一章 六 今日はカップ麺しか食ってへんぞ
俺は真新しくなったキャンバスを目の前に見る。冬美が横に立って、キャンバスに触れると『地雷復』を発動した。『地雷復』は「あるべき姿を取り戻す」因果だ。うまくいけば喰われた因果を戻すことができるのかもしれない。
すると、みるみる絵が修復されていく。
「おぉ!」
俺は思わず拳を握る。
瞬く間に絵画は復活した。しかし、因果『雷天大壮』は戻っていない。
冬美がキャンバスから手を離し、「どう?」を俺に聞いてくる。
「いや、因果は戻ってないな。絵は戻ったから展示はできそうだが」
「そっか、ダメか・・・ごめんね」
「古城戸は悪くないだろ。大事な絵が戻っただけ良しとしよう」
石橋も絵画を見上げる。
「絵も一応は戻ったことやし、あいつも目的を果たしたやろうから、もうこの美術館には用はないやろ。俺らも帰って作戦を考えた方がええ」
俺たちは小芝館長に絵とナイフは展示をして問題ない旨を伝える。もう予告状のように絵画やナイフが盗まれることはないだろう。
俺達は事務所に帰った。美術館のほうはもう大丈夫として、俺達が今後標的になってしまうのだ。
「ここまででわかったことの情報を整理しましょう」
冬美がそう言う。
「あの『影食い』とかいう男からは特に因果は感じなかったが」
俺は『風雷益』の因果の特性として、「周囲の因果を感知」することができる。あの男が攻撃した絵画から『雷天大壮』が失われるのは感じたが、『影食い』からは何も感じなかった。
石橋は唸る。
「八卦とは全く違う力の可能性もあるかもしれんが、由井薗が感じれん因果があると考えるほうがまだ納得できるわ。しかし感じひんとなると探すのも大変やぞ」
なるほど、俺が感知できない因果かもしれないのか。すると石橋が思い出したかのように言った。
「そうや。『雷天大壮』は何ができる因果なんや?」
そう言われて俺は『雷天大壮』に触れてみる。なんだこれは。とてつもなく重い因果だぞ。
「夢にある物と現実の物を入れ替える感じか。俺が使ってもせいぜい十キログラム程度のものまでだろうな。滅茶苦茶重い因果だから連発は絶対無理だな」
冬美が頷いた。
「そうか。それで夢で描かれたあの絵画が現実にあったのね。レンブラントが因果を発動させてしまったのかしら」
「何と入れ替わったんやろな」
石橋も続ける。しかし夢と現実を入れ替えるのは相当危険だ。
「基本的な使い方は『雷沢帰妹』に近い感じはするな」
「あいつらが『食った』因果を使えるとしたら、その辺が目的かもしれんな」
石橋が鋭い分析をする。
「もしくは因果を集めて何かするつもりなのかしら」
冬美の言うことも十分可能性がある。しかし今の時点で俺達が考えてもこれ以上はわからなかった。「次はお前たちだ」と予告している以上、そのうち向こうから来るだろう。
「荒事になるな。ちなみに俺はもう神使は喚べないぞ」
俺は以前は四神である孟章(青龍)、監兵(白虎)、陵光(朱雀)、執明(玄武)等を『雷沢帰妹』で喚ぶことができたが、蚩尤が使命を終えて帰ってしまったのでもうそれはできなくなっている。『風雷益』で吸収した多くの因果も練度が低いと薄まってしまうため正直俺はかなり弱体化している。
石橋が膝を叩いた。
「そうなんか。俺は延行さんが驕虫を五匹だけ『山沢損』でつけてくれたわ。まぁ五匹じゃ大したことはできんけどな」
驕虫は神使とされる甲虫で、延行は数千もの驕虫を『山沢損』で支配していた。甲虫は大変固く弾丸のような速さで飛ぶことができ、それだけでも武器となるが、集まれば盾にもなるし、乗ってサーフボードのように空を飛ぶこともできた。しかし五匹だけでは乗ったりすることはできないだろう。
「神使を支配して大丈夫なんだろうな」
「俺が支配したわけちゃうしな」
延行にも困ったものだ。反地球に追いやられるため神への最後の嫌がらせといったところだろう。
「『影食い』がどの程度俺達のことを知っているかだな・・・新人達が襲われたらひとたまりもない」
「ちゃんと因果の情報が出ているのは天花寺さんくらいじゃないかしら。他の三人はまだ日が浅いし」
児玉は『兌為沢』、宇薄は『水風井』、梵は『山雷頤』に覚醒しているが、まだ情報は出回ってはいない。
石橋は頭を掻くと面倒くさそうに言う。
「しょうがないな、由井薗も冬美ちゃんも今日ははよ帰れ。俺はちょっとここに残るわ」
「今日、ここに来ると思うか?」
俺がそう言うと石橋は頷いた。
「来るやろ。相手の情報が少しでも必要や。俺に任せとけ」
「俺も残る」
「いや、お前は冬美ちゃんを守れ。冬美ちゃんの家くらいはバレてるやろうから家には帰るな」
石橋の言うことは間違っていないだろう。冬美の家で待ち伏せされている可能性は高い。
俺と冬美は今日は都内のビジネスホテルで過ごすことにした。俺たちは恋人同士だし、石橋もそれは知っている。これまでも仕事で何度もホテルには泊まっているから何も問題はない。
俺と冬美は事務所から撤収し、夜の都内へ消える。石橋だけが特別国庫管理部の事務所に残った。
二十二時を回ったが、東京の夜は暗くはならない。窓から見える摩天楼は不気味だった。
ふと、事務所九階の床が軋み、廊下の奥から三つの影が現れた。
一つは骨のような外殻を持った怪物、もう一つは黒い液体が人の形をした異形。その奥には、黒い影のような男――影喰いが静かに歩いてくる。
石橋は、ポケットに手を突っ込んだまま、壁にもたれて立っていた。表情はいつも通りの余裕。だが、目だけが鋭く、三体の動きを追っていた。
「ようやく来たな」
石橋が言うと異形と影喰いは歩みを止めた。
怪物が唸り声を上げる。影喰いが一歩前に出る。
「貴様の因果、喰わせてもらう」
「今日はカップ麺しか食ってへんぞ」
石橋が軽口を叩くとその瞬間、外殻の怪物が突進。石橋はギリギリで身を翻し、廊下の壁を蹴って距離を取る。だが、背後には液体の異形が迫っていた。
「お前の目的はなんなんや? ただ因果を喰うだけか?」
影喰いは静かに笑うのみ。
「なんやつれへんな、おしゃべりしようや」
影喰いが右手を上げると黒い液体の異形が這うように動き石橋に急接近。
黒い液体は形を変えて槍のように伸びると石橋に襲い掛かる。
「ぐおっ!」
石橋は吹き飛び、廊下の先の会議室の扉を破って室内に転がった。本来であれば身体を貫通するような攻撃だが、驕虫が守ったようだ。
四匹の驕虫が石橋の懐から羽音をさせて飛びあがる。石橋はようやく立ち上がった。
「影喰い」は現れた驕虫を見てさらに警戒をしたようだ。驕虫は二匹が影喰いに向かって急襲。反撃に転じるが、あと少しで命中、というところで外殻を持つ怪物に守られる。驕虫は硬い音を響かせて弾かれてしまった。外殻を貫通するほどの攻撃力はないようだ。しかし「影喰い」の頭部などに命中すれば倒すには十分の威力。
「影喰い」から因果の気配が立ち上がる。『火地晋』の因果は炎の壁を作り出し石橋に迫る。
石橋は窓際に追い詰められ、肩で息をしながらも笑みを浮かべる。そこでようやく「影喰い」が口を開いた。
「占い師どもの因果を集めることで俺は新しい神となるのだ」
「・・・アホらし。付き合いきれんわ」
石橋はそう言うと窓を体当たりで破って外に飛び出した。九階--地上まで三十メートル。
影喰いは窓から下を見るが、石橋の姿はない。
--風を切る羽音がかすかに聞こえる。石橋は遥か遠く、四匹の驕虫にぶら下がってグライダーのように滑空していく。
「影喰い」は諦めたのか建物の奥に消えていった。