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大地と深海の巻 〜記憶と重力の系譜〜

璃空りく6歳の秋。


午後の光が、古びた障子越しに静かに差し込んでいた。


「ばあば、かいてもいい?」


璃空は、いつものように祖母、八重の家の奥座敷に転がっていた。畳の匂いと、夏の終わりを告げる蝉の声が重なる。その手には、大人びた集中を宿す鉛筆。


八重は微笑む。


「いいよ。好きに描きなさい」


璃空は白い画用紙に、何かを見ているかのように線を走らせた。ためらいもなく、まるで記憶をなぞるように。描かれたものは、幾何学模様にも似た、不自然に裂けた輪の構造だった。


中心には三重の渦。その周囲を囲むのは、無数の点線。そして裂け目。まるで、それが何か大きな器の破損を示しているように見えた。


「これは……なにを描いたの?」


八重の声に、璃空はきょとんとしながら答える。


「……わからない。でも、ゆめのなかで、これがひとのたましいって言ってた」


「誰が?」


璃空はふと、障子の向こうを見つめた。誰もいない庭を。だが、その目には何かがいたように揺れている。


「しろいひと。こわくない。やさしいけど、さびしそうだった」


八重は静かに、手元の絵を見つめる。言葉をなくしたまま。その絵に描かれていたのは、かつて契約の石板に刻まれていた図形に酷似していたからだ。


(……やはり、この子は……)


11歳の夏。


長野県、諏訪の山間部にある、水城家の裏山に続く夢見渓ゆめみだにと呼ばれる小道。夕暮れ時、初夏。蝉の鳴き声が遠くで震える。


璃空は、その日も一人で裏山を歩いていた。


祖母の八重から「夢を見るには山の気を吸いなさい」と言われたからでもあるが、それ以上に、あの渓谷には説明のつかない懐かしさがあった。


苔むした岩を伝って、小さな沢を跨いだときだった。耳の奥が、突然ざわっと泡立つように振動した。

視界が歪み、頭の中に痛みが流れ込んできた。


女の子が泣いている。


声がしない。なのに、その涙だけが、こちらの胸を締めつける。ありがとうとやめてが、同じ重さで混ざっている。璃空は、自分がなぜ泣いているのかわからなかった。視界が元に戻ったとき、彼の頬には確かに涙の痕が残っていた。


その夜、彼は、泣いている少女の夢を見る。


顔はぼやけているが、首に黒曜石のペンダントがぶら下がっていた。目が覚めたとき、璃空は気づいた。その涙は、自分の感情ではなかった。


だが、その異物感は不快ではなく、むしろ不思議なほど、内側に収まりが良かった。まるでそれが、元から自分の中にいたかのように。


18歳の冬。


薄明かりの灯籠が、障子にゆらゆらと影を落としていた。静けさが、やけに深い。遠くの山に吠える狐の声さえも、夢のように遠のいていた。


「……ほんとうに、やるのかい」


八重の声が、低く、どこか悲しみに濡れていた。


「このままじゃ、僕は僕じゃなくなる気がするんだ」


璃空は静かに正座し、目を閉じる。枕元には、黒曜石でできた小さな夢見の鏡が置かれていた。一族にだけ伝わる、精神遡行を補助する媒介具。手に取ると、鏡の奥で淡く渦巻く光が灯る。


八重はその傍らで、古語を口ずさんでいた。


「十界の綾を越えしとき、よすがは還りて、結び直されん」


璃空は深く息を吸い、黒曜石の表面に指を触れた瞬間、その場に倒れ込んだ。


水面のような虚空に、ひとつ、またひとつ、記憶が泡のように浮かびあがっては消えていく。


璃空は自分であって自分でない何者かの身体にいた。老女の手が、血塗られた石板に刻まれる契約文に触れている。名も知らぬ男の眼が、夢の中で神と目を合わせている。まるで一族全体の過去に接続されているような連続映像。それは彼の意識を横滑りさせていく。


そして、ある断面で、明確な裂け目が見えた。


汝、その誓約を破るのか


声が、魂の奥に突き刺さる。次の瞬間、裂け目の中から現れたのは、祖母八重の若き日の姿だった。だが、その眼には彼女ではないもうひとつの存在が宿っていた。


「どうして……ばあちゃんが、ここに?」


八重は、振り返ることなく答える。


「私は、輪廻を信じなかった。だから、正統な魂は、あなたに継がれたの」


璃空はその言葉の意味を理解できずにいた。次の瞬間、意識が断ち切られるように、白い閃光が夢全体を包み込み、彼は畳の上で激しく息を呑んで目を覚ました。


額には汗。口内は渇き、心臓がまだ速く打っている。


「……全部、見たよ。ばあちゃん」


八重は何も言わずに微笑む。その眼差しは、どこか安堵しているようにも、別れを告げるようにも見えた。


「お前は、二度と裂けないように生まれたんだよ」


23歳の春。


東京・神楽坂にある古書蒐集家の一軒家。明治期の蔵を改装したような古い建築で、蔵の奥には異様に冷えた密室がある。璃空は、大学院の研究テーマである「文化遺伝の痕跡言語」を追っていた過程で、記憶と所有の契約書に関する口承伝承を調べていた。


その日、彼はある文献に導かれ、神楽坂の路地裏にひっそりと佇む幻書堂を訪れた。中に入ると、天井近くまで積み上がった古書の山。紙の香り、微かに黴びたような空気。そして、奥から現れたのは、鶴のように痩せた老主人。


「……お前さん、冥王星の徴があるな。」


主人の目が璃空の左目に注がれた瞬間、空気が変わった。


「お前に見せる本がある。だが、触れるなよ。読んだことをなかったことにできる者だけが、これを記憶に入れて良い。」


そう言って、主人は漆塗りの小箱を開けた。中から現れたのは、和紙を幾重にも重ねて綴じられた帳面。表紙には、筆文字でこう書かれていた。


貸魂帳かしこんちょう


そこには、「誰が、いつ、誰に、貸したか」が記されていた。だが、それは金銭や物ではない。


「魂だよ。部分的に、あるいは一時的に。感情や記憶を他者に貸す。あるいは、奪う。封印して預ける。それを、この国の一部では古の昔から帳面で管理してきたんだ。」


璃空はその場で、自分の記憶の中にあるいくつかの感情が、他人のものかもしれないという直感に襲われた。


老主人は言った。


「帳面に書かれてる限り、それは歴史になる。ただし、貸し借りのまま終わった魂は、誰にも返らぬ。お前は、どっちだ?」


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