白き手の噂 ― 王国軍側の視点
「──“白い手”って……セレンの?」
ガロットが焚き火の鍋をかき混ぜながら言った。
焚き火の周囲にはいつものように、ゼイルとガロット。そして、鍋の蒸気を少し避けた位置に、セレンがいる。膝の上には地図と書類の束。冷たい夜風が吹き、火の明かりがそれらをちらつかせた。
「どうやら、敵の若い兵士の間で流行ってるらしい。将校が怖気づいてる始末だとよ」
ゼイルが皮袋の水を飲みながら、眉を上げた。
「おいおい。まさか手で人を殺すとか……? 触れたら即死、なんてか?」
「らしいな。ついでに、髪が白いのも“血を吸った証”とか言われてるってよ」
「ハッ、なんだそりゃ。吸血鬼じゃあるまいし」
ガロットが笑ったが、ゼイルはちらと視線をセレンに向けた。
彼女は沈黙していた。地図の一点をじっと見つめたまま、金の瞳に微かな陰を落として。
「……知っていた。今朝、報告に入っていた。西方偵察隊からの文書にも記されていた」
ようやくセレンが口を開いた。
「“死神将軍の手に触れた兵は、傷ひとつなく死んでいる”と」
「まあ、噂ってのは大げさになるもんだ。なに、勝ってる証拠さ」
ゼイルが軽く肩をすくめてみせたが、セレンの視線は真っ直ぐだった。
「私の戦術が、“兵がいつ、どう死ぬか”を見透かしているように見えるのだろう。実際、そうでなければ勝てなかった。だが──」
セレンは僅かに唇を噛んだ。
「“死神”の称号が広まりすぎると、逆効果になる。兵たちの士気が過度に揺れる。味方であれ、敵であれ」
「……確かに。敵が怖気づく分にはいいが、こっちの兵まで距離を置きかねん」
「今はお前と打ち解けた兵も多いが、最初はびびってた奴もいたからな」
「問題は……」
セレンの声が低くなった。
「彼らが、私の“指揮の精度”ではなく、“呪い”だと受け取っていることだ。そうなれば、こちらの意図とは無関係に、心理戦として動いてしまう」
「……つまり?」
ゼイルが問いかけると、セレンは地図の上の一点を指で押さえながら言った。
「“白い手”の噂を逆用する。敵が怯え、幻を見るのなら、それを利用する。たとえば、わざと目立つ位置に私を配置する。兵士は幻を見るだろう。“あの手が見えた”と。そうして陣を崩す」
「……」
「怖いな。お前が本当に“呪い”になろうとするとは思わなかった」
ガロットが目を細めて呟いた。
「私を怖がらせるのは戦術の一部。だが、味方まで誤認するのは困る。兵にはきちんと説明する。私は指揮官で、魔術師で、戦術家で、兵を“生かすため”に動いている」
「へえ、セレンが“自分の説明”なんてするなんてな」
「誤解されたまま利用されるのは不本意だからな。だが──」
そこで、セレンはゼイルを見た。
「……死神でも、何でも構わない。勝つためならば」
その言葉には、澱みも、迷いもなかった。
一瞬、ゼイルが口を開きかけて、閉じた。
その目に浮かんだのは、理解と、そしてほんの少しの痛みだった。
その翌日。
王都から新たに到着した補給部隊の中に、数名、セレンの過去の部隊に所属していた兵が混じっていた。
そのうちのひとりが、噂の話を聞きつけ、つぶやいた。
「ああ……あいつはな、マジで兵をコマだと思ってる。人間扱いなんて、してないよ。あれは感情がない。“将”じゃない、ただの機械だ」
その場に居合わせた元から第3軍にいた兵たちが、顔をしかめる。だが、口を開いたのはガロットだった。
「へぇ。青臭いな、おまえ」
その声に、元部下の兵がぎょっと振り返る。
「兵を“コマ”として扱えない将なんざ、戦場にはいらねえよ。感情で采配振るってたら、そりゃ将じゃなくて、博打打ちだ」
ゼイルが、皮袋の水をひとくち飲んでから言った。
「気に入られたい将に従って、生きて帰れるか? 死ぬぞ。俺はまっぴらだね」
「……っ!」
元部下の兵は真っ赤になって口を開きかけたが、周囲の第3軍の兵たちが一様に冷ややかな視線を向けているのを見て、何も言えなくなった。
その光景を、少し離れた高所から見ていたセレンは、わずかに眉をひそめた。
そして呟いた。
「……噂の“白い手”か」
指をひとつ折る。
それだけで、戦場の形が変わる。
その怖さを、彼らは知ることになる。
それでも。
「私の手は、命を奪うためのものではない。勝利のために使うものだ」
それを、いつか全ての兵たちが理解してくれる日が来るのだろうかと。
ひどく遠い夢を見るように、セレンは夜の風の中で立ち尽くした。