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『異世界で「ツボ」を突いたら神と呼ばれた件 〜指一本で魔王も聖女も救い出す、世界唯一の最強聖鍼術〜  作者: 鍼灸師いのぴー
【第三章:異界の病根と共鳴する銀鍼】

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第188話:診療所の朝、埃を払う翡翠の指先

3月26日、08:00。朝の更新をお読みいただきありがとうございます。


王都の『白亜の聖塔』を揺るがした激闘から数日。

くるる一行を乗せた馬車は、王都の喧騒を遠くに離れ、懐かしきクヌギの林を抜けていきます。


「……ああ、……この土の匂い。……ようやく、……戻ってきましたのね」


窓の外に見えてきたのは、古びた、しかし手入れの行き届いた小さな建物。

万博の英雄としてではなく、一人の街医者として。

枢が診療所の鍵を回した時、そこには彼が不在の間、ずっと「場所」を守り続けてきた意外な人物の姿がありました。


聖鍼師・枢、再始動。

朝の光が、診察台の銀鍼を優しく照らします。

 馬車の車輪が、最後に一際大きな音を立てて止まった。

 湿り気を帯びた朝の霧が、クヌギの林を白く染め上げている。

 王都のような豪華な石畳も、北方の谷のような険しい岩肌もない。ただ、どこまでも穏やかで、土の匂いと草の香りが混じり合う、退屈なほどに平和な田舎道の風景。


「……着きましたね」

 くるるが、掠れた声で呟いた。

 馬車から降り立った彼の足元は、まだおぼつかない。前の決戦で使い果たした「気」は、むくろの術理によって一命を取り留めたとはいえ、完全に元に戻るにはまだ時間がかかりそうだった。


 目の前に立つのは、蔦の絡まる小さな平屋。

 看板は風雨に晒されて少し傾き、文字も掠れているが、そこには確かに『枢・東方鍼灸診療所』の文字が刻まれている。


「……あら、……もっと立派な館を想像していましたわ。……万博の救世主の邸宅が、……まさかこれほどまでに『質素』だなんて」

 サロメが扇子で口元を覆いながらも、その瞳には慈しむような光が宿っていた。


 カザンは馬車の荷台から、枢の重い往診鞄と、気絶したまま搬送されてきた骸を担ぎ下ろした。

「……へっ、……贅沢は酒と女だけで十分だ。……医者の住処にしちゃ、……これくらいが一番落ち着くってもんだぜ」


 枢は、震える指先で、首から下げた古びた真鍮の鍵を握りしめた。

 数ヶ月間、一度も回されることのなかった錠前。

 埃が詰まっているかと思いきや、鍵穴は驚くほど滑らかに、カチリと小気味よい音を立てて回った。


「……おかしいですね。……誰かが、……手入れをしている……?」


 枢が慎重に扉を押し開けると、そこには想像していたような「廃墟」の光景はなかった。

 床はピカピカに磨かれ、待合室の椅子には新しいクッションが置かれている。薬棚の瓶は種類ごとに整然と並べられ、空気中には、枢が愛用している「もぐさ」の、あの独特の香ばしい匂いが漂っていた。


「……あ、……先生!! ……先生なんですか!?」


 奥の調剤室から飛び出してきたのは、一人の少女だった。

 短い髪を振り乱し、エプロン姿の彼女の手には、使い古された雑巾が握られている。

 それは、枢が旅に出る直前、重い喘息を治療し、住み込みの「薬草摘み」として雇い入れたばかりの孤児、ミナだった。


「……ミナ……さん。……あなたが、……ここを守っていてくれたのですか?」


「……当たり前じゃないですか! ……先生は必ず帰ってくるって、……村のみんなと言ってたんです! ……王都で死んだなんて噂、……誰も信じてませんでしたよ!!」

 ミナは枢の胸に飛び込み、わんわんと泣き出した。

 

 枢は、困ったように微笑みながら、ミナの頭を優しく撫でた。

 彼が世界を救っていた間、この小さな診療所では、一人の少女が、主の帰還を信じて毎日床を磨き、鍼を消毒し、艾を丸めて待っていたのだ。

 それは、派手な魔法や術理よりも、今の枢の胸に深く、温かく染み渡った。


「……ただいま、……ミナさん。……留守の間、……本当にありがとうございました」


「……先生……。……えへへ、……おかえりなさい!」


 ミナが涙を拭い、サロメたちを見て目を丸くする。

「……わあ、……綺麗なお姉さんと、……強そうな騎士様……。……先生、……もしかして、……新しい『患者さん』ですか?」


「……ええ、……まあ、……そんなところです。……特に、……この担がれている男は、……少し手強いですよ」

 枢は、カザンがソファに寝かせた骸を見つめた。

 

 かつての宿敵、骸。

 彼は現在、強制的な気の充填による「経絡の過負荷」で深い眠りについている。

 枢が彼をここに連れてきたのは、単なる慈悲ではない。

 彼のような優れた――しかし道を誤った技術者を、再び「医の道」へと引き戻すことも、聖鍼師としての責任だと感じたからだ。


「……さあ、……感傷に浸っている暇はありません。……ミナさん、……お湯を沸かしてください。……艾も用意を。……それから、……往診鞄の消毒も」


「……はいっ!!」

 ミナが元気よく走り出す。


 枢は、自身の診察デスクの椅子に、深く腰掛けた。

 窓から差し込む朝の光が、埃の粒子を翡翠色に輝かせている。

 

 彼は、北方の旅で手に入れた「音を聴く銀鍼」と、最高医局との戦いで折れ曲がった「鉄の鍼」を、机の上に並べた。

 これまでの冒険が、夢ではなかったことを確かめるように。


 トントン、と遠慮がちなノックの音が響いた。

 扉の隙間から顔を出したのは、近所の農家の老人だった。


「……あの、……ミナちゃんから聞いたんだが、……枢先生が帰ってきたって……。……いやぁ、……実は一週間前から、……腰が疼いて眠れなくてよ……」


「……おじいさん、……おはようございます。……ちょうど、……今から診療を始めるところでした」


 枢は、使い古された白衣の袖を捲り、自身の右手に一本の銀鍼を持った。

 旅の終着点は、新たな物語の始発点。

 

 「聖鍼師・枢」としての伝説は、この小さな、名もなき村の、小さな診療所から、再び静かに動き出す。

 

 世界を救う「奥義」ではなく、一人の老人の腰痛を治すための「真摯な一鍼」。

 それこそが、枢が最も愛し、守りたかったものだった。


「……さあ、……診せてください。……あなたの、……その痛みを」


 翡翠の瞳が、優しく患者を見つめる。

 第3章、開幕。

 「日常」という名の、最も困難で、最も尊い戦いが始まる。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


3月26日(木)、朝の更新をお届けいたしました。

ついに自分の診療所へと帰還したくるる

待ち受けていたのは、彼の留守を守り続けていた少女・ミナと、いつも通りの「腰痛の患者さん」でした。

大いなる冒険の果てに辿り着いたのが、この静かな日常であることに、枢は深い安らぎを感じています。


今回登場した術理、……というよりは、枢の「医者としての構え」について。

彼は万博や聖塔での戦いを経て、術理を「武器」として使うのではなく、再び「癒やしの道具」へと戻しました。今回、彼が老人の腰を診る際に選んだ銀鍼は、北方の特殊なものではなく、使い慣れた「いつもの鍼」です。弘法筆を選ばず、といいますが、聖鍼師もまた、対象に合わせて最も自然な一鍼を選べるようになった、成長の証です。


次回、第189話は本日**【12:00】**に更新予定です!


診療所に居座ることになった、サロメとカザン、そしてリナ。

英雄たちの共同生活という名のドタバタ劇の裏で、眠り続ける骸の身体に、ある「異変」が起き始めます。


お昼のひととき、新たな生活の幕開けを。

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