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一章 五 「振り返る黒髪の女」

 ナイフを胸元から取り出し、机の上に置くと、金属音が静かに倉庫内に響いた。

 古びた刃の縁にこびりついた顔料は、まだどこかに熱を秘めているようで、窓から入る月明かりに照らされてわずかに揺らめいた。


 冬美が目を覚ます。瞼の奥に残る夢の余韻を押しとどめながら、ナイフを見つめた。


挿絵(By みてみん)


「兄さんがとっておいてくれたのね」

「ああ。間違いない。延行が言ってた。本物だ」


 児玉も目を覚ます。


「わー…ウチ、まだ夢かと思った…ナイフあるし…うわ、すご」


 小芝館長はまだ眠っている。同じ夢に入っていたわけではないし、普通に寝ているのだろう。


 俺は現実世界の絵画を見る。


「おかしいな。この絵からは『雷天大壮(レーツーダーフォン)』は感じない。同じ絵だよな?」


 冬美は頷く。


「そうね。大分色褪せてはいるけど、これに違いないわよね」


 何故だかわからないが、因果を失っている。俺が『兌為沢(ノーエーダ)』で確認する限り、これはレンブラントの絵で間違いない。児玉も確認したようだ。


 倉庫の静寂の中、俺たちは絵画とナイフを見つめていた。

夢の中で感じた『雷天大壮(レーツーダーフォン)』の因果は、現実の絵画からは消えている。だが、ナイフにはまだ何かが残っている――そんな気がした。


 俺はナイフを手に取り、絵画の隅に目をやる。そこには、弟子の名前が刻まれていた。

だが、夢の中で見た絵には、そのサインはなかった。レンブラント自身が描いた絵なら、弟子の名があるはずがない。


「古城戸、これ……削ってみる価値あるかもしれない」


 冬美は一瞬ためらったが、やがて頷いた。


「兄さんが言ってた。“影が鍵になる”って。もしかしたら、このサインが“影”を覆ってるのかもしれない」


 俺はナイフを構え、絵画の隅にそっと刃を当てる。

金属がキャンバスの表面を滑る音が、倉庫に静かに響いた。絵を傷つけないよう、慎重に、弟子のサインだけを削り取る。恐らくはこのナイフでなければ削り取れないようになっている、そんな手ごたえがあった。


 ふと――空気が変わった。


 絵画から、微かな光が立ち上る。まるで、長い間封じられていた何かが、解き放たれたかのように。


「……感じる。『雷天大壮(レーツーダーフォン)』が戻ってきた」


 冬美が目を見開く。俺も頷いた。

因果が、絵画に戻ってきた。弟子の名が覆っていたのは、絵そのものではなく、絵に宿る“魂”だったのだ。


「兄さんは、あの夢の中でレンブラントに私を描かせた。そして、弟子の名を刻ませた。あえて、因果を封じるために」

「それを俺たちが削ることで、因果が解放された。つまり、これは“鍵”だったんだ」


 児玉もナイフを覗き込みながら言う。


「ウチ、今ならわかる気がする。この絵、もう“本物”って感じがする。空気が違うもん」


 小芝館長が目を覚まし、俺たちの様子に気づいて近づいてくる。


「……何か、変わりましたか?」


 冬美が静かに答える。


「この絵は、レンブラント本人の作品です。弟子のサインが因果を覆っていましたが、それを削ることで、絵の本質が戻りました」


 小芝は驚き、絵画を見つめる。


「確かに……色が、深くなったような気がします。空気まで違う……」


 俺たちは、絵画の前に立ち尽くす。ナイフは、ただの道具ではなかった。それは、記憶を刻み、因果を封じ、そして解き放つ“刃”だった。


 絵画はレンブラントの最後の作品として「振り返る黒髪の女」という名称で正式に登録され、ナイフ展に合わせて展示されることが報道され、世界的なニュースとなった。レンブラントや同世代に生きたフェルメールなども肖像画を多く残しているが、どれも四十数センチから七十センチ程度の大きさのものばかりだ。レンブラントよりも百年ほど前に生きていたレオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナ・リザも同じ程度のサイズである。しかし「振り返る黒髪の女」は幅百八十センチもあって大迫力であり、美術界きっての名画となることは間違いなかった。


 四月二十日。東京国立近代美術館ではあと十日で「ナイフ展」が始まろうとしている。海外からも多くの来館者があるだろうし、日本ではゴールデンウィークに入るということもあり、大変な混雑が予想された。


 俺たちは東京国立近代美術館の二階展示場に待機している。展示室の中央には、強化ガラスに守られた“レンブラントのナイフ”が静かに置かれている。その後ろの壁には、因果を取り戻した絵画――冬美を描いたあの作品が、慎重に照明を調整されて展示されていた。


 その佇まいは荘厳かつ神秘的であり、見る者の心を引き寄せた。その巨大さゆえ、少し離れてみるとより立体的になり、まるで絵の中の冬美が今にも動き出しそうですらある。


 俺たちは展示室の隅に立ち、当日の警備をどうするかについて話あっていた。今日は児玉の代わりに同期の石橋が来ている。いつもはだらしない恰好をしているが、今日は美術館のスタッフとして問題の無いスーツ姿だ。

冬美もスーツ姿で、いつものように冷静な表情を保っているが、どこか緊張が滲んでいる。


「……予告状の送り主、来ると思うか?」


 俺の問いに、冬美は小さく頷いた。


「来るわ。あの言葉――“影とともに返していただく”――あれは、絵画の因果が戻るのを待っていたってことじゃないかしら」

「そいつらはこの絵の正体を知っとるんか? モデルの冬美ちゃんですら知らんかったんやろ」

「そうね。小芝館長は海外のギャラリーから購入した、と言っていたけど、そのギャラリーにパーグアがいるのかしら」

「まぁそうやろな。自分たちではこの絵の封印が解けへんかった。レンブラントの本物のナイフが無かったからや。そやから、俺達に用意させるためにこの美術館に譲ったんやろな」


 その時、展示室の照明が一瞬だけ揺らいだ。


「……今の、何か因果が動いた気がする」


 俺の言葉で冬美と石橋は周囲を警戒し、俺は因果の流れを探る。

――いた。展示室の奥、黒い帽子をかぶった男。どこから侵入したのかわからないが、因果の流れがそこだけ歪んでいる。


「冬美、あそこだ!」


 俺は指をさし、黒い帽子の男に駆け寄る。冬美と石橋も続いた。


 その時、展示室の照明がすべて落ちた。俺たち思わず足を止める。かつての「饕餮」を思わせたが、当然あれほどの闇ではない。


 俺が暗闇の奥に目を凝らすと――絵画の前に立つ、黒帽の男の姿があった。

男は手に奇妙な刃物を持ち、絵に向かって何かを唱えている。絵を破壊するつもりなのだろうか。


「やめろ!」


 俺が叫ぶと、男は振り返った。その目は、真っ黒だった。瞳孔すらない、闇のような目。


「“影”は、最高の糧だ。因果に刻まれた魂は、最も濃い味がする」


 男が刃を振り下ろす。

絵画が、震えた。


 ――光が、吸い込まれていく。

絵の中の冬美の姿が、ゆっくりと消えていく。まるで、絵そのものが“喰われて”いるようだった。


「なにっ!?」


 冬美が男に向かって走る。だが、間に合わない。


 絵画は――空白になった。


 色彩が消え、陰影が消え、魂が消えた。ただのキャンバスが、そこに残されていた。


 男は笑う。


「“影”はいただいた。だが、これは始まりに過ぎない。因果を刻む者よ――次は、お前たちだ。覚えておけ、我は『影食い』」


 その言葉を残し、男は闇の中に消えた。


 展示室は静まり返っていた。

絵画の前に立ち尽くす冬美の肩が、わずかに震えていた。


「……兄さんが残してくれた“影”、喰われた……」


 俺は拳を握る。

『影喰い』――因果を喰らう存在。


 俺たちは、因果の力を持つがゆえに、狙われる側に立ったのだ。


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