙間』を……」
枢は、水霊の鍼を、ドームの脈動が最も不安定になる周期に合わせて、結晶の「継ぎ目」へと差し込んだ。
「……鍼灸奥義、……『水鏡・同調の雫』!!」
水霊の鍼から流れ出したのは、何の抵抗も持たない、ただ透明な「受容」の気。
ドームの防衛システムは、枢の気を「外敵」ではなく、自分たちの一部である「余剰なエネルギー」と誤認した。
結晶の表面に、水紋のような波紋が広がり、そこに枢一人が通り抜けられるほどの、小さな「空間のゆらぎ」が発生した。
「……今です、……骸!! ……私の気を、……一気に呼び戻してください!!」
骸が枢の背中を叩き、埋め込んでいた黒い鍼を引き抜いた。
ドォォォォォォンッ!!
枢の心臓が爆発的な鼓動を再開し、彼の身体から溢れ出した翡翠の光が、ドームのゆらぎを固定した。
その隙間を縫うようにして、枢たちは滑り込むように城壁の内部へと足を踏み入れた。
門番の結晶兵たちは、自分たちの目の前を「影」が通り過ぎたことさえ気づかず、ただ虚空を見つめ続けている。
城門を抜けた先に広がっていたのは、枢が知っている王都の風景ではなかった。
家々、露店、そして路上の石畳に至るまで、すべてが薄緑色の結晶に覆われ、時が止まっている。
人々は、歩いている途中のポーズのまま、あるいは子供を抱き上げたまま、美しい翡翠の彫像となって立ち並んでいた。
そして、都の中央にそびえ立つ王城は、今や巨大な「翡翠の樹」となり、その枝先からは、都中に結晶化の種を蒔き続ける、紫色の花火が絶え間なく打ち上げられていた。
「……これが、……王都の、……今の姿……」
アンナが膝を突き、崩れ落ちた。
「……悲しむのは、……全員を救ってからにしましょう。……骸、……カザン殿。……この都全体の『気の根源』……、……あの王城を、……直接診に行きます」
枢は、自身の往診鞄を強く握り直した。
鍼灸師としての最大の往診。
数万の彫像と、壊れた世界の理が支配する王都で、聖鍼師の逆襲が今、静かに幕を開けた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月28日(土)、休日特別スケジュールの第1回目をお届けいたしました。
王都を覆う翡翠のドームを、破壊ではなく「同調」という鍼灸師らしいアプローチで突破した枢。
しかし、内部に広がっていたのは、数万の人間が静止した「宝石の墓場」でした。
今回登場した術理、『肺兪』と『心兪』。
背骨の両脇にある、肺と心の気を司る重要穴です。骸がここを操作して枢の「生体反応」を極限まで抑えることで、無機物である城壁に同調させるという、バディならではの離れ業を描きました。
次回、第197話は本日**【10:00】**に更新予定です!
王都の大通りを進む一行の前に現れたのは、かつて枢が治療したことのある「馴染みの患者さん」でした。
しかし、結晶化した彼女の体内からは、新たな異界の怪異が孵化しようとしていました。
休日の全6回更新、次は2時間後。
王都奪還編、ここからさらに加速します。
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