第189話:呪印の脈動、魂を侵す白紙の処方箋
3月26日、12:00。お昼の更新をお読みいただきありがとうございます。
診療所に戻り、最初の患者の治療を終えた枢。
しかし、奥の病室で眠り続けていた骸が、突如として異様な高熱に浮かされ、のたうち回ります。
「……枢、……逃げろ、……俺の、……中から、……何かが……!」
骸の右腕に浮かび上がったのは、最高医局が刻んだ「拒絶の紋章」。
救われたはずの命が、今度は「生ける爆弾」へと変貌しようとしていました。
かつての宿敵を救うため、枢が放つのは、肉体の深淵を超え、魂の「因果」を繋ぎ止めるための一鍼。
共鳴する銀鍼が、暗闇の中に一筋の光を穿ちます。
診療所の窓から差し込む午後の柔らかな光が、診察室に立ち込める「艾」の煙を白く透かしていた。
先ほど腰痛の治療を終えた近所の老人は、見違えるような軽い足取りで「先生、また明日な!」と笑顔で帰っていった。
枢は、自身の額に浮かんだ汗を拭い、使い古された銀鍼を消毒液に浸した。
「……ふぅ、……ようやく一人目、……ですね」
枢が呟くと、茶器を持って現れたミナが、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「……先生、……まだ顔色が悪いですよ。……王都から帰ってきてすぐなのに、……無理しすぎです」
「……大丈夫ですよ。……患者さんの笑顔を見ることが、……私にとっての、……一番の『補法』ですから」
だが、その穏やかな時間は、奥の病室から響いた凄まじい衝撃音によって切り裂かれた。
――ドォォォォンッ!!
建付の悪い扉が吹き飛び、廊下に黒い霧のような「気」が溢れ出す。
カザンが反射的に槍を構え、サロメが氷の魔力を指先に集めた。
「……枢さん!! ……あの男、……目覚めたようですわよ! ……ですが、……様子が尋常ではありませんわ!」
枢が病室へ駆け込むと、そこにはベッドの上で海老反りになり、異様な痙攣を繰り返す骸の姿があった。
彼の右腕――かつて人工心臓と繋がっていた箇所に、皮膚の下を這い回る虫のような、どす黒い紋章が浮かび上がっている。
その紋章が拍動するたびに、骸の口からは、人間のものではない、苦悶の呻きが漏れた。
「……ぁ、……ぐ、……ぁぁ……!! ……枢、……殺せ、……俺を……殺せ!! ……最高医局の……ゼノヴィアの……最後の仕掛けだ……!!」
枢の翡翠眼が、骸の経絡を透視した。
戦慄が走る。
骸の身体を流れているのは、もはや自身の「血」ではない。
最高医局が開発した、因果を書き換える「偽りの生命液」。それが、骸の魂の核である**『神道』**へと侵食を開始していた。
「……なんてことを。……肉体だけではなく、……存在そのものを、……『白紙』に戻すつもりですか……!」
ゼノヴィアは、枢に敗北することを予見していたのだ。
だからこそ、唯一生き残る可能性のあった骸の身体に、枢を道連れにするための「遅効性の猛毒」を仕込んでおいた。
この呪印が完全に開けば、骸の身体は「因果の穴」となり、周囲数キロメートルの全ての生命エネルギーを吸い込んで消滅する。
「……サロメさん、……カザン殿、……ミナさんを連れて外へ!! ……ここは、……私が食い止めます!」
「……馬鹿野郎!! ……一人でどうにかできる規模じゃねえぞ、……あの黒い気は!!」
カザンが叫ぶが、枢は既に、往診鞄の底から、これまで一度も使ったことのない「極細の翡翠鍼」を取り出していた。
「……骸、……聞こえますか。……あなたの、……本当の『名前』を、……私が呼び戻します……!」
枢は、暴走する黒い霧の中に飛び込んだ。
皮膚を焼くような不浄な気が枢を襲うが、彼は自身の左手の**『合谷』**を強く圧し、気を集中させることで、その毒性を一時的に中和した。
枢が狙ったのは、骸の背骨の第5胸椎の下にある**『神道』**。
心経の気が通り、魂の安定を司る、人体の「聖域」とも呼べる場所。
「……鍼灸奥義、……『共鳴・千手観音』!!」
枢が翡翠鍼を刺入した瞬間。
彼の視界から、診療所の壁が消え、無限に広がる「真っ白な空間」が広がった。
そこは骸の精神の深淵。因果が書き換えられ、アイデンティティを失いかけた男の、孤独な戦場。
「……枢、……どうして……。……俺は、……お前を何度も殺そうとしたんだぞ……」
暗闇の中で、子供のような姿になった骸が、膝を抱えて震えていた。
彼の周囲には、最高医局が植え付けた「偽りの記憶」が、黒い鎖となって幾重にも巻き付いている。
「……あなたが、……私のライバルだからですよ。……医術の深淵を、……共に覗き、……共に迷い、……そして共に救う……。……あなたがいなければ、……私は、……本当の聖鍼師にはなれなかった」
枢は、精神世界の中で、骸の手をしっかりと握りしめた。
そして、現実の世界では、骸の身体にある**『心兪』、『厥陰兪』、『肝兪』**の三点へと、同時に銀鍼を放った。
これは、自身の「気」を骸の「魂」と共鳴させ、二人で一つの「巨大な経絡」を形成する術理。
一歩間違えれば、枢自身も因果の渦に呑み込まれ、この世から消滅する。
――キィィィィィィィィンッ!!
翡翠の光と黒い紋章が、骸の身体の上で火花を散らす。
診療所の窓ガラスが全て粉砕され、棚の薬瓶が踊り狂う。
だが、枢の指先は、微塵も揺らがなかった。
「……戻れ!! ……骸!! ……お前の鍼は、……まだ、……誰も救っていないだろう!!」
枢の叫びが、骸の魂の核を震わせた。
黒い鎖が一本、また一本と砕け散り、代わりにかつての枢との修行の日々の記憶が、暖かな光となって溢れ出す。
数分後。
嵐のような「気」の暴走が収まり、診療所に再び静寂が戻った。
骸の右腕にあった紋章は、一筋の細い傷跡へと変わり、その毒性は完全に消え去っていた。
骸は、深く、深い溜息を漏らし、そのまま安らかな眠りへと落ちた。
「……はぁ、……あ、……カハッ……」
枢は、その場に膝を突いた。
翡翠鍼は粉々に砕け、彼の指先からは、因果の摩擦による火傷のような跡が痛々しく残っていた。
「……枢さん!!」
サロメたちが駆け寄る。
枢は、震える手で眼鏡を直し、力なく微笑んだ。
「……終わりました。……ゼノヴィアの、……最後の一刺しは、……私が、……折りましたよ」
だが、枢は気づいていた。
骸の身体から消し去った「因果の毒」が、どこか別の場所へと霧散していったことを。
それは消えたのではない。
この三界のどこかへ、……新たな「異界の病根」として、種を蒔かれたに過ぎないのだ。
窓の外、夕暮れに染まり始めたクヌギの林の向こうに。
見たこともない「紫色の雷」が、静かに天を裂いた。
真の戦いは、まだ始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月26日(木)、お昼の更新をお届けいたしました。
新章タイトル『異界の病根と共鳴する銀鍼』の名の通り、肉体を超えた「魂と因果」の治療が始まりました。
ゼノヴィアが遺した呪いを、枢は自らの命を共鳴させることで打ち破りましたが、その代償として、世界の歪みはさらなる変異を見せようとしています。
今回登場した術理、『神道』。
背骨のほぼ中央に位置し、心の気を安定させ、精神的な錯乱やパニックを鎮める名穴です。枢はここを「魂の入口」として使用し、精神世界へとダイブしました。また、**『合谷』**を用いた自己防衛の描写も加え、プロの鍼灸師としての細かな所作を描いています。
次回、第190話は本日**【18:00】**に更新予定です!
王都近郊の村々で、人々が「自分の影を失う」という怪奇現象が発生。
枢はサロメ、カザン、そして回復した骸と共に、最初の「異界の病」の調査へと向かいます。
夕暮れの更新、本格医療ミステリー編へ。
引き続き、応援の評価やブックマークをよろしくお願いいたします!




