第178話:沈黙の聖地、喉を喰らう不可視の虫
3月23日、18:00。夕暮れの更新をお読みいただきありがとうございます。
ポルタの街で栄誉ある「三界聖医」の称号を蹴り飛ばした枢。
追っ手を逃れた一行が辿り着いたのは、リナの故郷である北方の断崖、通称『歌唱の谷』でした。
かつては風が吹くだけで美しい旋律を奏でたというその場所で、枢たちを待ち受けていたのは、喉を掻き毟りながら倒れ伏す人々の姿。
「声」という魂の出口を奪われた村で、枢が見出したのは、あまりにも残酷な「音の寄生虫」の正体でした。
聖鍼師の指先が、目に見えない音の波を捉えます。
馬車が北方の険しい山道を越え、切り立った断崖に挟まれた狭い峡谷へと差し掛かると、世界から一切の「音」が消失した。
風は吹いている。木々は揺れている。だが、そこには葉の擦れる音も、鳥の羽ばたきも、馬の蹄が石を叩く乾いた音さえも存在しなかった。
「……気持ち悪いですわ。……まるで、……耳の中に冷たい泥を流し込まれたみたい……」
サロメが自身の耳を強く押さえ、顔を顰めた。
御者台で手綱を握るカザンも、普段の豪胆さを欠き、落ち着かない様子で周囲を警戒している。
リナにいたっては、馬車の座席に深く身を沈め、震える手で自身の喉元を固く押さえていた。彼女にとって、この『歌唱の谷』は魂の故郷であるはずだった。だが、今のこの場所から漂ってくるのは、かつての音楽の残り香ではなく、死よりも深い沈黙の腐臭だった。
「……リナさん、……大丈夫ですよ。……私がついています」
枢が優しく彼女の手を包み込む。
彼の翡翠眼には、谷の全域を覆う「異常な気の層」が見えていた。それは霧のような物理的な停滞ではなく、空間に漂うあらゆる振動――すなわち音のエネルギーを、何者かが一方的に吸収し、吸い取っているかのような不自然な欠落だった。
「……停車してください。……この先に、……『声』を奪われた人々がいます」
馬車を降りた枢たちの前に、小さな集落が現れた。
村人たちは皆、広場にうずくまり、必死に口を開けて喘いでいる。だが、そこからは悲鳴も、助けを呼ぶ声も一切漏れてこない。彼らは自身の喉を爪で掻き毟り、血を流しながらも、出ることのない音を探して苦しんでいた。
「……なんだこれ、……毒か!? ……それとも呪いか!」
カザンが槍を構えるが、敵の姿はどこにもない。
枢は、倒れ伏している一人の老人へと歩み寄り、その首筋に指を添えた。
皮膚の下で、何かが蠢いている。
翡翠眼を凝らせば、老人の喉仏の周辺、**『廉泉』から『人迎』**にかけて、目に見えないほど微細な、半透明の「糸」のようなものが無数に絡みついているのが見えた。
「……虫、です。……それも、……実体を持たない『音霊』の寄生体……」
「……音霊の寄生体……? ……そんなもの、……聞いたこともありませんわ!」
「……万博で『世界の心臓』が鳴動し、……三界の境界が崩れたことで、……かつての太古の時代に封じられていた、……音の振動を餌にする原始的な精霊たちが目覚めてしまったのでしょう。……彼らは人の喉に宿り、……声帯が震える瞬間に発生する生体エネルギーを食らって増殖する。……声を出すほど、……彼らは太り、……宿主の喉を内側から食い破るのです」
枢の説明に、嵐が冷たい笑いを浮かべた。
「……クハッ、……歌の聖地が、……今じゃ『餌場』ってわけか。……皮肉なもんだぜ」
枢は、自身の往診鞄から、最も細く、しなやかな「銀の長鍼」を取り出した。
実体のない音の虫を退治するには、物理的な破壊ではなく、音には音を、振動には振動をぶつけるしかなかった。
「……リナさん。……少し、……私に力を貸してくれませんか? ……歌わなくていい。……ただ、……私の鍼の柄を、……あなたの指先で、……一定のリズムで叩いてほしいのです」
リナは、不安げに頷き、枢の隣に膝をついた。
枢は銀鍼を、老人の顎の下にある**『廉泉』**へと、極めて慎重に刺入した。
廉泉は、舌の動きと発声を司る「任脈」の要穴。
そこは今、寄生虫たちが最も密集し、老人の声を喉の奥に封じ込めている中心地だった。
「……いきますよ。……ト、……ト、……ト……」
リナが、枢の指示に合わせて、銀鍼の末端を規則正しく、羽で触れるような繊細さで叩き始めた。
リナの指先から伝わる、彼女が生まれ持った「響魂」の波動。
それが銀鍼を通して、老人の喉の深層へと、特殊な共鳴波として送り込まれる。
――キィィィィィィィィ……!!
老人の喉から、人間には聞こえないはずの、鋭い超音波のような叫びが上がった。
枢の翡翠眼には、廉泉に群がっていた半透明の糸たちが、リナの奏でる共鳴に耐えきれず、激しくのたうち回り、崩壊していくのが見えた。
「……今です! ……**『通里』**へ、……一気に気を流します!」
枢は、老人の手首の近くにある**『通里』**――心経の絡穴であり、古来より「失声症」に効くとされる名穴へと、もう一本の鍼を打ち込んだ。
喉(廉泉)で暴れる虫を、手首(通里)からの気の奔流で、体外へと押し流す。
――オェッ、がはっ!!
老人が激しく咳き込むと、その口から、朝日に透けるような銀色の霧が吐き出された。
その霧が空中に霧散した瞬間、世界に「音」が戻ってきた。
老人の荒い呼吸音、衣擦れの音、そして……遠くで鳴り始めた風の旋律。
「……ぁ、……あぁ……。……声が、……出る……。……わし、……わしの声が戻った……!」
老人の掠れた叫びが、沈黙を切り裂いた。
それに応えるように、広場で倒れていた他の村人たちからも、安堵の溜息と啜り泣きの声が漏れ始める。
「……ふぅ。……まずは、……一息ですね」
枢は、汗を拭い、リナに向かって穏やかに微笑んだ。
だが、リナの表情は晴れない。
彼女の視線は、村のさらに奥、……谷の最も深い場所に鎮座する、巨大な「歌の女神像」へと向けられていた。
女神像の口元からは、今もなお、禍々しい銀色の糸が滝のように溢れ出している。
「……あそこに、……『女王』がいますわね。……あの子を叩かない限り、……この谷の沈黙は終わりませんわ」
サロメが扇子を広げ、氷のような瞳で女神像を見据えた。
万博の熱狂を越えた先、枢たちが直面したのは、リナの過去と世界の変貌が交差する、静かなる戦場だった。
聖鍼師の鍼が、見えない音の女王を穿つため、鋭く輝きを増していく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月23日(月)、18:00の更新をお届けいたしました。
リナの故郷『歌唱の谷』を襲った、実体のない音の寄生虫。
万博での事件が、かつての平和な聖地を「音の餌場」へと変えてしまったという、第2章の後半戦に相応しいシビアな展開となっております。
今回登場した術理、『廉泉』と『通里』。
廉泉は喉元にあり、舌の麻痺や発声障害に絶大な効果を持つツボです。一方の通里は、心経に属しながら「舌の根」へと繋がる経絡を持っており、古くから失声症(声が出なくなる病)の特効穴として知られています。枢はリナの指先の振動(共鳴)を銀鍼に乗せることで、物理的な破壊ではなく「波の干渉」によって寄生虫を無力化しました。
次回、第179話は本日**【21:00】**、本日最後の更新です!
女神像に巣食う「音を喰らう女王」との決戦。
沈黙を強いる女王に対し、枢は自らの喉に鍼を打ち、命懸けの「咆哮」を放ちます。
そして、リナがかつてこの谷を捨てた本当の理由が明らかになります。
本日最後の更新、静寂を切り裂くカタルシスへ。
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