第191話:影の毒、沈黙の守護者が放つ黒曜の楔
3月26日、21:00。本日最後の更新をお読みいただきありがとうございます。
黄昏の精霊を鎮め、診療所に戻った枢一行。
そこに待っていたのは、かつて王都最高医局で枢と主席を争った才女、セシリアでした。
「……枢、……助けて。……王都の患者たちが、……生きたまま『宝石』に変わっていくの」
彼女が差し出した症例報告書。しかし、枢の手が触れる直前、背後の影から嵐の漆黒の髪が躍動します。
救済を装った罠、そして診療所を包囲する不可視の暗殺者たち。
「……枢は、……寝ていろ。……この程度の『ゴミ』、……私の影で十分だ」
嵐の魔力が夜の静寂を塗り潰し、異界の尖兵たちを無慈悲に刈り取ります。
聖鍼師を守る、最強の「盾」と「矛」。
嵐さんの本気が、今、解き放たれます。
夜の帳が下りた診療所は、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
唯一、奥の談話室から漏れるランプの灯りだけが、クヌギの林を微かに照らしている。
枢は、自身のデスクに置かれた一枚の羊皮紙――セシリアが持ち込んだ「王都の症例」を、厳しい表情で見つめていた。
「……信じられませんね。……皮膚が硬質化し、……内臓がエメラルド色の結晶に置換される……。……そんな病、……これまでの医学書には一例も……」
「……だから、……あなたの力が必要なのよ、枢」
ソファに深く腰掛けたセシリアが、疲れ切った顔でコーヒーを啜った。
彼女は王都最高医局が崩壊した後、私設の救護院を立ち上げ、民衆の治療にあたっていたはずだった。だが、今の彼女の瞳には、かつての快活な才女の面影はなく、底知れぬ恐怖が張り付いている。
「……患者に触れるたびに、……私の中の『気』が吸い取られていくような感覚があるの。……まるで、……病そのものが意思を持って、……医師を食らおうとしているみたいに……」
セシリアが、震える手で二枚目の報告書を枢へと差し出した。
枢が、その紙を受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。
――ガツンッ!!
音もなく影から飛び出した漆黒の魔力の触手が、セシリアの差し出した報告書を、枢の手元に届く寸前で弾き飛ばした。
「……なっ、……何を!? ……枢、……今の黒い霧は……!」
セシリアが驚愕して立ち上がる。
「……下がりなさい、枢。……それは『報告書』ではない。……ただの、……呪いの媒体だ」
部屋の隅、闇が最も濃い場所から、嵐がゆっくりと姿を現した。
彼女の周囲には、普段の比ではない濃密な殺気が渦巻いており、その漆黒の双眸は、セシリアではなく、彼女が持ってきた「カバン」を射抜いていた。
「……嵐さん、……どういうことですか?」
枢が尋ねるが、嵐は答えず、床に落ちた羊皮紙に向かって、指先から小さな漆黒の火花を放った。
ジジッ、という不快な音と共に、羊皮紙が焼け焦げる。
すると、そこから這い出してきたのは、文字ではなく、無数の小さな「透明な蜘蛛」だった。それらは虚空を泳ぐようにして枢の喉元へと殺到しようとしたが、嵐が展開した漆黒の結界に触れた瞬間、パチンと音を立てて消滅した。
「……『因果の蝕み』……。……これを直接、……枢の**『天突』**に食い込ませるつもりだったようだな」
嵐の視線が、再びセシリアへと向けられる。
いや、セシリアではない。
セシリアの背後に張り付いていた、透き通るような「影」へと。
「……誰だ。……女医の背後で、……糸を引いているのは」
「……ク、……クフフ……。……さすがは『異界の処刑人』……。……これほど完璧な擬態を見抜くとはな」
セシリアの影が歪み、そこから一人の男が染み出すように現れた。
全身を白銀の包帯で巻き、顔には「瞳が描かれた仮面」をつけた異様な男。
彼はセシリアの首筋に冷たい指を添えたまま、枢に向かって優雅に一礼した。
「……初めまして、聖鍼師・枢。……私は『因果の編纂者』……。……世界の秩序を正すために、……君という『不確定要素』を、……この歴史から削除しに来た」
「……セシリアを離してください!! ……彼女は、……ただ私を頼って来ただけだ!!」
枢が立ち上がろうとするが、編纂者が指先を弾くと、空間の重力が一気に増大し、枢を椅子に縛り付けた。
「……枢、……動くなと言ったはずだ」
嵐が、一歩、前へと踏み出した。
彼女が歩くたびに、診療所の床が黒い結晶へと変貌し、周囲の温度が氷点下まで急降下していく。
以前見せた「魔王の娘」としての力が、枢を守るという一点において、臨界点を超えて解き放たれようとしていた。
「……ほう? ……この閉鎖された空間で、……私と戦うつもりか? ……この女医の命が惜しくないのか……」
「……命? ……そんなもの、……私にとっては、……枢以外のものは、……ただの数字に過ぎない」
嵐の言葉は冷酷だった。だが、その指先が描いた複雑な魔力紋章は、セシリアを殺すためではなく、彼女の周囲にある「影」そのものを物理的に切り離すためのものだった。
「……黒曜奥義、……『影断ちの葬列』!!」
嵐の影が千本もの鋭い槍へと変貌し、編纂者に向かって全方位から殺到した。
ドガガガガガッ!!
診療所の壁が、天井が、影の槍によって無数に貫かれる。
編纂者は驚愕し、セシリアを盾にしようとしたが、嵐の影の槍はセシリアを「透過」し、彼女の影の中に潜んでいた編纂者の「本体」だけを正確に貫いた。
「……ギ、……ガッ!? ……影を透過し、……概念だけを撃ち抜く……だと……!?」
「……勘違いするな。……私は、……お前を殺すためにここに来たのではない。……枢の『往診』の邪魔をするゴミを、……掃除しに来ただけだ」
嵐が指先を握り込むと、編纂者の身体を貫いていた影の槍が爆縮し、彼を漆黒の小さな球体へと閉じ込めた。
断末魔の叫びさえも許さない、絶対的な「消滅」。
嵐は、力なく崩れ落ちたセシリアを、冷たい瞳で見下ろした。
彼女にかけられていた暗示が解け、セシリアは深い眠りへと落ちていく。
「……嵐さん、……やりすぎです……。……診療所が、……穴だらけではありませんか……」
枢がようやく自由になった身体を動かし、苦笑いを浮かべた。
「……うるさい。……直したければ、……その鍼で、……建物の経絡でも突けばいいだろう」
嵐はそう言い捨てると、再び影の中へと消えていった。
だが、枢は知っていた。
彼女の指先が、微かに震えていたことを。
「因果の編纂者」という新たな敵の気配は、かつての最高医局とは比べものにならないほど冷たく、鋭い。
嵐さんは、自身の魔力を極限まで削って、その脅威を枢に触れさせないよう、最前線で戦ってくれたのだ。
「……枢。……あいつらは、……一つではない」
影の中から、嵐の低い声が響く。
「……王都に撒かれた『結晶病』……。……あれは、……編纂者たちが仕掛けた、……世界規模の『大手術』の始まりだ。……準備をしておけ、……聖鍼師。……次は、……影で守りきれる保証はない」
枢は、床に散らばった透明な蜘蛛の死骸を見つめた。
今回の敵は、組織ではない。
この世界の歴史、因果、そして「運命」そのものを操る、形なき意志。
枢は、使い古された銀鍼を手に取り、静かに呟いた。
「……運命を書き換えるというのなら、……私は、……その運命の『ツボ』を、……穿つだけです」
窓の外、夜空には紫色の不気味な流星が、一つ、また一つと降り注いでいた。
それは、世界中に「異界の病」が蒔かれた、終焉の序曲だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月26日(木)、本日最後の更新をお届けいたしました。
ついに「日常の守護者」としての嵐さんが、その圧倒的な力を見せつけました。
彼女が命懸けで枢を守る姿は、二人の間に流れる深い絆(と、嵐さんの不器用な愛情)を感じさせます。
また、新たな強敵「因果の編纂者」の登場により、物語は医学の枠を超えたファンタジー・ミステリーへと加速していきます。
今回登場した術理、……というか、嵐さんの魔術について。
彼女が撃ち抜いたのは、編纂者の肉体ではなく、セシリアの影に張り付いていた「概念」そのものでした。枢が肉体の経絡を診るように、嵐は「影の経絡」を診て、それを切断する。二人の能力は、実は対照的で補完的な関係にあります。
次回、第192話は明日**【08:00】**に更新予定です!
穴だらけになった診療所を直す暇もなく、王都から届く緊急要請。
枢は、セシリアを救い、王都の「結晶化」を止めるために、再び旅立つ決意を固めます。
そして、目覚めた骸が、枢にある「驚愕の事実」を告げます。
明日の朝も、聖鍼師と仲間たちの新たな旅路を、ぜひ見届けてください。
おやすみなさい!




