白い手の現る夜
「……この霧の中、奴らの本陣を叩けば、形勢はこっちのもんだ」
敵将の一人が声を潜めて言う。
西の王国に仕える中将、グラト。
若き王子に付き従う忠実な副将だが、その目の奥には、この戦の異様さに対する動揺が見え隠れしていた。
「だが、中将……その、噂は……」
参謀役の男が声を潜める。すでに十名以上の斥候が戻っていない。
「“白い手”が、夜霧の中で動いていたと。あれを見た者は、皆……」
「くだらん。戦場に怪異など存在しない。あれは情報戦だ。噂に踊らされるとは、士官として恥を知れ」
そう言い放つグラトだが、その手には冷たい汗がにじんでいた。
夜霧の中で、静かに崩れた斥候部隊の報告。
全員の喉が掻き切られ、声を上げる間もなかったという。
その痕跡すら残されず、ただ地面に白い灰のような印が残っていたと。
(そんなはずが……魔法か、罠か、それとも……)
グラトは唇を噛んだ。
「全軍、静粛に。接近は山の稜線に沿って行う。死神将軍とやらの噂に屈してはならん」
その時だった。
──ひゅう、と霧を切る風の音がした。
風に乗って、妙な音が届いてくる。音とも言えぬ、低い響き……。
「鐘の音か?」
誰かが呟いた。だが、その音は鐘ではなかった。
それは、魔力が集束し、大気を震わせる時にだけ聞こえる異音。
「っ──伏せろ!」
刹那、丘の上から轟く雷撃が放たれた。
一瞬で前線の左翼が焼き払われ、煙が立ち昇る。
続けざまに、弓矢が霧を切って降り注ぎ、悲鳴が響いた。
「罠だ!引け、いったん態勢を──!」
誰かが叫ぶ。だが、それを遮るように、黒煙の向こうから“それ”が現れた。
──白。
全身を覆う軍装の白。夜目にも浮かぶような淡い銀髪。
手には一振りの短杖と、輝く魔導具。
霧の中に、静かに歩み出るその姿を見て、兵たちは息を呑んだ。
「あれが……!」
「“白い手”だ……死神将軍!」
誰かが叫ぶ。
その声が引き金となった。
「いやだ……無理だ、あんなのが敵にいたら勝てるわけが……」
「斥候が消えたのは、あの手のせいか……?」
「死にたくねえ……!」
列が乱れた。最前列の一角が崩れ、その動揺が一気に後方へ波及する。
兵の一人が盾を投げ出し、背を向けて走り出した。
「おい、止まれッ、戻れッ!」
叫ぶ副官の声も空しく、次々に兵が動揺を見せる。
前線が瓦解しかける。
「落ち着け!あれは一人の魔術師にすぎん!」
グラトが叫ぶが、誰一人彼の方を見ていなかった。
霧の向こう、白き影の隣には、雷をまとった剣士と、大剣を担ぐ巨躯の男が現れた。
雷が地を穿ち、炎が舞い、大地が揺れる。
あまりにも鮮やかで、あまりにも絶望的な、三つの影。
「……あの三人が“死神の騎行”……だと……?」
呆然と呟いた若い士官の顔が、恐怖に凍りついた。
この日、敵軍は本格的な接触を前にして、前衛の半数を失い、戦意を喪失した。
その報告を受けた西の王子は、苦々しげに舌打ちを漏らしたという。
「やはりあの女を放っておくべきではなかった……」
そうして彼は、自ら前線に立つことを決意する。
だがそれは、すでに“死神将軍”の手のひらの上だった。