二章 一 規模がデカすぎるやんけ
その晩、俺たちはザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町ホテルにもう一泊した。家族向けの四人で宿泊可能な部屋だ。部屋は贅の極みといった様相で、まるで映画の主人公にでもなった気分になる。天井は高く、窓からは東京の夜景が一望できる。部屋の隅には、まるで美術館のような間接照明が灯っていた。
その分宿泊費は十万越えとなっており、経費でなければ泊まる勇気は無い。天花寺はここまで高級なホテルは初めてなのか、ベッドに飛び込んだりスマホで自撮りしたりしている。その姿は、いつもの冷静な“観測者”とはまるで別人のようだった。
「SNSに投稿はするなよ。うっかり場所を特定されたらしゃれにならん」
俺は念のために釘を刺す。影喰いが因果を辿ってくる可能性を考えれば、些細な情報漏洩も命取りになる。
「さすがにそれは」
天花寺もさすがにそれは弁えているようだ。スマホをしまい、ベッドに寝転がったまま天井を見つめている。
石橋は窓際でスマホを耳に当てている。どこかに電話しているのだろうか。しかし何も話している様子はない。やがてスマホを耳から離す。
「誰かにかけていたのか?」
石橋は首を振る。
「いや。一昨日、『影喰い』に会う時にスマホで録音をしたんやが、なんも録音されとらん」
「どういうことだ?」
「わからん。俺の声も入っとらんのや」
部屋の空気が、わずかに冷えた気がした。録音されていない――それは、ただの機械の不具合ではない。
「まさか、夢か?」
俺がそう言うと石橋は目を見開く。
「天花寺、今日は事務所に行ったか?」
俺が聞くと天花寺はベッドから答える。
「行ってないですよ。火事になったから出勤しなくていいって連絡があったんで」
俺は石橋に向き直る。
「事務所に行ってみよう」
「そやな」
俺と石橋はホテルを出て特別国庫管理部の事務所に向かう。事務所はホテルから近いためすぐ建物の前まで辿り着く。明らかに火事だった気配がない。俺と石橋は足をとめ、ビルを見上げる。
「火が出た気配がないな」
「マジかよ。俺はあの九階の窓を破って逃げたはずやが」
石橋が指差す先の九階の窓は割れておらず、綺麗なままだ。火事になったのなら煤が周囲についていてもおかしくないが、まったく汚れはなかった。俺と石橋はビルに入る。
ホールに進むといつもの守衛が入口におり、エレベーターも稼働している。俺たちは九階に行くといつものオフィスが広がっていた。
「やっぱりなんともないな。これが『雷天大壮』か」
「夢と現実を入れ替えるってそういうことなんか。規模がデカすぎるやんけ」
俺が『雷天大壮』を使っても精々十キログラム程度のものを入れ替える程度の因果だが、本家の能力は周囲一帯を夢と入れ替えるほどのものだということだ。
とてつもなく重い因果だと思っていたが、確かにこれだけの規模の因果ならあの重さにも納得だ。
昨晩石橋が『影食い』に襲われた時、すでに周囲は夢と入れ替わっていた。だから夢で録音をしても現実ではできていなかったのだ。
「俺自身、夢にいるかどうかなんかわからんかった。由井薗は夢か現実かを見分けられるか?」
「・・・いや、無理だな。周囲の状況から判断するしかない」
「例えば?」
「夢を見るのは哺乳類と鳥だけだろ? だからトカゲとか昆虫がいたら現実だ」
そう言うと石橋は肩を竦める。
「この部屋にもトカゲや昆虫はおらんけどな」
確かに、オフィスの部屋が丸ごと夢と現実が入れ替わった場合、見分けることは至難の業だ。石橋が従えている驕虫は神使だから夢にも侵入可能だし、余計見分けがつかない。
「トカゲを入れた瓶を持ち歩くか。瓶からトカゲが消えたら夢だ」
俺が投げやりに言うと石橋は笑う。
「案外いいかもしれんな」
その時、何の前触れもなく全ての窓ガラスが震え、大きな音を建てた。まるで地震のようだが足元は揺れていない。
背後に気配を感じ振り返ると知った姿がそこにはあった。古代中国風の鎧に身を包む、偉丈夫。
「刑天か。いきなりだな」
俺がそう声をかけると神使は右手を上げた。
「久しいな由井薗。それに石橋」
刑天は半年前の戦いで力を貸してくれた神使で、俺と石橋、冬美には面識がある。しかし何故いきなりここに現れたのか?まさか石橋の驕虫を回収に来たとかじゃないだろうな。
「どうしたんだ? 俺たちを討伐しようってわけじゃなさそうだな」
「上(天)のほうではそういう話も無くはない」
「マジかよ」
「冗談だ」
神使ジョークとか勘弁してくれ。俺と石橋は顔を合わせて胸を撫でおろすと刑天は笑う。
「『影喰い』にはもう会ったな?」
神使が来たのは『影喰い』関連なのか。
「あぁ、石橋が戦った」
「実は、奴の行動が現在上(天)のほうで問題になっている」
「問題? あいつの目的は”神になる”ことやと本人が言っとったぞ」
石橋が返すと刑天は事務所の机に腰を下ろした。そして俺たちを見て続ける。
「『天吳』という神を知っているか?」
『天吳』。初めて聞く名前だ。俺は石橋を見たが石橋も首を横に振った。
「いや、知らないな」
「だろうな。『天吳』は元々天界人、お前たちのいうところの反地球人にあたる」
「反地球から渡ってきた一人か」
「そうだ。『天吳』は水を司る神だったが、別の水の神と問題を起こした。ここではその問題は割愛するが、その罪により夢に封じられたのだ。それが三千年近く前の話になる」
俺と石橋は頷く。刑天は続けた。
「それがつい十年前にある出来事が起こったのだ」
「十年前・・・まさか延行が何かしたのか」
刑天は頷く。
「古城戸延行がレンブラントに妹の絵を描かせたことは知っているな? その後レンブラントは夢の中で『雷天大壮』を発動させ、絵画を現実のものとした。それと交換で夢に入ったのはレンブラントの弟子だ。なんとその弟子が『レンブラントナイフ』を使って『天吳』の封印の一部を解いてしまった。そのおかげで『天吳』は弟子を『影喰い』として支配し、自らの封印を解くために利用している」
なるほど、事の真相はわかった。延行が言ったように、未来の選択が、過去の現実を変えることになったわけだ。神になる、というのはまんざら間違いではなかったのか。
「・・・ここまでの話はわかった。しかしそれならもう一度封印し直せばいいだろう?」
だが刑天は首を振る。
「そう単純な話ではないのだ。神が一度『封印』という罰を下された以上、そこに手を加えることは許されない」
石橋は肩をすぼめる。
「要するに封印し直すようなことをしたら神の顔に泥を塗るっちゅうわけか」
「ま、そういうことだな。『神が罰を下した』ことだ重要なのだ」
「刑天は何か使命を与えられたのか?」
刑天は少し困った顔をした。そしてわざとらしい演技で言う。
「俺たち神使は特にこの件での使命は預かっておらん。ただ、『影喰い』を放置はしておけない。困ったものだ」
俺はため息をつく。
「天や神使が直接再封印することは面子の問題でできないが、俺たちが勝手にやる分にはいい、ということか?」
刑天はにこりと笑った。
「俺から依頼などはしておらん。が、もし再封印するつもりなら驕虫はそれまで預けよう」
延行が支配した五匹の驕虫についても天界にはしっかりバレていた。
「断ったら?」
「それは聞かない方がいいぞ」
俺と石橋は顔を見合わせる。マジかよ。断ろうと思っていたのに。
刑天は話は終わりだ、と机から腰を上げると来た時と同じように窓を震わせ、俺が目を離し、戻した時にはもう姿は無かった。
「まだ返事しとらんけどなー」
「返事は聞くまでもないってことか」
しかし、話はかなり進展した。『影喰い』の正体や目的がようやくハッキリしたのだ。