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『異世界で「ツボ」を突いたら神と呼ばれた件 〜指一本で魔王も聖女も救い出す、世界唯一の最強聖鍼術〜  作者: 鍼灸師いのぴー
【第二章:鋼鉄の帝国と腐敗の科学】

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第176話:潮騒の病、銀鱗を溶かす熱き一鍼

3月23日、月曜日。朝の更新をお読みいただきありがとうございます。


万博での激闘、そして霧の村での時間の奪い合いを乗り越え、くるる一行は海沿いの交易都市へと辿り着きました。

世界を救った聖鍼師を迎えようと街が沸き立つ中、枢は豪華な式典を辞退し、潮風の香る路地裏の小さな家を訪ねます。


そこにいたのは、足から腰にかけて硬い「魚の鱗」が広がり、一歩も歩けなくなった少年でした。

「海神の怒り」と恐れられる奇病に対し、枢が診たのは、海水の冷えがじんを侵し、体内の水の流れを滞らせているという冷徹な事実。


英雄ではなく、一人の鍼灸師としての往診が再び始まります。

 三界共鳴塔が空を衝く境界都市ゼノスを離れ、馬車はなだらかな丘陵を越えて、紺碧の海を臨む港町・ポルタへと入った。

 潮風が運んでくる塩の香りと、活気ある市場の喧騒。万博での「世界の心臓」を巡る死闘が嘘のように、ここには人々の営みの力強さが溢れていた。


「……ようやく、……海が見えましたわね。……枢さん、……街の入り口に、……あなたの功績を称える垂れ幕が用意されているようですけれど?」

 サロメが馬車の窓から顔を出し、呆れたように、しかしどこか誇らしげに言った。

 

 確かに、ポルタの正門には「聖鍼師・枢、凱旋!」と大きく書かれた布が掲げられ、市長と思われる正装の男たちが、今か今かと馬車の到着を待ち構えていた。

 だが、くるるは苦笑いを浮かべ、馬車の御者台にいるカザンに声をかけた。


「……カザン殿、……裏口の搬入口から、……こっそりと街へ入ってください。……私は、……英雄として歓迎されるために、……ここへ来たのではありませんから」


「……ハッ、……相変わらずだな、聖鍼師。……ま、……てめえらしい。……お偉方の長いスピーチを聞かされるよりは、……酒場の魚の方がマシだぜ」

 カザンが手綱を捌き、馬車は賑やかな大通りを避け、潮の香りが色濃く残る入り組んだ路地裏へと滑り込んだ。


 枢がこの街に立ち寄ったのには、一つの目的があった。

 ゼノスを出発する直前、彼のもとに届いた一通の湿った手紙。

 『息子の足に、……銀色の鱗が生え始めました。……医者からは見放され、……海神の呪いだと忌み嫌われています。……どうか、……お助けください』

 震える文字で書かれたその切実な願いが、枢の胸を去らなかった。


 馬車が止まったのは、波しぶきが届くほど海に近い、古びた漁師小屋の前だった。

 中に入ると、魚の干物の香りに混じって、特有の「冷え」を帯びた、澱んだ気が充満していた。


「……先生、……来てくださったのですね……!」

 憔悴しきった母親に案内された奥の部屋。

 粗末な寝床に横たわっていたのは、十歳ほどの少年、カイだった。

 

 枢が掛け布団をめくると、サロメとリナが小さく息を呑んだ。

 少年の足首から膝にかけて、皮膚が硬質化し、まるで大魚のそれのような、鈍い銀色に輝く「鱗」がびっしりと覆っていたのだ。それは単なる皮膚病ではなく、皮膚そのものが生命の循環を拒絶し、石のように固化している異常事態だった。


「……枢さん、……これ、……魔力の残滓ざんしではありませんわね。……もっと、……物質的な……」

 サロメの言葉に、枢は深く頷いた。

 彼の翡翠眼ひすいがんは、少年の脚の中で、血の流れが完全に「凍りついている」のを捉えていた。


「……ええ。……これは呪いではありません。……極度の寒湿かんしつ……。……冷たい海水の中に長時間いたことで、……腎の陽気が底を突き、……体内の水分が適切な巡りを失って、……肉体の上で『結実』してしまったのです」


 少年は、海で溺れた父親を助けようとして、冬の荒波の中に数時間も浸かっていたという。

 その時に入り込んだ「海水の冷え」が、少年の体内の熱を奪い去り、すいの巡りを司る経絡を破壊してしまったのだ。


「……身体が、……重いんだ。……足が、……自分のものではないみたいで……」

 カイが震える声で呟く。

 

 枢は、少年の冷え切った足先に触れた。

 指先を通して伝わってくるのは、底なしの海の冷たさ。

 この「銀鱗」は、もはや体外へと排出されなくなった水分が、冷えによって凝固し、皮膚の一部として居座ってしまった成れの果てだ。


「……カイ君。……今、……その足を、……海へ返してあげましょう。……私の鍼は、……少し熱いですよ」


 枢は往診鞄から、純度の高い「金鍼」を選び出した。

 金は熱を伝えやすく、陽気を補うのに最も適した素材。

 彼はまず、少年の足首の内側、……アキレス腱と内くるぶしの間にある経穴、**『太谿たいけい』**を指先で丹念に探った。

 

 腎経の「原穴」である太谿。

 生命の源泉である腎の力が最も集まるこの場所が、今は冷たい氷の壁に阻まれ、脈動を失っていた。


「……腎は、……五行において『水』を司る臓器。……水が停滞すれば、……それは命を蝕む毒となる。……ならば、……その源泉を、……再び燃え上がらせるまでです……!」


 枢は金鍼を、太谿の奥深く、……骨のキワを抉るようにして刺入した。

 同時に、自身の翡翠の気を、極限まで「熱」へと変換して流し込む。

 

 さらに、彼は少年の膝の内側にある**『陰谷いんこく』**へと、二本目の鍼を打つ。

 腎経の合穴であるこの場所は、体内の水分の流れを調節する巨大なダムの門。

 

 金鍼を通して注がれる枢の熱気が、凍てついた経絡の氷を、内側から溶かしていく。


 ――ジュウッ……。

 

 驚くべきことに、少年の足に張り付いていた銀色の鱗の間から、本物の海水のような液体が、じわりと染み出し始めた。

 

「……あ、……あったかい……。……先生、……足が、……熱くなってきました……!」


「……そうです、……それでいい。……溜まった『水』を、……流し出しなさい!」


 枢は仕上げに、少年の腰の裏にある**『腎兪じんゆ』**へと、温めた石鍼を押し当てた。

 先日の戦いで痛めた自らの肉体の痛みなど、今の枢の意識にはなかった。

 目の前の、未来を奪われかけた少年のために。

 彼は、自らの生命力を燃料に、少年の体内に「春の陽光」を呼び込んだ。


 ――パリン、パリンッ!!

 

 少年の足を覆っていた硬い銀鱗が、内側から溢れ出す温かな汗によって押し上げられ、剥がれ落ちていく。

 鱗が落ちた後の肌は、赤ん坊のような、瑞々しい桃色を取り戻していた。

 

「……歩ける、……僕、……歩けるよ!」

 カイが、まだおぼつかない足取りで床に立ち、母親の胸へと飛び込んだ。

 

 枢は、額の汗を拭い、静かに鍼を片付けた。

 窓の外では、夕陽が海を朱色に染め、潮騒の音が心地よく響いている。

 

「……枢さん、……結局、……公式の歓迎会には行かないのですわね?」

 サロメが微笑みながら尋ねる。

 

「……ええ。……私の居場所は、……ここですから。……患者の声が聞こえる場所こそが、……私の診察室です」


 英雄としての功績ではなく、一人の患者を救った満足感を胸に、枢は再び眼鏡を直し、次なる往診へと想いを馳せた。

 だが、その安らぎを破るように、港の入り口から、ゼノスの最高医局が派遣した「特使」の馬車が、枢を追って近づいてきていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


3月23日(月)、朝の更新をお届けいたしました。

万博という世界の中心での出来事を終えたくるるが、最初に向き合ったのは、潮風の吹く小さな漁村の奇病でした。

「英雄」という肩書きに背を向け、路地裏の患者を救う姿。それこそが、第2章を通して彼が貫いてきた聖鍼師の矜持です。


今回登場した術理、『太谿たいけい』と『陰谷いんこく』。

腎の経絡に属するこれらは、体内の水分の巡りを司る最重要拠点です。太谿は「腎の原気」を補い、陰谷は「水の流れ」を整えます。海水の冷えによって「水毒すいどく」が固着した少年の脚に対し、枢は金鍼を用いた温熱療法で、その氷結を物理的・東洋医学的に溶かし去りました。


次回、第177話は本日**【12:00】**に更新予定です!

 

枢の逃亡を許さない、天界と魔領の共同特使。

彼らが持ってきたのは、枢を「三界聖医」として正式に任命するという、栄誉という名の鎖でした。

名声を嫌う枢と、彼を政治的に利用したい大国との、静かなる交渉が始まります。


第2章完結編、ここから物語はさらなる深みへと進んでいきます。

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