第142話:聖鍼師の朝、平和という名の副反応
おはようございます!
世界の断絶を繋ぎ止め、真の夜明けを呼んだ聖鍼師・枢。
激闘から一夜明け、地上に降り注ぐ陽光は、これまでになく清々しいものでした。
しかし、英雄として称えられる暇もなく、診療所の門を叩く音は止みません。
平和になった世界で、聖鍼師が直面する「新たな悩み」とは。
今週も月曜日から金曜日まで、
【8時、12時、18時、21時】
の4回更新で、枢たちの日常と新たな旅路をお届けします!
神域の断絶を繋ぎ止め、世界が新たな鼓動を始めてから、最初の朝。
診療所に差し込む陽光は、昨日までとは明らかに異なっていた。大気中の魔力は澄み渡り、窓の外からは鳥たちの囀りだけでなく、草花が芽吹く微かな「生命の震え」までもが心地よいリズムとして伝わってくる。世界という巨大な身体が深い眠りから覚め、健やかな呼吸を始めた証拠だった。
枢は、いつものように誰よりも早く起床し、愛用の往診鞄を手入れしていた。
世界を救った伝説の鍼『万象還流・千歳』は、その役割を終えて砕け散ったが、彼の手元には、これまで共に歩んできた数多の銀鍼と金鍼が、静かに、しかし鋭く出番を待っている。
「……ふぅ、ようやく気が整いましたね」
枢は、自身の指先に残っていた微かな痺れ――世界を治療した際の反動――を、手首の**『陽谿』**へ軽く鍼を打つことで完全に霧散させた。翡翠眼が映し出す自身の経絡は、かつてないほど滑らかに循環している。
「おっはよー、枢さん! ……って、もう仕事始めてるんですの? 少しはゆっくり寝ていればよろしいのに」
二階から降りてきたサロメが、欠伸を噛み殺しながら呆れたように笑った。その後ろからは、まだ眠たそうな目を擦るリナと、朝から旺盛な食欲を見せるカザンが続く。
「……枢、あんたって奴は。世界を救った翌朝に、真っ先にやるのが鍼の消毒かよ。少しは『英雄』らしく、広場で演説でもしてくりゃあ、金貨の雨が降るぜ?」
「カザン、私は何度も言っているはずです。私は聖鍼師であって、演説家でも英雄でもありません。……それに、外を見てください。演説をしている暇など、一秒もなさそうですよ」
枢が診療所のカーテンを引くと、そこには昨日以上の光景が広がっていた。
広場を埋め尽くす人々。だが、その顔触れは、昨日までの悲壮感漂う重症者たちとは一変していた。
「……枢さーん! 世界が綺麗になりすぎて、なんだか身体がムズムズして眠れないんです!」
「先生! ずっと動かなかった古傷が、急に熱を持って疼き出しちまって!」
窓の外から聞こえてくる、贅沢とも言える「悩み」の数々。
世界が正常化したことで、これまでの「病んだ環境」に適応していた人々の身体が、急激な環境変化に戸惑い、微細な不具合を起こしているのだ。
「……なるほど。平和という名の『副反応』ですか」
枢は眼鏡のブリッジを押し上げ、翡翠眼を鋭く光らせた。
彼にとっては、神の暴走も、近所の老人の不眠症も、等しく「整えるべき気の滞り」でしかない。
「……リナ様、受付をお願いします。サロメ、過剰な清浄化による魔力酔いを鎮めるために、室内の魔圧調整を。カザン、騒ぎすぎている若者たちの気を鎮めるために、少しばかり威圧をお願いできますか?」
「……もう、人使いが荒いですわね! でも、これが聖鍼師の日常ってわけですわね!」
診療所の門が開かれる。
最初に入ってきたのは、村の有力者の娘だった。彼女は顔を赤らめ、もじもじと指先を弄びながら枢を見つめる。
「……あ、あの、枢先生。世界が救われてから、なんだか胸がドキドキして、夜も眠れなくて……。これって、やっぱり天界の影響でしょうか?」
枢は、娘の脈を診るまでもなく、その翡翠眼で彼女の胸中の気を読み取った。
滞りはない。むしろ、生命力に溢れ、特定の対象――つまり目の前の枢自身――に向かって、激しく拍動している。
「……いいえ。それは天界のせいでも、世界の不具合でもありませんね。単なる『自律神経の昂ぶり』です。首の後ろの**『風池』**に軽く一刺ししておきましょう。頭が冷えて、冷静になれますよ」
「……えっ、冷やすだけですか?」
「……ええ。これ以上熱を上げると、心臓に負担がかかりますからね。……お大事に。次の方、どうぞ」
淡々と、しかし完璧な手際で患者を捌いていく枢。
その背中を見ながら、リナは確信していた。
例え世界が明日終わるとしても、この人はこうして鍼を構え、目の前の誰かの痛みを和らげようとするのだろう。
だが、その平穏な空気の中に、枢だけが気づく「異質な気の揺らぎ」が混ざり込んでいた。
行列の最後尾、フードを深く被った謎の人物。その人物が纏う気は、人間のものでも、魔族のものでもない。……それは、この新しく創り変えられた世界の理ですら感知できない、異界の「虚無」の気だった。
「……なるほど。どうやら、世界を直したことで、招かれざる『客』を呼び寄せてしまったようですね」
枢は、新しい銀鍼を一本、指の間に隠し持った。
聖鍼師の、新しい一週間。
平和な日常の裏側で、新たな「病根」が静かにその芽を伸ばそうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
世界救済から一夜明けた月曜日。
英雄扱いを拒み、淡々と日常の「副反応」を治療する枢さんの姿は、まさに聖鍼師の鑑ですね。
しかし、平和になったからこそ現れる新たな「淀み」が、早くも彼らの前に現れました。
今回登場した**『陽谿』**。
親指の付け根、手首の窪みにあるこのツボは、指の疲れや腱鞘炎だけでなく、頭痛や歯の痛み、さらには「熱」を逃がす効果があります。枢さんは自身の手に残った過剰なエネルギーを、ここで上手く逃がしました。
そして娘さんに打とうとした**『風池』**。
首の後ろ、髪の生え際にあるこのツボは、自律神経を整え、文字通り「逆上せ(のぼせ)」を鎮めるのに非常に有効です。枢さんらしい、少し無愛想で完璧な対処でしたね。
次回、第143話は本日**【12:00】**に更新予定です!
行列の最後に並んだ謎の人物。
彼が持ち込んだのは、この世界の薬も鍼も通用しない「未知の呪い」でした。
今週も聖鍼師・枢の往診に、どうぞお付き合いください!
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