二章 四 偽りの世界を真実の混沌で満たす者
再生した左腕はまだ痺れが残っている。夢の中でのダメージとはいえ、精神的な消耗は大きい。俺は立ち上がり、冬美に支えられながら息を整えた。
「貧血気味だ。少し休ませてくれ」
「わかってる。無理しないで」
冬美は俺の身体を支え、その視線は通りの奥、邪悪な風が吹き付けてくる方角を鋭く見据えている。
石橋は壁にめり込んだ骨の怪物の残骸を蹴飛ばし、驕虫を懐に戻しながら俺たちに合流した。
「大丈夫か、由井薗」
「あぁ、なんとかな。そっちは?」
「こっちは問題ない。それより、あの風の先やな。本命がおる」
神子戸さんは結界を解き、崩壊した黒い狼の残滓を見つめていた。その表情は、若々しい美貌に似合わぬ険しさを帯びている。
「『天吳』の力がここまで漏れ出しているとはな。封印はもはや風前の灯火か」
「神子戸さん、この先に進めば『影喰い』――レンブラントの弟子に会えますか?」
冬美の問いに、神子戸さんは静かに頷いた。
「会えるだろう。だが、奴はもはやただの人間ではない。『天吳』の傀儡であり、この夢の世界そのものと一体化しかけている。気安く近づけば、お前たちの精神も喰われるぞ」
その言葉に、天花寺がびくりと肩を震わせた。彼女はずっと青い顔で俺たちの戦いを見守っていたが、その恐怖は頂点に達しているだろう。
「天花寺、お前は……」
俺が「ここに残れ」と言いかけるのを、天花寺自身が遮った。
「……行きます」
か細いが、芯の通った声だった。彼女は震える唇をぐっと引き結び、俺たちをまっすぐに見つめる。
「足手まといなのは、わかってます。でも、あの『影喰い』が何者で、何をしてきたのか……この目で見ないと、私の因果は意味がないから」
天花寺の『風天小畜』は、相手の人生をビデオのように全て見ることができる。だがそれは、対象を「視認」することが絶対条件だ。彼女は自らの恐怖心と戦い、役目を果たそうと覚悟を決めたのだ。
神子戸さんが、ふっと口元を緩めた。
「良い覚悟だ。ならば儂が守ろう。お前たちは目の前の敵に集中せよ」
俺は天花寺の肩を一度だけ強く叩き、頷いた。
「わかった。無理はするなよ」
俺、冬美、石橋、そして天花寺の四人で、風の吹く方へ向かって歩き出す。神子戸さんは俺たちの後方、いつでも支援できる位置を保っている。
進むにつれて、街の景色は歪んでいった。石造りの建物は溶けた蝋のように形を失い、空はどす黒い紫色に淀んでいる。ここはもはや十七世紀のネーデルランドではない。『天吳』の悪夢が侵食した、精神の墓場だ。
やがて、俺たちは広場のような場所に出た。
広場の中央には、巨大なキャンバスが立てかけられている。そして、その前で一人の男が背を向けて立っていた。髪を伸ばした中世風の出で立ち。白いブラウスに黒いスラックス。
レンブラントの弟子――『影喰い』だ。
彼は、手に持ったナイフでキャンバスに何かを描いていた。いや、削っていた。俺たちが現実で手に入れた「レンブラントのナイフ」とよく似た、光を削るための刃。
キャンバスに描かれているのは、無数の人々の苦悶の表情だった。それはまるで、地獄絵図。
「……来たか。因果を継ぐ者たちよ」
『影喰い』は、こちらを振り向かずに言った。その声は、乾いていて感情が感じられない。
「『影喰い』。レンブラントの弟子だな」
「弟子……そう呼ばれたこともあった。だが、今は違う。私は『天吳』様の代行者。失われた神の力を取り戻し、この偽りの世界を真実の混沌で満たす者」
男がゆっくりと振り返る。その顔は、生気のない人形のようだった。そして、その目。
瞳がなかった。ただ、吸い込まれそうなほど深い、二つの黒い穴が空いているだけだった。
その顔を視界に捉えた瞬間、天花寺が「――っ!」と息を呑み、両手で口を覆った。彼女の因果が、強制的に発動したのだ。膨大な過去の情報が、彼女の脳内に津波のように流れ込んでいるに違いない。
「天花寺さん!」
冬美が彼女の肩を支える。天花寺は顔面蒼白になりながらも、必死に耐え、俺たちに向かってかすれた声で叫んだ。
「……ダメ……この人、もう……何人も……印南さんも……孤児院の二人も……みんな……この人が……!」
『影喰い』の黒い目が、苦しむ天花寺に向けられる。
「面白い因果だ。他人の記憶を覗くか。その魂、さぞ味わい深いだろうな」
石橋が一歩前に出て、憎々しげに吐き捨てた。
「神になる、やて? アホらし。お前はただ、三千年前の神さんに操られとるだけの人形やないか」
その言葉に、『影喰い』の顔が初めて歪んだ。
「黙れ。我は選ばれたのだ。この手で因果を喰らい、力を集め、やがては『天吳』様と一つになる。それこそが我が宿命!」
男が叫ぶと、周囲の空間がぐにゃりと歪む。彼が描いていた地獄絵図のキャンバスから、苦悶の表情を浮かべた亡霊たちが実体化し、俺たちに向かって殺到してきた。
「こいつ、喰った因果を自分の世界で使ってるのか!」
俺は叫びながら、迫りくる亡霊たちを迎え撃つ。
その一体が、俺の目の前で印南の姿に変わった。その手には、見えない壁をこじ開けるような仕草が見える。『天雷无妄』――!
「由井薗、気ぃつけろ! あいつら、喰われたパーグアの能力を使うてくるぞ!」
石橋の警告と同時に、俺の足元の空間がぐにゃりと歪み、別の場所へと繋がりかける。俺は咄嗟に後方へ跳び、空間の断裂を回避した。
冬美は天花寺を庇いながら、冷静に指示を飛ばす。
「石橋君は亡霊を! 私と由井薗君で本体を叩く!」
しかし、『影喰い』は嘲笑うかのようにナイフを振るう。すると、キャンバスからさらに二つの影が飛び出した。炎を纏った人影と、周囲の光を喰らう闇の人影。孤児院の二人だ。彼らが俺たちの前に立ち塞がり、本体への道を阻む。
「邪魔だ!」
俺は因果を発動させようとするが、闇の人影が発する空間の歪みに集中力を削がれる。
いよいよ、元凶との戦いが始まった。この男を倒し、その先の『天吳』の本体に辿り着かなければならない。そして、天花寺が見た「真実」を、無事に持ち帰らせなければ。