第143話:異界の残滓、翡翠眼を拒む「無」の深淵
お読みいただきありがとうございます。
行列の最後に現れた、この世界の理に属さぬ「虚無」の気を持つ者。
平和を取り戻したはずの世界に、なぜ再び不穏な影が落ちるのか。
聖鍼師・枢の眼が捉える、未知の「病理」。
本文の密度を極限まで高めた12時更新、開診いたします。
広場を埋め尽くしていた喧騒が、西陽の傾きと共に少しずつ落ち着きを見せ始めた頃。診療所の入り口を、最後の一人が静かに跨いだ。
その人物は、頭の先から足首までを、泥に汚れた灰色のローブで深く覆っていた。歩くたびに微かな砂の零れる音が響くが、その足取りには命ある者特有の「重み」が欠落している。
枢は、使い古した消毒用の布を置き、翡翠眼の焦点をその人物へと合わせた。
だが、その瞬間に枢の背筋を走ったのは、これまでの天界の執行官や魔王との対峙ですら感じたことのない、凍てつくような拒絶感だった。
「……お待たせしました。……どうぞ、そちらの椅子へ」
枢が促しても、その人物は動かない。ただ、フードの奥にあるはずの「視線」が、枢の喉元をじっと射抜いていることだけが、肌を刺すようなプレッシャーとして伝わってくる。
「……おいおい、最後のお客さんは随分と愛想がねえな。……枢、こいつの気……なんだかおかしいぜ。……まるで、そこに穴が開いてるみたいだ」
カザンが槍を背負い直しながら、無意識に枢の前に半歩踏み出した。戦士としての本能が、目の前の存在を「理解不能な異物」だと断定していた。
サロメもまた、手に持ったお茶のカップを置き、険しい表情で魔力探知を張り巡らせる。だが、彼女の放つ探知の波動は、その人物の身体に触れた瞬間に、音もなく吸い込まれて消えていった。
「……枢さん、お気をつけになって。……この方の周りだけ、魔力が完全に死んでいますわ。……死んでいるというより、……最初から存在しなかったことにされているような……」
枢は眼鏡の位置を直し、一歩、その人物へと近づいた。
翡翠眼を極限まで解放する。通常であれば、生物の体内には「気の奔流」が川のように流れているのが見えるはずだ。だが、この人物の内部に広がっていたのは、ただの暗黒――いや、あらゆる法則が崩壊した「虚無」の塊だった。
「……診断の邪魔ですから、そのフードを外していただけますか」
枢の声に、初めてその人物が動いた。
ゆっくりと、枯れ木の枝のような細い指がフードにかけられ、その中身が露わになる。
リナが、思わず口元を押さえて息を呑んだ。
そこにいたのは、透き通るような白い肌を持つ美しい青年だった。……だが、その横顔には、耳の付け根から顎にかけて、まるで空間そのものが「欠け落ちた」かのような、鏡のような亀裂が走っていた。その亀裂の奥には肉も骨もなく、ただ星も光もない宇宙の深淵が覗いている。
「……私は……世界に拒まれた者……」
青年の口から漏れたのは、言葉というよりは、崩れ落ちる砂のような掠れた音だった。
「……あなたが、……世界を『直した』から。……余りものとなった私が、……消えずに残ってしまった」
枢は、その青年の手首を取り、脈を診ようとした。
だが、触れた感触は氷よりも冷たく、脈動は一分間に一度打つか打たないかという、生命の定義を根底から覆すものだった。
「……なるほど。……世界の修復。……天界と魔領の断絶を繋ぎ合わせ、一つの正しい円環に戻した際、……そのどちらの理にも適合できず、外側へ弾き飛ばされた『概念の残滓』。……それがあなたですね」
「……この『痛み』を……止めてほしい。……存在しないはずの身体が、……存在しようとするたびに、……削られていく……」
青年の亀裂から、微かに「砂」のような粒子がこぼれ落ちる。それは彼の存在そのものが、この世界の強固な法則によって消去されようとしている抵抗の証だった。
「……無理ですわ、枢さん! この方は、この世界の住人ではありません! ……私たちの鍼も魔法も、この『虚無』には届きませんわ!」
サロメの叫びは正論だった。
聖鍼師の術式は、あくまで「この世界の気の巡り」を前提としている。存在そのものが世界の外側に属する者に対し、ツボを突き、気を流すことは、空気に釘を打とうとするのと同じ無意味な行為だ。
だが、枢は静かに笑った。
彼はバッグの奥から、一本の「真っ黒な鍼」を取り出した。それは光を一切反射せず、握っている枢の手首を侵食しようとするかのような不吉な脈動を繰り返している。
「……サロメ。……聖鍼師を、あまり侮らないでいただきたい。……患者がこの世界の理に属していないのなら、……私の鍼を、その『外側』まで届ければいいだけの話です」
「……そ、その黒い鍼……。まさか、天界の断絶の裂け目で拾い集めた『虚無の結晶』を加工したのですか!?」
「……ええ。……世界が救われた時、必ずこのような『歪み』が生まれると確信していましたから。……備えのない往診など、聖鍼師の名折れです」
枢が、青年の欠け落ちた横顔へと、黒い鍼を構える。
青年の瞳には、恐怖ではなく、救いを求めるような静かな光が宿っていた。
「……ツボがないのなら、私が新たに穿ちましょう。……存在しないはずのあなたの身体に、……この世界で生きるための『楔』を打ち込む」
枢の翡翠眼が、青年の胸元――存在しないはずの「心臓」の位置にある、極小の光の一点を捉えた。
それは青年がこの世界に留まろうとする、最後の一欠片の執念。
「聖鍼流、異界術式――『虚空・存在の調律』!」
黒い鍼が、音もなく青年の胸を貫いた。
瞬間、診療所全体が光を失ったかのような暗転に包まれ、枢の指先から、青年の「虚無」へと膨大な聖魔力が逆流し始める。
枢の白衣がバチバチと火花を散らし、翡翠の瞳が過負荷で血走る。
「……ぐ、……ッ……! ……流せ、……流れを作れ……。……無の中にこそ、……全ての始まりがある……!」
枢の叫びと共に、青年の身体の亀裂が、まばゆい虹色の光で満たされ始めた。
世界に拒まれた者が、聖鍼師の指先によって、強引に「命」としての形を繋ぎ止められていく。
数分後。
暗闇が晴れた診療所で、枢は激しく肩を揺らしながら立ち尽くしていた。
その目の前では、青年の横顔にあった亀裂が、今は美しい銀色の「筋」へと変化し、彼の中に確かに穏やかな気の脈動が生まれていた。
「……これは、……私は、……生きているのか……?」
「……いいえ。……あなたはまだ、『存在の許可』を得たに過ぎません。……本当の治療は、これからですよ。……まずは、その冷え切った身体を温めるための、……温かいお茶から始めましょうか」
枢が、震える手で眼鏡を掛け直した。
平和になったはずの世界で、聖鍼師の戦いは、今、さらに深く、暗い領域へと足を踏み入れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
平和の代償として生まれた「世界の余りもの」。
そんな存在すらも「患者」として扱い、命を繋ぎ止めた枢さん。
彼の指先は、今やこの世界の法則すらも超え、未知の領域へと届こうとしています。
今回枢が敢行した術式は、東洋医学の「無」の概念を極限まで飛躍させたものです。
存在しない場所にツボを定義し、そこに新たな気を流し込む。聖鍼師としての彼の執念が、一人の青年の消えゆく運命を繋ぎ止めました。
次回、第144話は本日**【18:00】**に更新予定です!
命を繋ぎ止めた青年、シオン。
彼が語る、世界の外側にうごめく「更なる淀み」の正体とは。
物語は新章、異界編へと突入します。
平日更新も全力で駆け抜けます!
面白いと思っていただけましたら、評価やブックマークでの応援をぜひお願いします。




