第150話:東方よりの刺客、黒き呪符と翠の閃光
節目となる第150話をお読みいただき、誠にありがとうございます。
聖都での激闘を終え、日常へと戻る枢たちの前に現れたのは、東方の異様な装束を纏った謎の男、嵐。
彼は、枢の「生」の医道とは対極にある、「死」を以て病を制する「呪医」を自称します。
ここから始まるのは、単なる一過性の出会いではありません。
宿命のライバルとの出会い、そして世界の裏側に潜む新たな病魔との、長い長い戦いの幕開けです。
本文ボリュームを大幅に強化した新章、開診いたします。
聖都の騒乱から数日。
魔王が用意した専用の豪華な魔導馬車は、揺れを一切感じさせない滑らかな足取りで、住み慣れた診療所への帰路についていた。
車窓から流れる午後の穏やかな木漏れ日は、結晶化の恐怖にさらされていたあの街の冷たさとは対照的に、どこまでも優しく、暖かかった。だが、馬車の中を流れる空気は、完全な休息を許してはくれない。
「……結局、あの教皇様もセラフさんも、枢さんの手のひらの上でしたわね。……でも枢さん、少しは自分の身体を労わってくださいませ。あなたはいつも、患者のことばかりで自分を勘定に入れなさすぎですわ」
サロメは、昨夜の激闘で魔力の煤に汚れた杖の宝石を、シルクの布で丁寧に拭いながら、深い溜息をついた。その横顔には、枢への呆れと、それを上回る深い案じの色が滲んでいる。
「サロメの言う通りだぜ、先生。あんたが倒れちまったら、誰がこの世界の理を叩き直すんだよ。……俺たちだって、あんたの無茶に付き合うのは心臓に悪いんだ。なあ、リナ様もそう思うだろ?」
カザンが豪快に笑いながら、枢の肩を親しみ込めて叩く。その重みは、彼なりの信頼の証でもあった。リナもまた、優しく微笑みながら枢の淹れた特製の薬膳茶を一口啜り、その温かさに目を細めていたが、その瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
「……自分でも気をつけているつもりですが、……目の前に『滞り』があると、どうしても放っておけなくてですね。……医者としての性というものでしょうか」
枢は苦笑いしながら、膝の上にある古びた医学書に目を落とした。だがその瞬間、枢の翡翠眼が、前方の空間に漂う「異質な気の歪み」を捉えた。
――ズ、ンッ。
心臓を冷たい指で直接掴まれたような、重苦しく、それでいて鋭利な殺気が馬車を包み込む。
街道の木々が一斉にざわめき、鳥たちが悲鳴のような鳴き声を上げて飛び立った。
馬たちが何かに怯えて激しく嘶き、御者が慌てて手綱を引く。
「……止まれ。……その男は、私の獲物だ」
低く、しかし鼓膜を直接震わせるような重厚な声。
カザンが瞬時に反応し、槍を手に外へ飛び出す。サロメとリナも、その異常なプレッシャーに表情を強張らせながら、それに続いた。
馬車の前に立ち塞がっていたのは、この大陸のどの国でも見たこともない、奇妙な装束を纏った一人の男だった。
深い藍色の着物に、複雑な幾何学文様が刻まれた銀の籠手。腰には無数の「呪符」が収められた黒い円筒を下げ、その背中からは、命あるものを拒絶するような、凍てつく「死の匂い」が立ち昇っている。
男の瞳は、まるで冬の夜の海のように深く、暗い。
「……何奴だ! 枢さんの命を狙う刺客か!?」
カザンの咆哮。だがその男は、カザンの槍の先すら目に入っていないかのように、ただ冷たい一瞥を枢へと向けた。
「刺客? ……不愉快な。私は『嵐』。……東方の果てより、この地に蔓延る『偽りの癒し』を狩りに来た。……お前が、神をも救ったと噂の聖鍼師か」
枢はゆっくりと馬車から降り、地面に足を下ろした。
彼の眼鏡の奥にある翡翠眼を極限まで解放し、目の前の男――嵐の身体を透過する。
枢の背筋に、これまでのどの強敵とも違う、戦慄にも似た驚愕が走った。
嵐の体内の気は、常人であれば一分と持たずに絶命するほどの、猛烈な「毒」で満たされていた。だが、その毒こそが彼の生命力の源であり、独自の循環系を形成して彼を強化している。……自らを壊し続けることで、より強固な再生を繰り返す。まさに「毒を以て毒を制する」生きる兵器。
「……私の鍼が『偽り』かどうか。……それを判断するのは、あなたではなく患者ですよ。……嵐殿」
「フン、相変わらず口の減らない男だ。……ならば、試してやろう。……ちょうどいい『検体』がそこに転がっている」
嵐が長く細い指で指差した先。
森の茂みが激しく揺れ、そこから一人の魔族の戦士が這い出してきた。
だが、その姿はあまりに凄惨だった。戦士の右半身は、巨大な「寄生魔獣」の触手に食い破られ、内側から真っ黒な腐敗がドロリと溢れ出している。
魔獣の細胞は戦士の経絡を自らの回路として強引に書き換え、宿主の命を燃料にして、今まさに「羽化」の準備を始めていた。
「助け……て……」
戦士が、震える血まみれの手を枢へと伸ばす。
「無駄だ。こいつの細胞はすでに死んでいる。鍼で気を流したところで、器そのものが壊れていれば水は溜まらない。……ただの時間の浪費だ」
嵐が懐から、漆黒の呪符を三枚取り出した。その呪符からは、触れるだけで魂が削り取られるような禍々しい黒い霧が噴き出している。
「……私の『黒水の呪符』で、魔獣ごとこの男の患部を焼き切る。……臓器の半分を失うだろうが、生き残る確率は一割。……それが、絶望という病に対する唯一の慈悲だ」
「いいえ。一割の賭けなど、医術ではありません。それは単なる博打です」
枢が往診鞄を開き、翡翠の輝きを放つ極鍼を、その指の間に挟み込んだ。
枢の瞳には、戦士の体内で蠢く魔獣の核が、明確に、冷徹に映し出されていた。
「私は一分の狂いもなく、魔獣のみを摘出し、……破壊された全ての経絡を再建させます。……五体満足で、明日を迎えさせる。……それが、私の医道です」
「面白い。……ならば、やってみろ、聖鍼師。……どちらの理が、この死に損ないを現世に繋ぎ止めるか。……もし失敗すれば、私はお前のその眼を、私の毒の糧としていただくぞ」
翠の静かなる躍動と、漆黒の荒ぶる呪力。
相容れない二つの「医」の哲学が、夕闇迫る森の中で、火花を散らして激突した。
カザンたちが息を呑む中、枢と嵐は同時に、瀕死の戦士へと手を伸ばす。
これが、後に歴史が語り継ぐことになる「聖鍼師」と「呪医」の、数千年に及ぶ医道の相克――その、記念すべき最初の一歩であった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
記念すべき第150話より、新章「東方呪医編」が開幕いたしました。
枢の前に現れた謎の男・嵐。彼が操る「呪符」と「毒」は、これまで枢が向き合ってきた西洋魔術や天界の理とは全く異なる、異質な医術です。
救うために「生」を整える枢と、救うために「死」を利用する嵐。
相容れない二人の哲学が、瀕死の魔族を前にどのように交錯するのか。
次回、第151話は本日**【12:00】**に更新予定です。
患者の体内で羽化を始める魔獣。
二人の天才が同時に手を伸ばしたとき、誰も予想だにしなかった「共鳴」が起こります。
引き続き、応援をよろしくお願いいたします。




