二章 三 彼氏の前でそんな顔するなよ
石畳の通りに、俺と石橋が立つ。百メートル先にいた二つの影は、ぬるりとした動きで距離を詰め、今や俺たちの三十メートル手前で足を止めていた。
一体は、骨のような白い外殻に覆われた人型の怪物。関節や節々が歪に組み合わさり、歩くたびにカチカチと乾いた音を立てる。その手は鋭利な鎌のようだ。
もう一体は、黒いタールのような液体でできた異形。定まった形を持たず、地面を這いながら蠢いている。時折、表面に無数の眼のようなものが浮かび上がっては消える、冒涜的な存在だ。
「どっちがどっちをやる?」
「俺が骨、お前が液体や」
石橋の即断に俺は頷く。彼の驕虫の硬さを考えれば、物理的な強度を持つ骨の怪物が相手の方が相性がいいだろう。
俺たちが短い会話を交わした、その一瞬。
先に動いたのは骨の怪物だった。地面を蹴ったかと思うと、その姿がブレる。石畳を削る甲高い音と共に、石橋の目の前に肉薄していた。
「速っ!」
石橋は驚きながらも、身体を捻って鎌のような一撃を紙一重で躱す。空を切った鎌が、背後の教会の壁に深々と突き刺さり、石材を砕いた。石橋は即座に懐から飛び出した二匹の驕虫を弾丸のように射出する。
「いけっ!」
甲虫たちは唸りを上げて骨の怪物の頭部を狙うが、怪物は首をありえない角度に曲げてそれを回避。同時に壁から鎌を引き抜き、回転しながら驕虫を薙ぎ払った。金属同士がぶつかるような硬い音が響き、驕虫は弾き飛ばされるが、すぐに体勢を立て直して再び怪物の周囲を旋回し始める。
その隙を逃さず、俺は液体状の異形に向かって駆け出した。足元で蠢いていた黒い液体が、俺の接近を感知し、その一部を槍のように鋭く尖らせて射出してきた。
「『火天大有』!」
俺は山路の因果を劣化コピーで発動させる。槍が俺に命中する確率を最低まで下げると槍は背後の地面に突き刺さった。しかし、劣化コピーの能力だ。完全に無敵ではない。
「――ッ!」
槍が通り過ぎた瞬間、ぞわりと肌を撫でるような冷たい感触があった。因果そのものを削り取ろうとするような、嫌な気配。こいつの攻撃は、物理的なダメージだけが目的じゃない。
俺は速度を緩めず、異形の本体に肉薄する。液体が壁のように盛り上がり、俺を飲み込もうと迫る。
俺はそれを飛び越え、空中で因果を切り替えた。
「『火地晋』!」
炎の壁が現れ、黒い液体を包むと液体は激しくもがいた。黒い液体が地面の中に沈み込んでいく。くそ、地面の中までは炎は届かない。しかし、動きを封じた、と思った瞬間、泥の中から無数の黒い手が伸びてきた。まるで溺れる者を掴むように、俺の足首を捉えようとする。
一方、石橋は骨の怪物と一進一退の攻防を繰り広げていた。驕虫が陽動し、石橋が懐に潜り込もうとするが、怪物の予測不能な関節の動きと鎌のリーチに阻まれ、決定打を与えられない。
「ちっ、硬いだけが取り柄ちゃうんかい!」
石橋の驕虫の一匹が、怪物の背後から死角を突いて突撃する。しかし、怪物は背中の外殻を部分的に変形させ、鋭い棘を突き出してそれを迎撃した。甲虫は棘に弾かれ、火花を散らしながら地面を転がる。
その時、後方から神子戸さんの声が飛んだ。
「由井薗! 石橋! そやつらは『天呉』の夢の残滓ぞ! 形あるものと思うな!」
夢の残滓――つまり、こいつらは純粋な悪夢そのもの。常識的な倒し方は通用しない。
その言葉の意味を理解した直後、俺が足止めしていたはずの液体が、爆ぜるように四散した。黒い飛沫が霧のように辺りに広がり、視界を奪う。まずい、これは――
「冬美! 天花寺!」
俺が叫ぶと同時に、神子戸さんが動いた。
「『天地否』!」
若き日の神子戸が両手を広げると、彼を中心に光輝く六面体がハニカム構造に組み合わさった結界が展開される。霧状になった黒い液体は、まるで透明な壁に阻まれるかのように、結界に触れた途端に音を立てて蒸発していく。
視界が晴れる。俺は舌打ちしながら、再び集結し始めた液体の本体を睨んだ。
石橋もまた、新たな手を打っていた。
「二匹じゃ足りひんと思っててん!」
彼は追加で二匹の驕虫を空中に放つ。四匹の甲虫は石橋の頭上で集結し、高速で回転を始めた。その回転は次第に熱を帯び、一つの小さな太陽のような光球を形成する。
「喰らえ!」
石橋が叫ぶと、光球はレーザーのように一直線に射出され、骨の怪物の胴体を撃ち抜いた。
怪物は悲鳴ともとれない金切り声を上げ、その身体に風穴を開けられる。外殻が砕け散り、その勢いのまま後方へ吹き飛んで教会の壁に叩きつけられた。
勝ったか――そう思った俺の思考を、背後からの悪寒が断ち切る。
液体状の異形が、俺の背後に回り込んでいた。それはもはや不定形ではなく、一体の巨大な黒い狼の姿を象っていた。その顎が、俺の頭を砕こうと大きく開かれる。
回避は、間に合わない。
衝撃とともに左腕が一瞬熱くなった。黒い液状の狼が口にくわえているのは俺の腕だ。
熱い液体が千切られた腕から噴き出した。傷口が真っ赤に染まっていく。
「ぐぉぉ!」
俺は腕を押さえて叫ぶ。ここは夢だから現実で腕が千切れたわけではないが、痛いものは痛い。これ以上のダメージは受けられないと判断した俺は後方に転がる。
神子戸は『天地否』で作られた六角形の光の板を剣の形に変形させる。無数の光の剣が黒い狼に襲いかかると剣は易々とその体を貫いた。黒い狼は苦悶の声を上げ、剣がささった部分が蒸発すると共に崩壊していく。
冬美が俺に近づき、手を俺の腕に伸ばすと『地雷復』を発動。あるべき姿を取り戻す因果により、俺の腕が再生される。しかし貧血気味だ。失った姿は戻るが血液は戻らないらしい。
「大丈夫?無茶しないで」
「助かったよ」
冬美が生えてきた俺の腕をさする。天花寺の顔色は真っ青になっていた。
「神子戸さん、助かりました。あんな使い方があるんですね。俺には無理そうですが」
「ありがとうございます!」
冬美は瞳を潤ませて神子戸を見ていた。彼氏の前でそんな顔するなよ。
俺たちは、ようやく怪物を斃した。だが、この先から吹き込む風は、さらに濃く、邪悪な匂いを放っていた。
『雷水解』・・・石橋の因果。発動直前の因果を打ち消す。
石橋の戦闘スタイルとして、「これを打ち消せば勝てる」という状況でしか使わない。
『雷沢帰妹』・・・由井薗が使用(劣化)。夢の中で入手したものを現実に出すことができる。あまりにも重い物は数秒で消えてしまう。
『火地晋』・・・由井薗が使用(劣化)。炎の壁を出す。
『水天需』・・・反地球人亜門が使用。相手の因果を封印する。由井薗も使用(劣化)。
『雷天大壮』・・・レンブラントの絵の因果。夢と現実を入れ替える。
『風天小畜』・・・天花寺が使用。相手の人生ダイジェストを見る。由井薗も使用(劣化)
『沢風大過』・・・太歳が使用。この世全ての凶により即死する。由井薗も使用(劣化)
『水火既済』・・・子涵が使用。ベクトル反射。由井薗も使用(劣化)
『山沢損』・・・古城戸延行が使用。相手を支配する。由井薗も使用(劣化)
驕虫・・・神使。本来は数千匹いるが、石橋が使えるのは5匹だけ。