2-7|印主の末裔
幻書堂の裏口は、相変わらず看板もなく、ただ路地の影に溶けていた。雨上がりの石畳を踏む音が、妙に大きく響く。璃空が戸を押すと、鈴の音ではなく、木が軋む低い音が返ってきた。
店内は暗かった。瀬名時彦は、すでに奥の書庫にいた。白熱灯の下、埃を被った帳簿を一冊、机に広げている。
「……来ると思っていたよ」
瀬名は振り返らずに言った。声は穏やかだが、どこか覚悟を含んでいる。
「これは来訪記録だ。表向きは、ただの古書購入者の控えだが――本当は違う」
帳簿を指で叩く。璃空が覗き込むと、そこには年代順に並んだ名前があった。大半は黒く塗り潰され、あるいは紙ごと切り取られている。その中で、一つだけ、異様に鮮明な文字が残っていた。
水城ヤヱ
その隣に、小さく、だがはっきりと書き込まれている。
識別:印主-7A
璃空の喉が鳴った。
「……祖母、だ」
「そうだ。正式な記録に残る、最後の印主の一人だ」
瀬名はようやくこちらを向いた。老いた目が、璃空の左目を避けることなく捉える。
「印主というのは、魂を扱う権限を与えられた者だ。貸す、預かる、祓う、返す―それを制度として運用する管理者。血縁でしか継承できない」
「じゃあ……」
璃空は言葉を探した。頭の奥で、これまで見てきた裂け目、夢、暴走する記憶が、一つの線に結ばれていく。
「僕は、その末裔……?」
瀬名は短く息を吐いた。
「末裔どころじゃない。記録上、水城家の系譜は7Aで止まっている。その後継が、登録されていない」
帳簿を閉じる音が、やけに重かった。
「君がそれだ。未登録のまま生まれ、印だけを持った存在。だから、制度が君を異常として扱う」
璃空の左目が、かすかに疼いた。まるで、その言葉に反応するように。
「最後の……印主?」
瀬名は少しだけ、視線を落とした。
「正確には、最後になる可能性がある印主だ。君が返すか、終わらせるかで、この仕組み自体が消える」
沈黙が落ちる。書庫の奥で、紙が湿気を含んで鳴る音がした。
「選択肢は二つしかない」
瀬名は静かに言った。
「祖母が拒んだ返還を、君がやり直すか。あるいは、印主の系譜そのものを、ここで断つか」
璃空は、帳簿の上に残された祖母の署名を見つめた。かつて、彼女もここに立ち、同じ問いを突きつけられたのだろう。
その瞬間、胸の奥で、誰かの記憶が微かに揺れた。
それは恐怖でも、怒りでもない。長い間、待たされていた感情だった。
「……だから、還れなかったんだ」
自分に言い聞かせるように、璃空は呟いた。瀬名は何も答えなかった。ただ、その沈黙が、すでに肯定だった。




