第137話:帰還の喧騒、診療所に集う新たな「淀み」
お読みいただきありがとうございます。
神域での激闘を終え、ようやく地上へと帰還した枢一行。
懐かしの診療所に辿り着いた彼らが見たのは、かつてないほどの大行列でした。
天界の変革は、地上にどのような影響をもたらしたのか。
そして、枢の元に届けられた一通の「招待状」の正体とは。
日曜日の更新祭り、第2回目となる10時更新。
聖鍼師の新たな物語が動き出します。
天界の重厚な門を背に、アズラエルが放った転移の光が収束していく。
視界が開けた先に見えたのは、見慣れた漆喰の壁と、使い込まれた往診鞄が置かれた棚――。地上にある枢の拠点の、静かな診療所だった。
「……はぁ、ようやく帰ってこれましたわね。……やっぱり地上の空気は、少しばかり雑多で、落ち着きますわ」
サロメが大きく背伸びをし、溜まっていた魔力の凝りを解きほぐすように杖を振った。
「……まったくだ。天界の空気は綺麗すぎて、鼻がムズムズしやがるぜ」
カザンも槍を立て掛け、床にどっしりと腰を下ろす。
だが、枢だけは安堵の表情を見せなかった。
彼の翡翠眼は、診療所の外から漏れ聞こえてくる、尋常ではない数の「呼吸音」と「拍動」を瞬時に察知していたからだ。
「……カザン、サロメ。……ゆっくり休んでいる時間は、なさそうですよ」
枢が玄関の扉を開けた瞬間、一行は絶句した。
診療所の前から続く通りには、地平の先まで続くかのような、人、人、人の大行列が形成されていた。それも、ただの病人ではない。全身から魔力を暴走させた冒険者や、原因不明の痣に苦しむ商人、さらには森から迷い込んできたであろう、弱り切った魔物までもが、救いを求めて列をなしていた。
「……な、何ですの、この数は……!? 留守にしていた間に、何が起きましたの?」
「……天界の法典が正常化した影響でしょうね。……これまで法典の歪みによって、無理やり抑え込まれていた『負の気』が、地上のあちこちで一気に噴き出している。……人々の身体が、その急激な環境変化についていけていないんです」
枢は即座に往診用の白衣を纏い、翡翠眼を全開にした。
列の先頭で倒れ込んでいた一人の冒険者の元へ、一瞬で歩み寄る。
「……枢さん、……あ、あんた、……戻ってきてくれたのか……」
冒険者の男は、苦しげに胸を押さえていた。その皮膚の下では、どす黒い気が血管のように浮き上がり、今にも破裂しそうなほど膨張している。
「……喋らなくていい。……典型的な『気あたり』ですね。……外気が急激に清浄化したことで、体内の古い魔力が排出されずに詰まっている。……すぐに流します」
枢は指の間から三本の銀鍼を滑らせた。
男の手首にある**『内関』、そして足の『太衝』**。
気の巡りをコントロールする急所を、正確無比な速度で打ち抜く。
「聖鍼流、平癒術式――『三関・魔気の還流』!」
鍼を伝って、男の身体から真っ黒な煙のような気が一気に噴き出した。
直後、男の顔色は劇的に回復し、荒かった呼吸が静かな拍動へと戻っていく。
「……す、……すげぇ、……身体が、軽い……。さっきまでの地獄のような重さが、嘘みたいだ……」
「……次の方。……重症者から順に、リナ様が優先順位をつけてください。……カザンは列の整理を。……サロメは、私の鍼に合わせて、浄化の魔力補助をお願いします」
枢の的確な指示が飛ぶ。
休息を必要としていたはずの彼らだったが、枢の揺るぎない背中を目にした瞬間、その疲れはどこかへ吹き飛んでいた。
「……了解だ! ……おい、そこ! 押し合うんじゃねえ! 聖鍼師様が診てくれるんだ、行儀よくしやがれ!」
「……もう、人使いが荒いですわね! ……でも、この『淀み』を放っておくのは、私の魔導のプライドが許しませんわ!」
数時間。
枢の指先は一度も止まることなく、数百人の患者に的確な処置を施し続けた。
彼の鍼が打たれるたびに、絶望に満ちていた行列には安堵の溜息が広がり、広場全体が柔らかな翡翠の光に包まれていく。
作業が一段落し、ようやく夕闇が差し込み始めた頃。
一人の、見慣れぬ黒装束の使者が、枢の前に跪いた。
「……聖鍼師、枢殿とお見受けする」
「……どなたですか。……見ての通り、急患が立て込んでいます」
「……西の果て、魔族の領地を統べる王より、書状を預かっております。……天界の変革を察した我が主が、あなたという『奇跡の指先』を、是非とも招きたいと」
差し出されたのは、禍々しくも気品ある魔力の封印が施された、漆黒の招待状。
カザンとサロメが息を呑む中、枢はそれを無造作に受け取った。
「……魔王、ですか。……なるほど、……そちらでも『淀み』が起きているようですね」
枢の翡翠眼が、遥か西の空を見据える。
天界の戦いを終えたばかりの聖鍼師。その次なる往診先は、人類にとっての禁忌の地、魔王城。
物語は、さらなる深淵へと、その針路を切る。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
地上に帰還した途端、急患の嵐に見舞われた枢さん。
天界の変革は、平和をもたらすだけでなく、地上のエネルギーバランスを激変させてしまいました。それを「病」として捉え、即座に治療を開始する姿は、まさに聖鍼師そのものです。
今回登場した**『内関』**。
手首の内側にあるこのツボは、吐き気を鎮めたり、自律神経や精神を整えたりするのに非常に有効です。枢さんはここに鍼を打つことで、急激な環境変化にパニックを起こした患者の気を鎮めました。
次回、第138話は本日**【12:00】**に更新予定です。
魔王からの招待状に対し、枢が出した答えとは。
そして、魔領で発生しているという「未知の流行病」の正体に迫ります。
日曜日も、まだまだ更新祭りは続きます!
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