第190話:落日の黄昏病、影を失う千の泣き声
3月26日、18:00。夕暮れの更新をお読みいただきありがとうございます。
骸の呪縛を解き、束の間の平穏が戻るはずだった枢の診療所。
しかし、夕闇と共に現れたのは、足元に「影」を持たない異様な一団でした。
「……先生、……助けて……。……私の、……私の『半分』が、……どこかへ……」
影を失った者は、感情を失い、やがて肉体さえも霧のように消え去るという。
枢は、かつての宿敵・骸と共に、異変の根源である『黄昏の森』へと足を踏み入れます。
「……枢、……俺の『死鍼』が必要なら言え。……影を繋ぎ止めるのは、……光ではなく、……深い闇だ」
聖鍼師と闇の鍼灸師。
初めて共鳴する二人の銀鍼が、夕暮れの怪異を暴き出します。
診療所の外は、燃えるような茜色に染まっていた。
クヌギの林を抜ける風が、どこか不自然なほど冷たく、湿り気を帯びている。
枢は、自身の往診鞄のベルトを固く締め直し、診療所の前に立ち尽くす「異様な集団」を凝視した。
そこには、近隣の村からやってきたという五人の男たちがいた。
彼らは一様に虚ろな瞳をし、言葉を発することなく、ただ幽霊のようにゆらゆらと身体を揺らしている。
最大の異常は、彼らの足元にあった。
西日がこれほどまでに低く差し込んでいるというのに、石畳の上には、彼らの「影」が、どこにも存在していなかったのだ。
「……枢さん、……これは、……ただの病ではありませんわね」
サロメが扇子を広げ、不快そうに空気を扇いだ。
彼女の鋭い魔力知覚が、男たちの周囲に漂う「存在の希薄さ」を捉えていた。
「……ええ。……肉体の損傷ではありません。……彼らの**『魂魄』**……そのうちの『魄』の部分が、……何者かによって、……強引に引き剥がされています」
枢の翡翠眼が、男たちの一人を透視した。
通常、人の気は足元の**『湧泉』**を通じて大地と繋がり、影という形をとって安定を保つ。しかし彼らは、その湧泉の門が無理やりこじ開けられ、自身のアイデンティティの一部である「影」が、どこか一点へと吸い寄せられているのだ。
「……ククッ、……面白い。……世界を混ぜ合わせたツケが、……早速回ってきたというわけか」
診療所の奥から、まだ顔色の悪い骸が姿を現した。
彼は壁に寄りかかりながら、男たちの足元を冷ややかに見つめた。
「……骸。……身体は、……大丈夫なのですか?」
「……お前の下手な鍼のせいで、……まだ節々が痛むがな。……だが、……この『影失い』……。……最高医局の実験でも見たことがない。……これは、……この世界の理そのものが、……バグを起こしている証拠だ」
その時、影を失った男の一人が、唐突に声を上げた。
「……あ、……あぁ……。……お、……置いていかないで……。……私の、……私の『形』が……!!」
男の身体が、足元から徐々に半透明に透け始め、夕陽の光が彼を通り抜けた。
断末魔の叫びさえも出ない。ただ、霧が晴れるように、男の存在そのものが、その場から完全に消滅してしまった。
後に残されたのは、男が着ていたボロボロの服と、彼が持っていた鎌だけだった。
「……な、……なんですって……!? ……人が、……消えた……!?」
ミナが短い悲鳴を上げて、枢の背後に隠れた。
「……時間の猶予は、……なさそうですね。……カザン殿、……サロメさん。……この異変の源流を、……叩きに行きます」
「……おう、……任せろ!! ……槍に突けない化け物じゃなきゃいいがな!」
カザンが豪快に笑い、槍の石突きで地面を叩いた。
一行は、消えた男の「気の残り香」を辿り、村の北側に広がる『黄昏の森』へと足を踏み入れた。
そこは、かつて枢が薬草を摘みに通った見慣れた森だった。しかし、今の森は、木々が捩れ、葉の一枚一枚が紫色の液体を滴らせている、異界の森へと変貌していた。
森の最深部。
そこには、巨大な「鏡のような穴」が地面に開いていた。
穴の中からは、無数の「影」だけが、まるで魚の群れのようにうごめき、一点へと収束している。
その中心に鎮座していたのは、かつて万博で枢が救ったはずの精霊によく似た、しかし全体が煤けたように黒い、**『影の精霊・ヴォイド』**だった。
「……ヴォイド。……やはり、……精霊たちのバランスも、……崩れているのですね……」
枢が悲しげに呟く。
世界の心臓が再起動した際、強大すぎるエネルギーが、かつて抑え込まれていた「負の精霊」たちを呼び覚ましてしまったのだ。ヴォイドは悪意があるわけではない。ただ、自身の希薄すぎる存在を繋ぎ止めるために、周囲の生命から「影」を奪い、自分自身の輪郭を作ろうとしているだけだった。
「……あいつを倒すのか?」
カザンが槍を構えるが、枢がそれを制した。
「……いいえ。……倒せば、……奪われた影は永久に失われ、……村人たちは死にます。……私たちがすべきは、……精霊と人との『気の境界』を、……再定義することです」
「……理屈はいい。……どうやるんだ?」
骸が、自身の漆黒の鍼を取り出し、不敵に笑った。
「……骸、……手伝ってください。……私一人では、……光と闇、……両方の側面から、……同時に刺鍼することはできません」
「……チッ、……死に損ないをこき使いやがって。……だが、……面白そうだ。……お前の翡翠の光を、……俺の闇で補強してやるよ」
枢と骸。
かつて命を奪い合った二人が、一つの精霊を前に、左右に分かれて対峙した。
「……カザン殿、……サロメさん! ……精霊が暴走しないよう、……周囲の気を安定させてください!」
「……了解ですわ! ……この吹雪、……少しばかり強すぎますわよ!!」
サロメが周囲に巨大な氷の壁を築き、ヴォイドが放つ影の触手を遮断する。カザンはその隙間を縫い、槍を旋回させて影を散らしていく。
「……今です、……骸!!」
枢が跳躍し、ヴォイドの頂点にある、光を放つ一点――『百会』に相当する箇所へ、黄金の鍼を放った。
「……鍼灸奥義、……『陽光・一陽来復』!!」
同時に、骸がヴォイドの足元、影が最も濃く渦巻く**『湧泉』へと、漆黒の長鍼を突き立てた。
「……鍼灸奥義、……『陰影・無窮回帰』**!!」
光の鍼と、闇の鍼。
相反する二つの力が、ヴォイドの身体の中で激しく衝突し、共鳴を始めた。
枢が「光」で精霊の暴走を抑え、骸が「闇」で奪われた影の情報を人間に還す。
それは、聖鍼流でも死鍼でもない、二人の天才が即興で作り上げた、史上初の**『双鍼』**による外科手術だった。
――キィィィィィィィィンッ!!
ヴォイドが激しく震え、彼に吸い込まれていた無数の影が、一斉に森の外へと吐き出された。
「……ぁ、……ぁあ……」
影が持ち主へと戻っていく。
診療所の前で透けかけていた男たちの足元に、再び長く、力強い影が伸びていく。
やがて、ヴォイドの黒い体躯は、柔らかな翡翠色の小鳥のような姿へと変わり、静かに森の奥へと消えていった。
「……はぁ、……はぁ、……あ、……カハッ……」
枢が地面に着地し、激しく咳き込んだ。
骸もまた、膝を突き、肩で息をしている。
「……お、……おい……。……今の、……なんだよ……」
カザンが驚愕の表情で二人を見つめる。
光と闇の気が完璧に調和した瞬間、森全体の色彩が一瞬だけ「真実の色」を取り戻したのを、彼は目撃していた。
「……双鍼……。……一人では届かない深淵も、……二人なら、……診ることが、……できるかもしれません」
枢は、骸に向かって、そっと右手を差し出した。
骸は一瞬、嫌そうな顔をしたが、やがて鼻を鳴らし、その手を汚いものを触るかのようにして握り返した。
だが、その握りしめた手の感触は、確かに、同じ「医」を目指す者の温もりだった。
村に戻る道中、一行は気づいていなかった。
森の影の中から、その様子をじっと見つめる、不気味な「仮面の男」の存在に。
「……見事だ、聖鍼師。……だが、……精霊はまだ数万といる。……貴様ら二人の鍼で、……この崩壊する世界を、……いつまで繋ぎ止められるかな?」
第3章、異界の病根は、さらに深く、広く、人々の生活を蝕み始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月26日(木)、18:00の更新をお届けいたしました。
新章最初の怪異『影失い』。枢と骸という、相反する属性を持つ二人の鍼灸師が、初めて力を合わせて治療に挑むという熱い展開を描きました。
今回登場した術理、『百会』と『湧泉』。
百会は頭頂にあり「天の気」を受ける場所、湧泉は足裏にあり「地の気」と繋がる場所です。枢が天から光を注ぎ、骸が地から闇を繋ぎ止めることで、不安定になった精霊の存在を固定し、人間に還すべき「影(存在の情報)」を分離することに成功しました。
次回、第191話は本日**【21:00】**、本日最後の更新です!
治療を終えた枢の前に現れたのは、かつて王都で共に学んだ、もう一人の「同期」の医師。
しかし、彼女が持ってきたのは、救済ではなく、ある過酷な「選択」を迫る報告でした。
本日最後の更新、物語の歯車が大きく加速します。
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