1-1|鏡台と左目の印
荻窪の空は、午前にもかかわらず鉄錆のように重く、湿った雨が細く静かに降り続いていた。
亡き母の旧宅。玄関の鍵を開けると、どこか時間が抜け落ちたような空間が広がっていた。埃っぽい匂いと、古い欅の床板がきしむ音。リノリウムの浮いた台所。どこかにまだ母の声が残っている気がして、璃空は足音すらも最小限に抑えて歩いた。
二階の和室。畳は一部沈み、障子の端は濡れて黒ずんでいた。
その中央に、ひとつだけ違和感なく残されていたものがある。古い鏡台だった。母が生前よく座っていた場所。何十年と位置を変えていないかのように、薄く埃をかぶりながら、そこにあった。
璃空は自然に、その前に膝を折った。
鏡は曇っていた。手の甲で軽く拭うと、自分の顔が現れた。28歳になった今も、自分という存在がどこか他人の延長のように感じられることがある。まるで見られている顔を生きているかのような感覚。
ふと。鏡の中で、左目だけが、わずかに光を孕んでいた。否。光というより、何かの形だった。幾何学的な模様。環のようであり、裂け目のようでもある。重なった円の中心に、薄く、けれど確かに、何かが刻まれている。
璃空は目を凝らした。片目ずつを隠してみる。
右目には何もない。左目だけに何かが、そこにある。
思わずスマートフォンで撮影した。確認する。しかし、そこには何も写っていなかった。もう一度、鏡を見た。やはりそこに、それはあった。鏡の中にだけ存在する、左目の印。
ぞくりとした感覚。何かがいや、誰かが、こちらを通して覗いている感じだ。自分の感情ではない、別の認識が、目の奥から逆流してくる。
思考が痺れた。璃空は思わず鏡台の引き出しを開ける。母の化粧道具、整髪料、古びた櫛。その下に、色褪せた封筒が挟まっていた。
表に筆跡で書かれていた。
八重から、璃空へ
封はすでに切られていた。だが中には、数枚の手紙と、黒い小冊子のようなものが収められていた。
小冊子の表紙には、手書きの文字でこう記されていた。
貸魂帳
正統印保持者のみ閲覧可
璃空は静かにその場に座り込んだ。鏡の中の左目が、今もじっとこちらを見返していた。




