第174話:朝凪の告白、翡翠に溶ける銀の涙
3月22日、18:00の更新をお読みいただきありがとうございます。
霧が晴れ、朝日が差し込む『停滞の村』。
枢の命を繋ぎ止めたリナでしたが、その代償として、彼女の歌声は枯れ、その指先からは温もりが失われつつありました。
「……先生。……私の時間は、……最初から、……半分しかなかったんです」
明かされるリナの過酷な出自と、彼女を狙う謎の組織『クロノス・レギオン』。
枢は、震える手で再び往診鞄を開きます。
それは敵を倒すためではなく、自分のために命を懸けた一人の少女の『明日』を、今度は自分が繋ぎ止めるために。
東の空から差し込んだ一筋の光が、村を覆っていた重苦しい霧を黄金色に染め上げていく。
村の時計塔が奏でる六時の鐘の音は、もはやゼノビアの狂った振り子のリズムではなく、大地に根ざした、力強く、そして穏やかな「生」の鼓動そのものだった。
広場の片隅。
瓦礫の山に背を預け、ようやく意識を取り戻した枢は、自身の胸元で静かに肩を震わせているリナの頭を、そっと撫でた。
「……リナ、さん。……もう、大丈夫ですよ。……あなたの歌が、……私の、……止まりかけた時間を、……動かしてくれた」
枢の声はまだ掠れていたが、リナの懸命な処置によって、焼き切れる寸前だった心経の熱は、穏やかな温かみへと変わっていた。
しかし、枢の問いかけに対し、リナは顔を上げようとはしなかった。
「……リナ、……おい、……どうしたんだよ」
カザンが駆け寄り、彼女の肩に手を置こうとした瞬間、リナの身体から、パリン……という、氷がひび割れるような音が微かに響いた。
リナが、ゆっくりと顔を上げた。
その透き通るような白い肌。しかし、そこには翡翠色の気が巡る健康的な赤みはなく、耳の付け根から首筋にかけて、銀色の「鱗」のような不気味な紋様が浮かび上がっていた。
そして、彼女が口を開こうとした時。
漏れ出たのは、いつもの鈴を転がすような美声ではなく、掠れた、砂を噛むような沈黙の吐息だった。
「……声が、……出ない……?」
サロメが息を呑み、自身の口を両手で覆った。
リナは、悲しげに微笑みながら、自身の喉元にある経穴、**『天突』**を指差した。
気管を司り、発声を助けるこの場所が、今は銀色の硬い皮膜に覆われ、呼吸の通り道さえも塞ごうとしていた。
「……あ、……あぁ……」
リナは震える指先で、自身のリュートの弦を弾こうとしたが、その指先はもはや弦を捉える感覚を失っているようだった。
「……バカな、……あの仮面の野郎が言っていた『不確定要素』ってのは、……こういうことか!」
嵐が、忌々しげに自身の髪を掻きむしった。
「……響魂経絡。……己の生命時間を音に変換して他者に分け与える、……北方の禁術。……それを使えば、……使い手の喉は潰れ、……肉体は『銀の化石』へと変貌する。……おい、小娘。……てめえ、……最初から分かってて……!」
リナは、静かに頷いた。
彼女が枢と出会ったあの日。
彼女がなぜ一人で流浪の旅を続け、なぜあれほどまでに、枢の医術を羨望の眼差しで見つめていたのか。
その答えは、彼女自身が、自分自身の「終わりの時間」を誰よりも知っていたからに他ならなかった。
リナは往診鞄からメモ帳を取り出し、震える手で一言だけ書き記した。
『先生、ごめんなさい。……でも、……後悔はしていません』
「……後悔、など……。……そんな言葉で、……片付けさせはしません……!」
枢は、まだ震えの止まらない足で立ち上がった。
リナの身体に浮かび上がった「銀の鱗」。それは外部からの呪いではなく、彼女の内側にある生命力が、歌という形で放出されすぎたことによる、**『精気枯渇』**の成れの果てだ。
東洋医学において、声や喉を司るのは『肺』であるが、その根源的なエネルギーを供給するのは『腎』である。
リナは枢を救うため、自らの『腎の精』――すなわち生命の貯蔵庫を、一気に使い果たしてしまったのだ。
「……サロメさん。……私の往診鞄の、……底にある黒い小箱を……。……カザン殿、……お湯を。……熱いお湯を至急用意してください……!」
「……おう、……任せとけ!」
カザンが瞬時に動き、嵐が魔法の火で瞬く間に湯を沸かす。
枢が取り出したのは、普段彼が使う繊細な銀鍼ではなく、先端が丸みを帯びた、漆黒の「石鍼」だった。
古代の医術で用いられたとされる、熱を溜め込み、経絡の深層へと伝えるための特殊な道具。
「……リナさん。……今度は、……私があなたの時間を『引き戻し』ます。……少し、……痛みますが……。……我慢してください」
枢は、リナの喉元にある銀色の鱗を、指先で入念に探った。
ただ闇雲に刺すのではない。
銀色の皮膜の下、僅かに拍動を感じる場所。
『扶突』と『人迎』。
喉の両脇、頸動脈が走るこの場所は、肺と心臓の気を直接頭部へと送り届ける「命の関所」だ。
枢は石鍼を熱い湯に浸し、じわりと熱を帯びさせた後、その先端をリナの喉元へと押し当てた。
――ジュ、という、皮膚が焼けるような音が響く。
リナの身体が、ビクンと大きく跳ねた。
「……ここです。……『腎』から吸い上げられた精気が、……喉で『結実』して固まっている。……この凝りを、……一気に散らす……!」
枢は石鍼を回しながら、リナの鎖骨の上の凹み、**『欠盆』**へと翡翠の気を流し込んだ。
欠盆は全身の経絡が交差する「十字路」。
そこから、枢は彼女の失われた『腎』のエネルギーを補完する代わりに、自身の翡翠の気を、彼女の肉体の「代わりの薪」として注ぎ込んでいった。
「……先生、……だめ……。……それでは、……また先生の身体が……」
リナの声は出なかったが、その潤んだ瞳が、枢を制止しようとしていた。
「……いいえ。……私一人の命など、……あなたの歌声一つに比べれば、……安いものです。……響け、……リナさん。……あなたの『明日』を、……私がここで証明する!」
枢の指先に、リナの体温が、僅かに戻ってきた。
銀色の鱗が、枢の石鍼から伝わる熱によって、少しずつ、霧が晴れるように薄くなっていく。
しかし、その修復作業を嘲笑うかのように、遠くの丘の上から、先ほどの『仮面の調律師』のものとは異なる、さらに巨大で、冷徹な「鐘の音」が鳴り響いた。
――組織『クロノス・レギオン』。
世界の時間を管理し、偏った因果を正すと自称する、謎の結社。
丘の上に立つ、数十人の銀のマントを纏った者たちが、一斉に村を見下ろしていた。
彼らの中央に座る、巨大な「天秤」を象った杖を持つ少女が、冷たく言い放つ。
「……観測完了。……被検体104号、……『リナ』の強制回収を開始します。……時間の連続性を、……これ以上乱すことは、……私が許しません」
朝日は登ったが、彼らの旅には、かつてないほど深い、夜の闇が忍び寄っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月22日、18:00の更新をお届けいたしました。
リナが枢を救うために封印を解いた、北方の禁忌の医術。
それは自らの生命時間を「音」に変えて他者に与える、過酷な等価交換でした。
銀の化石へと変わりゆくリナの身体に対し、枢は自身の翡翠の気を「代わりの薪」として注ぎ込むという、執念の治療を開始します。
今回登場した術理、『天突』、『扶突』、『人迎』、『欠盆』。
全て喉から肩にかけての、呼吸と発声、そして気の流れを司る重要経穴です。特に欠盆は「全身の気の関所」と呼ばれ、ここが詰まると肺の気も腎の気も通わなくなります。枢は石鍼という原始的な、しかし強力な温熱療法を組み合わせることで、リナの凍りついた喉を物理的に溶かしにいきました。
次回、第175話は本日**【21:00】**、連休中の最終更新です!
押し寄せる『クロノス・レギオン』の軍勢。
満身創痍の枢たちは、リナを守り抜くことができるのか。
そして、リナが最後に振り絞った「声」が、戦場の空気を一変させます。
本日最後の更新、万博編を超える最大スケールの激突へ。
ぜひ、評価やブックマークでの応援をお願いいたします!




