第110話:氷上の旋律、感覚を失くした指先
おはようございます!
天界での激闘から数週間。
龍神の呪いをその身に刻んだ枢は、指先の繊細な感覚を失っていました。
鍼を握ることすらままならない絶望の中、一行が辿り着いたのは、雪と氷に閉ざされた極北の国「スノウトラ」。
そこで枢が出会ったのは、かつての自分のように「大切なもの」を失い、凍てついた心を抱える盲目のピアニストでした。
第4部、開幕。
動かない指で、枢は再び「命」を救うことができるのか。
月曜日の朝、静かなる再起の物語をどうぞ。
吹き抜ける風が、肌を刺すような冷気を運んでくる。
極北の禁域、スノウトラ。ここは一年中が雪に覆われ、太陽の光さえも白く霞む「沈黙の国」だった。
アルテミス号を下船し、天界から地上へ降り立った枢たちは、厚い毛皮のコートに身を包み、膝まで埋まる雪原を黙々と進んでいた。
「……枢さん、大丈夫ですか? 無理をしないで、私の肩に捕まってください」
リナが心配そうに、枢の右手に触れようとする。だが、枢は力なく微笑み、その手をそっと避けた。
「……ありがとうございます、リナ。……ですが、これくらいは自分で歩けます。……感覚がないだけで、……足が動かないわけではありませんから」
枢の言葉は、以前よりもどこか遠く、透明な響きを帯びていた。
彼の両手は、今もなお白く、陶器のように無機質な質感を保っている。龍神の毒を中和した代償として失われた、鍼師の命とも言える「触覚」。
彼は今、自分が雪を踏んでいる感触も、風が肌を撫でる温度も、リナが差し伸べた手の温もりさえも、正しく認識することができずにいた。
「……ケッ、……湿っぽぇのは無しだぜ。……その腕を治す『黄泉の霊薬』ってやつが、……この先の氷の神殿に眠ってんだろ? ……だったら、……さっさと見つけて、……元通りの名医に戻ってもらうだけだ」
カザンが槍を杖代わりに雪を蹴散らし、強がってみせる。だが、その背中には、相棒である枢の変貌に対する隠しきれない動揺が滲んでいた。
一行がスノウトラの唯一の集落に辿り着いた時、街の広場から、悲しげな、だが透き通るようなピアノの旋律が聞こえてきた。
氷で作られた野外ステージ。そこで古いピアノを弾いていたのは、瞳を布で覆った、美しい少女だった。
彼女の指は、鍵盤の上を正確に踊っている。だが、その音色には、この極北の気候よりも冷たく、凍てついた「絶望」が宿っていた。
枢は、思わず足を止めた。
感覚を失った今の彼にとって、翡翠眼で見る「気の流れ」だけが、唯一の世界との繋がりだった。
「……あの人の気、……真っ白に凍りついています。……まるで、……自分の魂を氷の中に閉じ込めて、……壊れないように守っているみたいだ」
曲が終わると同時に、少女は力なく鍵盤から手を離した。
「……今日も、届かない。……音の中に、……色がない。……私の指は、……もう死んでしまったのかしら」
少女の名はエルナ。かつては大陸中に名を馳せた天才ピアニストだったが、スノウトラを襲った奇病「氷晶病」により視力を失い、それ以来、彼女の奏でる音楽からは「命」が消えてしまったという。
「……おい、枢。……あんたの出番じゃないのか? ……その子を治してやりなよ」
カザンが促すが、枢は自身の白く変質した手を見つめ、静かに首を振った。
「……今の私には、……彼女の経絡を読み取ることはできても、……そこに正確に鍼を打つ『力』がありません。……指先がミリ単位で狂えば、……それは治療ではなく、……暴力になってしまう」
「……あんた、……いつまでそんな湿気た顔してるつもりよ!」
後ろから歩いてきたサロメが、枢の背中を強く叩いた。
「……指が動かないなら、……心の目で打ち込みなさいよ! ……聖鍼師の名前が泣いてるわよ、……このヘボ医者!」
サロメの言葉に、枢の瞳に微かな火が灯った。
彼はゆっくりとエルナに歩み寄り、彼女の前に跪いた。
「……エルナさん。……私は、……地上から来た鍼師、枢と言います。……あなたの音を聞きました。……とても悲しくて、……そして、……とても『助けてほしい』と叫んでいる音でした」
エルナは、見えない瞳を枢の方へ向けた。
「……鍼師? ……無駄よ。……私の目は、……天界の呪いと同じ、……この国の氷の精霊に魅入られた証なの。……誰も治せない。……私の世界は、……もう二度と明けることはないわ」
「……いいえ、……明けない夜はありません。……私自身も今、……あなたと同じ『暗闇』の中にいます。……指先の感覚を失い、……自分が何者であるかさえ、……見失いそうになっています」
枢は、おもむろに往診バッグから一本の鍼を取り出した。
それは以前のような神鍼ではない。何の変哲もない、一本の細い銀鍼。
彼は自身の左手で、震える右手を支えた。
「……試しに、……私の腕を診てもらえませんか? ……あなたが音で世界を描くように、……私はこの鍼で、……あなたの命の旋律を奏でたい」
枢が狙ったのは、エルナの手首にある**『太淵』**のツボ。
ツボとしての『太淵』は、手関節の横紋上、橈骨動脈が触れる場所に位置し、「脈の会」と呼ばれる非常に重要な場所だ。ここは肺の機能を高めるだけでなく、全身の脈動を整え、滞った感情を押し流す起点となる。
「……聖鍼流、再起の一刺し――『太淵・沈黙の氷解』!」
感覚のない指。枢は自身の翡翠眼で、鍼先が皮膚に触れる「光の屈折」だけを頼りに、その深さを測った。
チクリ、という微かな感触さえ、枢には分からない。
だが、鍼を通じてエルナの冷たい経絡に、枢の「生きたい」という熱い気が流れ込んだ瞬間。
「……っ! ……あ……、……熱い……。……指先から、……何かが……入ってくる……」
エルナの頬に、一筋の涙が伝った。
彼女の凍りついていた経絡が、枢の命の熱によって、ゆっくりと、だが確実に溶け始めたのだ。
しかし、その様子を遠くから見つめる、氷の鎧を纏った騎士たちがいた。
「……不浄なる地上の医者が、……我らが聖なる氷を溶かそうとしている。……龍神の裏切り者を捕らえよ。……『氷の女王』の御前へ引きずり出せ」
枢の再起を阻むように、スノウトラの軍勢が一行を包囲する。
感覚を失った枢。光を失ったエルナ。
二人の孤独な魂が交差する時、極北の地に奇跡の旋律が響き渡る。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第4部「黄泉の霊薬編」、ついに開幕です!
腕の感覚を失うという絶望からスタートした枢さん。しかし、同じように「表現の翼」を失ったエルナとの出会いが、彼の止まっていた時間を動かし始めました。
「感覚がないなら、視覚で打つ」。かつての修行時代以上の集中力が、枢さんに求められています。
今回登場した**『太淵』**。
手首にあるこのツボは、呼吸器系の疾患に効くほか、気の巡りを良くする「脈の親玉」のような場所です。枢さんはここに熱を流すことで、エルナさんの心の氷を溶かそうと試みました。
次回、第111話は本日**【12:00】**に更新予定です!
氷の騎士団に連行される枢たち。
そこで待ち受けていた「氷の女王」は、なんとサロメの過去を深く知る人物でした。
明かされるサロメの隠された血筋と、氷晶病の真の恐ろしさ。
「枢さん、感覚がない中で鍼を打つ姿に涙……」
「エルナさんのピアノ、いつかまた聴きたい!」
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新章も全力で駆け抜けます。お昼の更新もお楽しみに!




