まことしやかな噂と、現実の破壊力
「……マジで崩れたな。ほんとに、噂だけで崩れたぞ、あいつら……」
ゼイルが火のそばに腰を下ろしながら、ぽかんと呟いた。
敵軍が撤退を始めたのは、こちらがまともな攻撃に入る前だった。
夜明け前に動いた前衛の小隊が霧の中で雷撃を放ったところまでは予定どおり。
だが、それだけで、敵軍は“撤退”ではなく、半壊状態で潰走した。
「おれらの雷、ひとつも当たってないのにな……」
「うむ。仕掛けた罠も、半分は通らなかったな。霧が濃すぎて」
ガロットは鉄器を傾けて酒をすすりながら笑っていた。
その横で、セレンは珍しく口元を緩めていた。
肩にかかる銀髪を払いながら、呆れたように呟く。
「……まさか本当に、噂だけで敵が壊滅するとはな」
ゼイルとガロットが顔を見合わせ、思わず笑った。
「いや、それ、こっちの台詞……!」
「将軍自ら、他人事みたいに言わないでくれや」
ガロットがゲラゲラと声を上げたとき、傍らの伝令魔法陣が淡く光を放った。
「お、また連絡か。どうせ第一軍の爺様だろ」
ゼイルが身を乗り出し、セレンは静かに指を鳴らして通信を繋ぐ。
現れたのは、第一軍団長――老将ヴォルテス・カランドールだった。
地図を背にして座るその姿はいつもどおりだが、何やら額を押さえている。
「……セレンか。まったく、そちらでは一体なにをしているんだ。噂ひとつで敵軍が壊滅したなど、前代未聞だぞ」
「意図したわけではない。誤算だった」
珍しく眉を下げて肩をすくめるセレンに、老将は一瞬ぽかんとし、次いで笑い出した。
「いや、まったくだ。お前が『誤算』などと言うのは珍しい。だが……まぁ、いい。将の噂だけで敵が逃げるのは、実力が伴っていればこその話だ」
「……計算しづらい」
セレンは静かにそう呟き、傍でゼイルとガロットが笑いをこらえた。
「さて、それより伝えておこう。中央でも正式に“死神将軍”の呼び名が通達された。貴様の名声も地に落ちることは当分なさそうだな」
「ありがたいような、ありがたくないような……」
セレンの唇が一瞬だけ皮肉げにゆるんだ。
「それから、お前の依頼していた師団長の装備だが、既にそちらへ向けて送った」
「助かる。二人とも使えるが、服装だけは間に合っていなかった」
「おい」
「やめろよ、聞こえてるぞ」
ゼイルとガロットが同時に抗議するが、セレンは一顧だにせず、淡々と話を続けた。
通信が切れると、しばらくして野営地のあちこちから笑い声があがった。
「なあ、噂ってほんとに効果あるんだな……」
「死神将軍の“白い手”とか、みんな信じて逃げたらしいぞ?」
「セレン様、すげえ……噂だけで敵を倒す将なんて他にいないだろ」
「いやでも、雷落としたのゼイル団長だからな。あれ見て逃げたやつもいるって」
「……セレン様、怖くないのにな」
「優しいよな!いっつも声かけてくれるしよ!」
「俺!オレオレ、名前呼ばれた!」
「ばぁか、あの人みんなの名前覚えてるぜ」
「おれ、あの人に弁当もらったことあるぞ。ちょっと塩気強かったけど」
「そこかよ!」
わいわいと盛り上がる兵たちを遠巻きに眺めながら、ゼイルは小さく笑った。
「……まぁ、嬉しいっちゃ嬉しいけどさ。噂で勝つなんて、将の仕事としてはどうなんだろうな」
「俺はいいと思うぜ。あんたが斬って、セレンが怖がられて、俺が守る。そういう配置だろ?」
ガロットが酒を煽りながらそう言って、ゼイルの肩を叩いた。
「……ま、結果オーライか」
火の粉が空に舞い上がる。
その上空で、静かに月が光っていた。
誰もが口にこそ出さなかったが、確信していた。
──この軍は、もう敗けない。
どれだけ敵が攻め込んできても、この“死神将軍”と、その「手」がいる限り。
それだけで、兵たちは背筋を伸ばし、剣を握る覚悟ができていた。