第162話:水神の悲鳴、虚無を穿つ一尺の金光
3月20日、18:00の夕方の更新をお読みいただきありがとうございます。
予選課題「都市の膿の切除」に挑む枢たち。
都市の経絡が交差する急所、水神の広場へと辿り着いた一行を待ち受けていたのは、街の死念が凝集し、実体化した巨大な異形の怪物でした。
物理的な破壊が不可能な「病の概念」に対し、枢の巨大な金鍼が、そして嵐の禁忌の呪術が、黄昏の空の下で激突します。
聖鍼師としての真髄が試される、都市規模の手術が始まります。
境界都市ゼノスの北側に位置する「水神の広場」。
かつては三界の和合を象徴し、天界の清流と魔領の霊水が混ざり合う、この街で最も美しい大噴水が置かれていた場所。しかし今、枢たちの眼前に広がるのは、見る影もなく変貌した「腐敗の地獄」だった。
噴水から溢れ出しているのは水ではなく、粘り気のある、どす黒い紫色の「膿」の奔流。
それは街全体の地下水路を逆流し、地上へと溢れ出した残留思念の塊だった。大気は強烈な酸性の瘴気に満ち、御者台のカザンが激しく咽せ込みながら、馬車を止めた。
「……ゲホッ、なんだ……この空気は! 鼻の奥が焼けるような……っ、肺に鉛を流し込まれてるみてえだ!」
カザンが必死に呼吸を整え、槍を構える。だが、彼が愛用する鋼の穂先さえも、周囲の瘴気に触れたそばから、じりじりと嫌な音を立てて黒く変色し始めていた。
サロメが瞬時に馬車から飛び出し、杖を突き立てて多重の防御結界を広げる。
「……枢さん、長くは持ちませんわ! この瘴気……ただの毒ではありません。何万という死者の『未練』と、世界の理に拒絶された『病根』が、意志を持って結界を食い破ろうとしていますわ!」
サロメの結界が、押し寄せる紫の霧に削られ、火花を散らす。彼女の額には大粒の汗が浮かび、魔力の激しい消耗を物語っていた。
枢は往診鞄を抱え、静かに、しかし確実な足取りで噴水の中心へと歩み出た。
彼の翡翠眼が捉えたのは、噴水の跡地に鎮座する、高さ五メートルを超える「概念の怪物」だった。
それは肉体を持たない。無数の苦悶する顔が、壁のように、あるいは蠢く内臓のように積み重なり、巨大な心臓のような鼓動を繰り返している。ゼノスが数百年かけて溜め込んできた世界の「排泄物」が、今、一つの生命として産声を上げようとしていた。
「……なるほど、これがこの街の『積滞』の正体。……三つの世界が互いの汚れを押し付け合った、成れの果てですか」
枢の声は、この絶望的な光景の中でも、驚くほど澄んでいた。
彼は往診鞄の奥底から、一尺を越える、黄金の輝きを放つ巨大な鍼を取り出した。
鍼というよりは、極限まで細く鍛え上げられた一筋の光の槍。その金鍼が空気に触れた瞬間、周囲の瘴気が一瞬だけ翡翠の輝きに押し戻され、広場に一筋の「道」が生まれた。
「……フン。……ただの怪物なら私の毒虫に食わせて終わるところだが、……流石にこれほど肥大化した死念は、少々胃にもたれそうだ」
嵐が枢の隣に並び立ち、背負った漆黒の薬箱を地面に叩きつけた。
「聖鍼師。……私がこの『膿の塊』の意識を、一瞬だけ一点に縫い止めてやる。……貴様は、その瞬間に、この街の龍脈の結節点――**『大椎』**に相当する場所に、その長すぎる鍼をぶち込め。……一厘でもずれれば、街の経絡が爆発し、ゼノスは地図から消える。……貴様のその細い腕に、この街の五万の命を預けるぞ」
「……承知しています。……そのために、私はここまで来たのですから」
嵐が指を組み、禁忌の呪言を唱え始めた。
「……東方呪術・『万魔収斂』!」
広場全体に、黒い火花を散らす巨大な魔法陣が展開される。
街全体を覆っていた紫の煙が、まるで巨大な渦潮に吸い込まれるように、噴水中央の怪物へと猛烈な勢いで収束していく。怪物は自身の質量が極限まで圧縮される苦痛に、天を揺るがすような精神波の咆哮を上げ、その触手が枢へと襲いかかった。
「……リナさん、歌を! ……カザン、サロメ、……私の背中を、一秒だけ死守してください!」
枢が巨大な金鍼を両手で構え、大地を踏みしめた。
リナの歌声が神聖な繭となり、枢を死の干渉から守る。カザンが猛然と槍を振るい、迫り来る怪物の触手を切り裂き、サロメが結界を一点に集中させ、枢の突撃路を固定した。
「……見えました」
枢の意識が、世界から切り離される。
猛り狂う怪物の鼓動。
流れる瘴気のリズム。
そして、ゼノスの街が上げる、微かな再生への願い。
それらすべてが、一本の透明な「線」として枢の翡翠眼に収束していく。
「……聖鍼流・秘奥義。……『地脈調律・陽光穿孔』!」
枢の身体が、黄金の雷光と化した。
彼は怪物の懐深く、その絶望の芯へと飛び込み、一尺の金鍼を、都市の経絡の核へと渾身の力で突き立てた。
――カァッ!!
世界が真っ白な光に染まり、次の瞬間、巨大な爆圧が広場を駆け抜けた。
怪物の咆哮は、激しい苦悶から、やがて救済を求めるような歓喜の声へと変わり、紫の瘴気が、まるで春の雪解けのように、瑞々しい翡翠の風へと変換されていく。
金鍼が、街の「詰まり」を貫いたのだ。
光が収まったとき、広場の中央には、かつての清らかな水が溢れ出す噴水と、その傍らで肩で息をつく枢の姿があった。
空を覆っていた重苦しい雲が晴れ、沈みゆく夕日が、浄化されたゼノスの街を黄金色に照らしていた。
「……やった、……んですの?」
サロメが呆然と呟く中、枢は震える手で眼鏡の位置を直し、微かに微笑んだ。
だが、その微笑みはすぐに消えた。
「……いえ。……まだ、終わりではありません。……街の『気の流れ』は戻りましたが、……人々の心に刻まれた『傷』は、まだ残っています」
枢の視線の先。
浄化された噴水の影から、新たな、そしてより洗練された「秩序の軍勢」――。
ウリエルが予選の「第二段階」として放った、感情なき精鋭騎士たちが、音もなく姿を現し始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
3月20日、祝日の18:00更新をお届けいたしました。
都市規模の「往診」第一段階、完了。
枢の圧倒的な鍼捌きと、嵐の呪術が合致し、街を蝕んでいた膿の塊を、本来の「生」のエネルギーへと還してみせました。
今回枢が狙った**『大椎』**。
人体では首の付け根にある、全身の「陽の気」が集まる重要な経穴です。枢はこれを都市構造に当てはめ、そこを貫くことで、街全体に滞っていたプラスのエネルギーを一気に循環させ、瘴気を中和しました。
次回、第163話は本日**【21:00】**、祝日初日の最終更新です!
膿を消し去った枢たちの前に現れたのは、患者として運び込まれた「感情を失った騎士」たち。
彼らの肉体は無傷でありながら、心だけが空っぽになっていました。
それは、天界の浄化が行き過ぎた結果生まれた、「完璧すぎる絶望」の姿。
本日最後の更新も、最高のボリュームでお届けします!
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