怪談:死神将軍の白き手
――夜営地の焚き火を囲む兵たちは、焔の揺れに合わせるように、声を潜めていた。
「……聞いたか、あの話」
「またかよ。やめろ、縁起でもねぇ」
「いや、でもさ。オレの従兄弟、あっちの前線にいたんだ。見たってよ、死神将軍の“手”を」
ざわり、と炎が跳ねる音に紛れて、誰かの息が止まった。
「手?」
「そう、“白い手”だよ。どんな傷を負った奴でも、一度それに触れられたら動かなくなる。死ぬんだ。どんなに遠くにいても、その手は――届くんだってさ」
「……魔法か?」
「さぁな。魔法使いなんだろうけど、見た奴はみんな口を閉ざすって話だ。ただ、“手”が目の前に現れた瞬間、死を悟るんだってよ」
「おいおい、じゃあどうやってその話が伝わってんだよ」
「逃げた奴がいるんだ。指揮官の命令無視して。怖くて、逃げて、それでも生き延びたやつがいる」
「そいつ、処刑されただろ」
「……それでも、話だけは残った」
沈黙が落ちた。
パチ、という焚き火の音がやけに大きく響く。
遠くで鳴いた獣の声に、誰かが無意識に剣の柄を握った。
「くだらん」
唐突に割り込んできたのは、中隊長の声だった。
軍服の襟を正しながら、男は厳しい顔で兵たちを見渡す。
「ただの噂だ。敗残兵の戯れ言を信じるな。怯える者から死んでいく。そんな馬鹿げた話に耳を貸すな」
「……は、はい」
兵たちは頭を垂れたが、その目の奥に漂う恐怖までは消せなかった。
「“死神将軍”とやらの話なら、俺も知ってるさ。白髪に金の目、顔色一つ変えずに千の兵を動かす、王国の准将だろう? だがな、たかが一人の人間だ。夜に出るだの、目を合わせたら死ぬだの、そんな話があるか」
そう言いながらも、中隊長の声には、ほんのわずかに揺れがあった。
その噂は、今や敵軍のあちこちに広まっていた。
「……死神将軍は手を使わない。指を動かすだけで兵が死ぬ」
「目が合えば、もう最後。心臓が止まるってさ」
「彼女の近くで死んだ兵は、綺麗なまま死んでるんだって。傷も、血もなくてな。ただ、冷たくなってるだけなんだ」
「その髪と手には、血が一滴もつかないらしい。だから“死神”って言われてるんだよ」
それを聞いた前線指揮官の一人は、苦々しく唸った。
「……くだらん。だが、気持ちはわかる」
テントの奥、参謀たちの控える軍議の場でも、“死神将軍”の話題は密やかに取り上げられていた。
話題にするのは敗北の予兆かもしれないと、誰も口に出そうとはしなかったが。
「ただ、戦術は異常に冷静だ。あの女……こちらの動きを完全に読んでいる。駆け引きに隙がない。あれは“感情がない”のか?」
「むしろ、“ある”から怖いんだ。情を捨てて戦っている。あれは“勝たなければならない”という信念で動いてる。兵を捨て駒にする将は珍しくないが、あれは……使い切る。全部だ」
「死神の手か……」
誰かが呟いたその言葉を、誰も笑わなかった。
静かに、戦況が傾いていることを皆が感じていた。
だが、それを口にする者は少ない。
恐怖は伝染する。
特に、名前のある恐怖は。
“死神将軍”――セレン・カリス・レオント。
その名が、敵軍の若き兵たちの間では“災厄”のように語られ始めていた。
そして、その災厄の象徴が、彼女の“白い手”だった。
「……なあ、隊長」
「なんだ」
「今夜、前線の補給所を見に行くの、おれ、外しても……」
「……黙れ。死ぬぞ、そういう弱音から死ぬんだ」
「……はい」
そう答える声は、小さく震えていた。
焚き火の灯りが消えると、兵たちはまるで何かを追い払うように、ひとつ、またひとつと剣の手入れを始めた。
まるで、自分の手が“あの白い手”に届くと信じるかのように。