2-1|神楽坂の幻書堂
扉を開けた瞬間、濃密な紙の匂いが璃空を包んだ。
かつて幾度か足を運んだこの古書店、「幻書堂」の佇まいは変わっていない。天井まで届く本棚、剥がれかけた和紙のラベル、埃を払うように響く時折の鐘の音。唯一変わったのは、自分の目に映る層の深さだった。
「戻ってきたか、夢追い人。」
帳場の奥から現れたのは、瀬名時彦。白髪の無精髭に、煙草の痕跡が染みついた作務衣。彼は、璃空の左目を一瞥すると、小さく頷いた。
「見えたようだな。あれの深層が。」
璃空は無言のまま、持参した写しを広げた。「貸魂帳」と呼ばれる古文書のコピー、その縁に刻まれた奇妙な楔形記号を、瀬名は見逃さなかった。
「……これはね、制度の痕跡だよ。」
彼の声は静かだったが、確信を含んでいた。
「制度?」
璃空は訊き返した。
「忘れてはいけない。神話ってのは、かつて存在した社会構造の名残なんだ。たとえば石板と呼ばれるもの。あれはただの聖遺物なんかじゃない。明確な記憶管理と魂貸借の契約台帳。つまり法だ。」
瀬名は背後の書棚から、革装丁の古文書を取り出した。そこには、文字とも記号ともつかぬ文様が並び、中心にはこう記されていた。
印主は、返還なき魂を保持してはならず。
璃空の心臓がひとつ脈打った。自分の左目が、まるでこの言葉に呼応したように疼いた。
「貸魂とは、魂の一時預かり契約だった。問題は、返さなかった者がいたということ。この名前だよ。」
瀬名が示したのは、文書末尾に走り書きされた英字だった。
MIZUKI
「……この名、昔どこかで見た文献にあった。いや、正確に言えば印契期における、最初の破綻記録だったと思う。」
璃空は目を細めた。その名は、自分の祖母、八重の旧姓だった。
「印契期って、なんですか?」
「魂と肉体の使用権を巡る、黎明期の契約時代のことさ。印が魂の貸借証明として使われていた――記憶じゃない、魂のシリアル番号としてね。」
瀬名は最後に、薄く笑った。
「君がそれを継いでいるのなら、次に起こることも……覚悟しておきな。」




