忘れてもまた君に恋をする
◆第一章:白い静寂の中で
森の奥深く、時間から切り離されたような静けさが広がる。屋敷の窓をくぐる風が、白いカーテンをふわりと揺らした。
少女は、静かに目を開ける。
最初に映ったのは、柔らかな陽光に照らされた天井。そして、部屋を包む白と木の香り。誰のものかもわからない天井を見上げながら、彼女は自分の呼吸の音だけを頼りに現実を確認する。
「……目が覚めたのですね」
その声に、少女は首をゆっくりと傾ける。
窓辺に立つ女性がいた。長い銀髪を編み下ろし、水色のローブを纏ったその人は、光を背にしてなお温もりを放っていた。彼女の瞳はやさしい灰色で、吸い込まれそうな深さを湛えている。
「ここは……?」
かすれた声に、女性は微笑んで応えた。
「ここは、森の奥の静かな屋敷。あなたは長い間、眠っていました。……名前は、覚えていますか?」
少女はしばらく沈黙し、そしてぽつりと答えた。
「……リュカ。……名前以外はわからない。」
女性は、小さく頷く。
「大丈夫ですよリュカ。……おかえりなさい」
“おかえり”
その言葉が、妙に胸に残った。
知らないはずの響きなのに、どこか懐かしくて、深く心に染み込む。
少女――リュカは、静かに目を伏せた。
何も知らないはずなのに、この人の声も、気配も、安心できると感じている自分に気づく。
部屋の隅には丸い木のテーブルと椅子。壁には草花を描いたタペストリーがかかっている。窓の外には、揺れる木々の緑。
世界は静かで、やわらかくて、まるで自分の存在を受け入れてくれるようだった。
◆第二章:名前のない懐かしさ
屋敷での生活は、静かで穏やかだった。
目を覚ましてから数日、リュカは身体を慣らすことに専念した。立ち上がるのも、歩くのもままならなかったが、それでも窓の外に見える森の風景が、少しずつ心と体を前へ進めてくれた。
そして、何よりも――彼女がそばにいてくれた。エルシア。
「スープに、少しだけハーブを加えてみました。飲みやすくなると思います」
エルシアは丁寧に器を差し出す。
白磁の縁が手に触れると、リュカは一瞬、懐かしさのような感覚に襲われた。
まるで、何度もこうしてもらったことがあるような――けれど、記憶には残っていない。
彼女の声や手つき、微笑み。
そのすべてが、リュカの胸の奥に静かに波紋を広げていた。
ある日の午後。
エルシアが、編みかけの髪を少しだけ結ぼうとした時、リュカは思わず手を伸ばしていた。
「……ん? どうしました?」
「……私に、やらせて」
エルシアは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに柔らかく笑って背を向けた。
リュカは自然と、彼女の長い髪を三つ編みに整える。指先が髪を滑り、結び目を作る。
なぜだろう。手が覚えている。
それに、この時間が、心地よくてたまらない。
「……あなた、昔も同じように……私の髪を、こうしてくれました」
ぽつりと、エルシアが呟いた。
リュカの指が、わずかに止まる。
「……そうだったの?」
「ええ。……それが、すごく嬉しかったんです。今も同じ気持ち」
その言葉に、リュカの胸がじんわりと熱を持った。
記憶がないのに、心が覚えているような感覚。
この人を大切にしたい、守りたい、そう思う気持ちが、静かに根を張っていく。
◆第三章:夢の中の記憶
眠りの中に、断片的な光景が入り込むようになったのは、目覚めてから一週間が過ぎた頃だった。
リュカは、夜ごとに夢を見る。
剣を手にした自分。背後を守るように誰かに覆いかぶさる自分。炎に包まれた空間、何かを叫ぶ声。
そのすべてが現実のもののように鮮明で、けれど名前も顔も思い出せない。
汗ばむ額で目を覚ますと、枕元にエルシアがいた。
彼女は椅子に腰掛け、寝落ちしているようだった。
そして、リュカの手を、そっと握っていた。
「……無意識に、掴んだのかな?」
リュカは自分の手を見つめる。
ぬくもりを感じるその手を離したくないと思った。
そのまま、そっと握り返す。
目覚める気配に、エルシアが瞬きをした。
「あ……起こしてしまいました?」
「ううん。……ありがとう。隣にいてくれて」
「あなたが、苦しそうな声を出していたから。……怖い夢を見ていたのですね。」
リュカは小さく頷いた。
夢の中で、何度も誰かの名を呼んでいた気がする。けれど、それが誰かは思い出せない。
ただ、胸に残る強い想い。
――守らなきゃ。
それだけは、はっきりしていた。
「誰かを、守りたかった……気がするの」
ぽつりと漏らすと、エルシアの瞳が揺れた。
「その気持ちは、たぶん……とても、大事なものだと思いますよ。」
その夜、リュカはもう一度、彼女の手を握った。
確かに、自分の中で何かが目覚め始めている。
過去か、未来かもわからないけれど――それは、確かに“恋”に似たぬくもりだった。
◆第四章:重なる心
朝の光が、屋敷の庭を優しく照らしていた。
風に揺れる木々の間を、リュカとエルシアが並んで歩いていた。足元に咲く小さな白い花が、ふたりの歩みに合わせて揺れる。
「少し、歩けるようになりましたね」
エルシアの声は、やわらかかった。
「うん……まだふらつくけど、こうして日向を歩けるのは、気持ちいい」
リュカの返事に、エルシアは小さく笑った。
日々は、静かに流れていた。
朝は短い散歩。昼は木漏れ日の中で読書をし、夜は小さな食卓をふたりで囲む。
特別なことは何ひとつない。それでも、心が満たされていく。
「……なんだか、不思議」
ふと、リュカがつぶやいた。
「何がですか?」
「初めての場所で、初めて会うはずの人なのに……あなたの隣が、すごく落ち着くの。知らないはずなのに知ってるような気がする。……それが、ずっと不思議で」
エルシアは少しだけ視線を伏せた。
「それは、きっと……心が覚えているんでしょうね」
「心が?」
「ええ。記憶とは別に心が誰かを想う気持ちは、簡単に消えないものですから」
リュカはエルシアの横顔を見つめた。
その瞳に、どこか悲しげな色がにじんでいるのに気づいて、思わず手を伸ばしそうになる。
けれど、その代わりにこんな言葉がこぼれた。
「……エルシアの声好き。静かであたたかくて。名前を呼ばれると安心する」
エルシアは目を見開き、それからそっと微笑んだ。
「そう……うれしい。あなたの声も私にとってはとても心地良いです」
春のような空気が、ふたりを包む。
その日の午後、エルシアは古い詩集を手に、リュカの隣に座った。ソファの背にもたれながら、ゆっくりと詩を読み上げる声が部屋に満ちる。
「『私はあなたに名前を与えよう。名を呼ぶたび、私の中にあなたが生きるように』……この詩、好きなんです」
「……詩なのに、少し告白みたい」
「ふふ……そうかもしれません」
ふたりの笑い声が重なった。
リュカはその横顔を見ながら、胸の奥に芽生えはじめていた想いに、そっと気づいていく。
たとえ、記憶がすべて消えていても。
この時間とこの人と過ごす毎日が、何よりも愛おしいと感じている自分に。
◆第五章:血と光の夜
それは、突然だった。
夜半、屋敷の空気がざわりと震える。 エルシアが窓辺から外を見やると、森の奥が不気味なほど暗く沈んでいた。風は止まり、鳥の声もなく、まるで森全体が息を潜めているようだった。
「……結界が揺れている?」
結界。リュカを癒すために、エルシアが張り巡らせた結界だ。それが何かに押し返されている。
「リュカ、部屋に――っ」
その言葉が終わるより早く、黒い影が森から飛び出した。
咆哮と共に、獣が現れる。毛並みはざらついた黒。目は血のように赤い。その魔物は、明らかに人間の気配を追ってここまで来た。
エルシアが魔法を放とうと詠唱を始めた、その瞬間――
「エルシア、下がって!」
リュカが飛び出した。
剣など持っていない。けれど、躊躇なく彼女は魔物とエルシアの間に立つ。
鋭い爪が彼女の肩を裂いた。肉を抉る感触。飛び散る血。
エルシアが悲鳴を上げる。
「リュカっ!!」
だが、リュカは倒れなかった。震える足で立ち続け、地に落ちた一本の剣を拾い上げる。それは、彼女の剣だった。記憶を失う前に使っていた、銀の細剣。
「……覚えてない。でも……体が、動く……」
魔物が吠える。リュカは剣を構え、足を前へ出した。
剣が空を切り、魔物の前足を裂いた。 咆哮が夜を裂く。
リュカの体は限界だった。傷からは血が流れ、視界が霞む。
それでも――
「守りたい。それだけ!!」
もう一度、魔物が襲いかかる。 リュカは振りかぶり、全身の力を込めて斬りつけた。
銀の閃光が夜を切り裂き、魔物の喉を貫いた。
しばらくして、静寂が戻る。魔物の巨体が地に崩れ落ちた。
リュカは、その場に膝をついた。
「リュカ……!」
エルシアが駆け寄り、その身体を抱きしめる。彼女の手は震えていた。リュカの肩からは血が流れ、顔色は蒼白だった。
「どうして……どうしてまた、あなたは自分を犠牲にして……っ」
「わからない……でも、君だけは……絶対に、守らなきゃって……」
リュカの声は震えていた。
エルシアの胸が痛んだ。この人は記憶を失っても、何もかも忘れても―― それでもまた自分を守ろうとしてくれる。
「もう……あなたを失いたくない……」
その言葉と共に、涙が頬を伝った。
◆第六章:心が選んだ人
リュカの傷は深かった。肩の裂傷は骨近くにまで達し、出血も多かった。けれど、幸い急所は外れていた。
エルシアは震える手で彼女の傷を癒す魔法を繰り返した。意識を失っていくリュカを、何度も何度も呼び止める。
「お願い……目を覚まして。あなたがいない世界なんて、もう……」
その願いが届いたのか、夜明け前、リュカは瞼をゆっくりと開いた。
「……エルシア……?」
かすれた声。焦点を結びきらない瞳。 けれど、その目が自分を捉えたとき、エルシアは微笑みと涙を同時に浮かべた。
「……よかった……」
リュカは、腕の中の彼女を見つめながら、ふと口を開いた。
「夢を……見てた。剣を握って……誰かを守る夢。……でも、あれ、夢じゃなかったんだね。」
エルシアは、ゆっくりと頷く。
「ええ。あなたは、私を守ってくれたわ。命がけで……」
リュカの目に、うっすらと涙が滲んだ。
「どうしてだろう。思い出せないのに……なのに、心が叫んでた。君を、失いたくないって」
言葉が途切れたその瞬間、リュカは手を伸ばしてエルシアの頬に触れた。
「……たとえ全ての記憶が戻らなくても、私は……君を、好きになった。今この瞬間の私が……本気で君を愛してる」
その告白に、エルシアの肩が震える。 涙が、止められなかった。
「ありがとう……ありがとう、リュカ……私も……何度でも、きっとあなたに恋をするわ」
エルシアは顔を近づけた。 そして、リュカの唇にそっと、自分の唇を重ねた。
それは切なくて、愛しくて、ずっと待ち続けた約束のようなキスだった。
心が選んだ人。たとえ記憶がなくても、魂が彼女を覚えていた。
◆終章:再び、ふたりで
朝の森は静かだった。 霧が晴れ、木々の隙間から金色の光が差し込む。
リュカは、肩をかばいながらゆっくりと歩いていた。その隣に、エルシアがいる。
ふたりの手はそっと握られていた。
「これから……どこへ行こうか」
「どこへでも。あなたがいるなら、どこだって」
笑い合うふたりの姿が、森の奥へと消えていく。
たとえ記憶を失っても、心が彼女を選び続ける。それは、魂が交わした恋の証。
――忘れても、きみに恋をする。それはふたりの愛の物語。