16.魔法使いと春花侯爵令息(2/3)
噂を聞いた次の日、魔力解析のためにいつもより早めに第五実習室へ向かった。
「おはようございます、シヅさん」
「おはようございます、ツバキ先輩。今日もよろしくお願いします」
ミチル先生はまだ来ておらず、ツバキ先輩が迎え入れてくださった。
いつも通りの穏やかな笑みに、少しだけほっとする。
そして、ツバキ先輩が扉を閉めてくださる。
パタン、という音を確かに聞いてから、私はツバキ先輩の背に向かって話しかけた。
「ツバキ先輩。例の噂、ご存知ですよね?」
ツバキ先輩の肩がびくりと震えた。
ぎこちなく振り返ったツバキ先輩は気まずそうな顔をして、私に対し深々と頭を下げた。
「春花侯爵家三男、ツバキでございます。この度はご心労をお掛けし、申し訳ございません」
私も、同じく頭を下げる。
「いえ、こちらこそ、申し訳ございません……」
そう。春花侯爵家の御三男とは、他でもないツバキ先輩のことだった。
なぜ分かったのかといえば、昨日の夕食のとき、女子寮のお姉様方にからかわれたからだ。
「ツバキ様とご婚約ですって?」「羨ましいわあ!」「だって毎日逢引きなさってますものね!」
もちろん私は即座に否定した。
「逢引きじゃなくて魔力解析です……」
「あらまあ、うふふ」「そういうことになってるのねえ」
生暖かい笑顔を差し向けられるだけで、お姉様方にはまるで信じてもらえなかった……。
ひとまず、立ち話もなんだからと、椅子に掛けて向かい合う。
「ツバキ先輩は、私が白陰子爵家の者だとご存じだったんですか?」
「ええ、存じ上げておりました」
「いつからです?」
「最初からです。魔力測定に伺い、書類でお名前を拝見したときから」
その言葉に、どこか納得していた。
私は魔法士官学校に入学して、貴族という身分の影響力を知った。
寮でも学校でも、私やマリカがいると、周りのみんなが気を張っているのが分かる。
でもツバキ先輩の眼差しには、憧憬や羨望もなければ、侮蔑も軽視もない。
ツバキ先輩の前では、私は、いち後輩でいられる。
それがどんなにありがたいことか。
だからこそ、とんでもない噂が立ってしまって、土下座したい気持ちだ。
「どうしてこんな……私がツバキ先輩の婚約者だなんて噂が流れているんでしょう?」
侯爵家というのは雲の上の存在だ。
辺境子爵家の養子が、おいそれと婚約を結べるような相手ではない。
そもそも白陰領は冬雪州の一部で、春花州とは縁もゆかりもない。
それなのに、春花侯爵家の御令息との婚約だなんて。
「私なんかが侯爵家に関わるなんて、なんて罰当たりな……」
そんな私の呟きにツバキ先輩は首を傾げる。
「でも、シヅさんの本当の婚約者様は、侯爵令息なのでしょう?」
なんで知ってるんですか!? と叫びそうになって飲み込んだ。
でも、全部ばっちり顔に出てしまっていたらしい。
「先日縁談を申し込んだところ、そのように断られたと父が……」
「ま、待ってください!」
縁談を申し込んだ?
ツバキ先輩のお父様ってことは、春花侯爵が?
「誰の縁談を、誰に?」
「私の縁談を、シヅさんに、申し込みました」
「はい!?」
私は思わず叫んでしまった。
ありえない! いつの間にか侯爵家に縁談を申し込まれていたなんて!
「どうしてツバキ先輩が! 私に! 縁談を申し込んだんです!?」
「それは……当家としても、少々込み入った事情がございまして……」
ここまで穏やかな表情だったツバキ先輩が、急に顔を曇らせる。
それを見て、私はバツが悪くなった。
落ち着こう。
ツバキ先輩を問い詰めたって、状況は変わらないんだから。
「……ええっと、ツバキ先輩が私に縁談を申し込んだから、噂になったんでしょうか?」
「それはございません。縁談の申し入れは書簡で行ったと聞いております」
確かに、それなら当人以外知り得ない。
それなら尚のこと、噂になったのが不思議だ。
「憶測になるのですが、誰かがシヅさんに縁談を申し込み、婚約相手が侯爵令息と知って、……大変烏滸がましいことを申し上げますが、現状から誤解されたのではないかと」
まあ、毎日の魔力解析が逢引きに見えているらしいから、それは仕方がないのかもしれない……。
迂闊だったと反省しつつ、過去を悔いても仕方がない。
大事なのはこれからのことだ。
「今後どうしましょう? と言っても、噂を抑え込むのは難しいですよね」
「その件ですが、シヅさんの婚約者様を公表してはどうでしょうか」
たしかに、それが一番真っ当で、一番確実である。
けれど、それは無理だ。
「すみません、私の婚約者は公表できないんです。その、そういう取り決めで……」
「それでは、噂を地道に否定していきましょう。シヅさんや、シヅさんの婚約者様には不快なお話でしょうから」
「えっ」
たじろぐ私を、ツバキ先輩が不思議そうに見る。
噂を否定したら『私の婚約者は春花侯爵家以外の人です』と言うことと等しい。
そうなると、私の本当の婚約者がシロウ様だと気付かれる確率が上がってしまう。
それは良くない。
……でも、それじゃあ、どうすればいいんだろう?
ツバキ先輩にばかり考えさせて、私がケチをつけるだけなんてダメだ。
私が対案を出さないと!
改めて順に考える。
私はどうしてシロウ様と『偽装婚約』したのか? ――私への縁談を減らすため。
どうして婚約者がシロウ様だと知られてはいけないのか? ――夏炎侯爵に怒られるから。
縁談を減らして、かつ、婚約者がシロウ様だと誰にも気付かれないためには……。
「あっ」
思わず声を上げた私を、ツバキ先輩が身を乗り出して見つめた。
「何か、妙案を思い付きましたか?」
思い付きはした。
でも、妙案ではない。
ツバキ先輩にはこの上なく迷惑で、最悪、軽蔑されるかもしれない案だ。
それでも、言うしかない。
「ええっと……、正直に言いますと、『ツバキ先輩と婚約している』という噂が流れても、私、困らないんです」
ツバキ先輩が驚いて、丸く見開いた目をぱちくりと瞬かせた。
「ですが、シヅさんの婚約者様のお耳に入ると宜しくないでしょう?」
「婚約者には、私から事情をお伝えすれば納得してもらえる、はずです。それより本当の婚約者が公になるほうが困るんです」
シロウ様が一番嫌がるのは、私の『偽装婚約』相手がシロウ様だとバレてしまうこと。
だからきっと、事情を話せば分かってくださる。
ただ、ツバキ先輩がどう思うかは分からない。
ツバキ先輩の反応をドキドキしながら伺う。
怖くて顔が上げられない。
視界の端に映るツバキ先輩の唇がゆっくりと動き出し、私は固唾を飲んだ。
「正直に申しますと、私も、何ら問題がないのです」
予想外の答えに、私は顔を上げた。
ツバキ先輩は真剣な眼差しで私を見つめている。
嘘や慰めの言葉ではない。
「でも、ツバキ先輩のご婚姻に差し障りませんか? ご婚約者がいるならきっと不安に思うでしょうし……」
「いえ、私は生涯において結婚するつもりはございませんから。……それより――」
こんなに心苦しそうなツバキ先輩を見るのは初めてで、私は自分の手をぎゅっと握りしめた。
「実は最近、縁談の申し入れが多く困っておりまして」
あれ?
その言葉、つい最近聞いた覚えがある。
「へ、へえ……?」
私はぎこちなく相槌を打ちつつ、右に左に目が泳ぐ。
俯くツバキ先輩は、私の挙動不審な様子に気付いていない。
「侯爵令息ともなると、縁談の数も多そうですねえ……」
「侯爵家ですから、仕方のないことです。しかし、いくらお断りをしても、相手方が粘り強く、これ以上は勉学に差し障りそうでして……」
「そ、それは大変ですねえ……」
もしかして、カマをかけられてる?
でも、ツバキ先輩の切々とした声からは、嘘をついているだとか、私の様子を窺っているとは思えない。
侯爵家も大変なんだなあ、とツバキ先輩のことを気の毒に思った。
「そこで……、シヅさんにお願いがあるのですが」
その声で視線を正面へ戻すと、ツバキ先輩は何かを決心したかのような強い眼差しで、私を真っ直ぐに見据えていた。
……なぜか、すごく嫌な予感がする。
「もし本当に何も支障がないのでしたら、私と婚約したことにしていただけませんでしょうか?」
「えっ」
呆気にとられて、言葉を失う。
婚約したことにして、って、つまり――
「それは……、『偽装婚約』ってこと、ですか……?」
「『偽装婚約』……。仰る通りですね」
その言葉を口にしたツバキ先輩は、神妙な顔をしていた。
「私は縁談を減らしたい。シヅさんは婚約者様を隠したい。……どうでしょう? 相互利益のあるお話だと思うのですが」
ツバキ先輩の表情は、真剣そのもの。からかっている様子など微塵も感じられない。
……私、婚約するんだ。
シロウ様と『偽装婚約』しているのに?
ツバキ先輩とも『偽装婚約』するの!?




