08.魔法使いと首都(2/3)
まずいかも、と思ったのは、路地裏に入って角を一個曲がったときだった。
石畳や壁の色がどんよりとした鼠色に変わり、昼間なのに薄らと暗く、いやにひんやりとしている。
でも、必死に走るユヅキ君を止めるのは憚られ、私は走り続けた。
「シヅ!」
咎めるように叫びながらも、マリカは追ってきてくれた。
もう一つ角を曲がって、ああ、マリカに呼び止められた時点で足を止めていれば、と後悔した。
薄暗い路地裏で、ユヅキ君が足を止める。
狭い通路を塞ぐように、三人組の人間が立っていた。かなり人相が悪い。
咄嗟にマリカが私の手を掴み、来た道を引き返そうとして、足が止まる。
「グルル」と喉を鳴らし、退路を塞いでいたのは――
「魔狼……!?」
首都に魔狼がいるだなんて!
普通、人里離れたところに巣があるのに。
その上この魔狼たち、私たちに狙いを定めている。
もしかして、この人間たちが魔狼を飼い慣らしている……?
いや、そんな強そうには見えない。
「運がなかったなあ、お嬢ちゃんたち」
「俺たちだって手荒な真似はしたくないんだぜ?」
「おとなしくついて来てくれるよなあ?」
人間たちは下卑た笑みを浮かべて、口々にそう言った。
気色悪い……!
それに子どもまで標的にするなんて、許せない。
――こんな奴らに、無抵抗で捕まるなんて癪だ。
そう思った私は、外套に忍ばせておいた短刀を抜いた。
この短刀は成人の際に父からもらったものだ。
「外套に護身用の短刀を仕込むのは常識だ」と父が言うから半信半疑で忍ばせていたけれど、まさか役に立つ日が来るなんて。
しかも戦場じゃなくて首都で。
ちらちらと光る刃先に、魔狼は警戒していて動かない。
人間たちもびっくりして固まっている。
まさか抵抗されるなんて思ってなかったんだろう。
さて、この場の全員が動きを止めたところで――……どうしよう!?
私、鳥を捌くのがせいぜいで、魔狼を狩ったことなんてない。
人間に刃を向けるのだって、これが初めてだ。
これからどう動いたらいいんだろう!?
適当に突っ込む? 突っ込んじゃう!?
ぎゅっと短刀を握り締めたそのときだ。
冷たい風が肌を刺すような気配がした。
「シヅ!」「マリカ!」
「お母様!」
私とマリカの声が重なる。
魔狼の向こうに見えるのは、私の母と、マリカのお母様――黒陽子爵夫人だ。
普段は凛と佇む私の母と、柔和に微笑む黒陽子爵夫人が、今は揃って鬼気迫る表情をしていた。
母が胸の前でギュッと拳を握った。
「ギャッ」と短い声を上げ、魔狼がその場にどさりと倒れた。
魔狼の口から、どくどくと血が流れていく。
母の魔法だ。一瞬で片が付いてしまった。
あまりの手際の良さに呆然としていると、母が私を、黒陽子爵夫人がマリカを、ぎゅうっと抱き締めた。
同時に私の鼻孔をくすぐったのは、馴染みのある母の香りだ。
甘やかで品のある、木蓮のような香り。
「商業区に行ったって寮で聞いて探しに来てみたら……。怖かったわね。怪我はない?」
「はい、お母様」
頭を撫でる母の手が震えている。
ああ、母に心配をかけてしまった。
申し訳なさでいっぱいになって、でも今は、肺を満たすほどの母の香りがとても心地いい。
母にぎゅうっと抱きついて、しばらく母の温もりに包まれた。
「ひっ……」と、人間の情けない声が耳に届く。
ああ、逃げてなかったんだ。
そう思いながら振り返ると、その理由が分かった。
人間の前に、父と、マリカのお父様――黒陽子爵が立ちはだかっていた。
父は苛烈な眼差しで、黒陽子爵は氷のように冷たい目で、人間たちを睨みつけている。
その威圧感に、私まで息を呑んだ。
「ちっ」と舌打ちをして、父が片手を素早く横一文字に切る。
その途端、人間たちはその場に膝から崩れ落ちた。
血も出ていないし、胸が上下しているから、気絶しているだけみたい。
さらに黒陽子爵の指が優雅に宙を舞う。
すると、倒れた人間たちが箒で掃除するように魔法で一か所にまとめ上げられ、おまけに魔法で作った縄のようなもので一纏めに縛り上げられた。
終わった。
父と母が来てから、あっという間に。
魔法ってなんて便利なんだろう。
私も魔法が使えたら、父と母の手を煩わせることなんてなかったのに。
弱い自分が歯がゆくて堪らない。
父が私に駆け寄ってくる。
怒られるかな、と思った。
だって、元はと言えば私が観光に行こうなんて呑気なことを考えたからだ。
それに、人間相手に何もできなかった。
失望されると思うと、顔を上げられなかった。
「怪我はないか?」
目いっぱい気遣わしげな声に、思わず顔を上げた。
いつもの威厳はどこへやら、今は突けば涙が溢れ出しそうなくらい沈痛な面持ちをしている。
「……はい、怪我はありません」
「そうか、怖かったな」
父が私の頭を撫でる。
十年間、私を撫でてくれた無骨な手で、優しく、何度も。
いつものことなのに、泣きそうになった。
でももう大人だからと、必死で涙を堪える。
「おとうさま、おかあさま、ありがとう。ごめんなさい」
震える声で拙く言葉を紡いだら、今度は父が私を抱き締めて、それから父も母もまた頭を撫でてくれた。
マリカはマリカで、黒陽子爵と子爵夫人にわんわんと泣きついている。
助かったんだ。
ようやくその実感ができて、胸の奥から安堵が込み上げる。
「ところで、その子は誰?」
母が指を差したのは、私の後ろにいるユヅキ君だった。
人間に遭遇してからというもの、ずっと私の外套の裾を握り締めていたのだ。
「ユヅキ君っていって、迷子になってたから一緒にお母さんを探していたんです」
上目遣いで母を見つめるユヅキ君が恥ずかしそうに私の外套に顔を埋める。
ユヅキ君も無傷でよかった。
私はそのつむじを優しく撫でた。
「そう、シヅもマリカ嬢も優しい子ね」
母はしゃがみ込み、私の外套を握るユヅキ君の手を取ると、にっこりと笑って言った。
「で、どういうつもり?」
驚くほど冷たい母の声に、私はユヅキ君を撫でるのをやめた。
「誤魔化せると思った? お前が魔狼を操っていたことぐらい、私たちはお見通しよ」
気付けば、父も母も、黒陽子爵も子爵夫人も、殺意と緊張感を孕んだ目でじっとユヅキ君を見つめている。
母の手を払いのけたユヅキ君は――不敵に、ニヤリと笑った。
ぞっと悪寒が走る。
母は私を抱き寄せて、ユヅキ君から距離を取った。
「あーあ、バレちゃった」
ユヅキ君がそう言ったとき、父の腕が横一文字に空を切る。
ひゅっ、と風を切る音がした直後、ガツン、と大きな衝撃音が響く。
「ちっ」「あははっ」
父の舌打ちと、ユヅキ君の声が重なる。
父の攻撃を防いだの?
ユヅキ君が、魔法で?
父から漂う殺気は、轟々と燃え盛る炎のよう。
訓練でも魔物退治でも、私はこんな父を見たことがない。
でもユヅキ君は笑っていた。
「そんなの、喰らうわけないだろ」
ユヅキ君はパチンと指を鳴らした。
その瞬間、圧倒的な存在感がこの場を満たしていく。
魔力だ。
でも、こんなにも全身に重くのしかかるような、息苦しいほど濃密な魔力を感じたのは初めてだった。
私は母の腕の中で震えていた。
恐怖もある。
でもそれ以上に、ユヅキ君が放った魔力が身体に張り付き、うねうねと虫が這うような、気色の悪い感覚に襲われていた。
身体中を掻き毟りたい!
でも我慢だ。動いたら母に迷惑をかけてしまう。
母も同じおぞましさに晒されているんだろうか。
父はこんな状態で戦えるんだろうか。
もう一度ユヅキ君が、パチン、と指を鳴らす。
するとユヅキ君の周りに真っ黒な煙がもくもくと湧き出て、そこから魔狼が二体、這い出してきた。
転送魔法!? こんな子どもが……?
「遊んでおいで」
パチン、と乾いた音が響くと、魔狼が一斉に飛びかかってきた。
父と黒陽子爵は、一度深く息を吸い込むと、流れるように外套の内から短刀を引き抜き、身構える。
魔狼の動きを素早く躱し、短刀でずぶりと魔狼の胸を貫けば、びくりと震え、ぐったりと動かなくなった。
なんて勇ましい。かっこいい。強い……!
そして父と黒陽子爵が、ユヅキ君へと素早く距離を詰める。
黒陽子爵の斬り上げにユヅキ君はさっと空中へ逃げる。
が、そこには父が待ち構えていて、ユヅキ君めがけて素早く短刀を振るった。
首筋を掠めたその一撃に、ユヅキ君は忌々しげに顔を顰める。
その表情は魔力と同じく、あまりに醜悪で、予感が確信に変わる。
ユヅキ君は――ユヅキは、子どもの姿に化けた大人だと。
着地した父は、悔し気に歯を食いしばっていた。
さっきの一撃が浅かったせいだろう。
一方、ユヅキはもっと高く浮き上がった。
屋根を通り越し、大木を越すほどの高さから私たちを見下ろす。
ユヅキはニヤリと唇を吊り上げ、また指を鳴らそうとしていた。
――そのとき、唐突に耳元で声がした。
『目を閉じて』
そのくぐもった声の通り、私は目を閉じる。
同時にぞわりと全身が粟立つ。
巨大な雷雲が渦巻くような、暗くて黒くて空恐ろしい魔力の気配がした。
目を瞑り続けることも怖かったけれど、ぎゅっ、と母が私を抱きしめる力が強くなり、私の顔が母の胸に埋まる。
視界は完全に遮られ、鼻腔は木蓮の匂いでいっぱいになった。
そして、耳だけが状況を捉える。
まず、びゅっ、と風を切るような音がして、間を置かず、ドン、という大木を斧で打ち付けたような音と、ぐちゃ、という果物を潰したような音が混じって聞こえた。
「あ?」という短い声がして、げぼっと嘔吐するような音に遅れて、びちゃりと何かが落ちてきた。
……これは、父が魔法で魔物を仕留めたときに聞いたことがある。
切断魔法が風を切り、骨肉を断ち、臓物がひしゃげ、状況を理解していない間抜けな声と、血を地面にぶちまける、一連の音。
でも、さっき魔物は全部いなくなってしまったから、この音はつまり……。
母の胸の中で固まっていると、また声が聞こえた。
『浅かった……!』
この声を私が聞き間違えるはずがない。
シロウ様だ。
私の知る声より随分冷たいのは、通信魔法で声がくぐもって聞こえるせいだ。
『子爵、私は奴を追いますので、彼女たちを』
「分かった」と父が応じた。
ユヅキ、逃げたんだ。
あんなすごい音がしていたけれど、致命傷にはならなかったんだ。
それをシロウ様が追いかけようとしている。
私は急いで母の胸から顔を上げ、大声で叫んだ。
「シロウ様! お気を付けて……!」
相手は父が苦戦するほど強い魔法使いだから、と言いたかったのに、思ったように呼吸ができず声にならない。もどかしい。
『ありがとう』
いつもの優しい声音のあと、ぶつん、と通信魔法が途絶えた。
その後間もなく商業区の警備隊がやって来て、気を失った人間たちを回収して行った。
どうやら予めシロウ様が手配してくれていたみたいだった。
それから私もマリカもそれぞれ聴取を受けたけれど、二、三の質問のあとすぐに中断され、そのまま解放された。
なんでも、捕らえた人間たちの記憶を覗いて事実確認をしてくれるらしい。
魔法ってとても便利だなあ。
……恐ろしい記憶を掘り起こさずに済んでよかった、とこっそり胸を撫で下ろした。




