3話:自由の対価
『_紫宮透が人類を滅亡させる__っていう契約だ』
「…は?」
口の中がカラカラだった。舌が動かない。目の前で笑うベルミナは、赤いドレスの裾を翻して、俺からそっと触れる。
『勘違いでも、契約は契約。』
ベルミナは悪びれもせず微笑んだ。
『馬鹿な人間は、見ていて飽きないぞ。可哀想で、可愛い契約者だ』
きっと今、俺は本当に馬鹿みたいな顔をしているんだろうと、鏡がなくても分かる。
『また会える。お前が破壊を望んだその時にでも』
その一言を残し、風のように消えた。
残された俺の手の甲が、チリチリと熱を帯び、不気味に紋章が浮かび上がる。
紅蓮のような線が、皮膚の上で静かに輝いていた。
昨日はうっすらしか見えなかった紋章が今度ははっきりと見えた。思考がまとまらない。ただ、手の甲がじんじんと熱い。
玄関には雑に転がったスニーカー。ソファにはクシャっとした毛布。
流しにはカップ麺の空容器。漫画とエナドリ缶が山積み。
「……」
「独身の男の家ってこういうもんよ。エクソシスト業やってたら掃除する時間ないしな〜」
いつも通りの調子。あの後、俺は土岐の家に連れて行かれた。
「エクソシスト…」
「漫画とかで聞いたことない?悪魔退治するあれ。あ〜適当に座ってて」
俺は言われた通り、ものを避けながら、座れそうなところを探して座った。
土岐は片手でスマホを操作しながら、どこかに電話をかけ始める。
「紫宮真司の死体回収と現場処理__」
「あっあの…母さんを寝室に閉じ込めてきたので」
「ああ、おっけ〜。現場にいる女性の保護もよろしく〜。…人使いが荒い?今度きなこもち、買って帰るからさ」
父の死。本当に、自分が殺したんだっけ。
何が現実で、何が夢だったのか。手の甲の熱だけが、俺の罪を確かめるみたいにずっとそこにある。
電話を切ってこっちを見た土岐に声をかける。
「先生……俺って、どうなるんですか」
土岐はどかっと折りたたみテーブルを挟んで俺の正面に座った。
「悪魔との契約って言うのは自分の命を契約に使うんだ。手の甲見せてみて」
「はい…」
土岐はじっと手の甲の紋章を見る。
「30日か。紋章が、細かい葉で括られてるみたいだろ?これが30枚、1日1枚を表している。お前が人類を30日後に滅亡させられなければ、お前は死ぬ」
驚くことはなかった。それどころか他人事のように感じる。
「契約はそう簡単に破れない。ただ……」
土岐は部屋の本を漁って、一冊の本を見ながら続けた。
「悪魔本人にもこれと同じ紋章があって、契約解除を宣言しながら紋章同士を重ねれば成立する。さらにその場合、悪魔が関わった事件は“改ざんされる”可能性がある」
「改ざん……?」
「要は“なかったことにできる”ってことだ。お前が父親を殺した事実すらも」
「契約が解除されれば、“記録の改ざん”が起きる可能性がある」
――父を殺したことも、なかったことになるかもしれない。
「父が、生き返るってことですか」
低く問うと、土岐が少しだけ目を細めた。
「……その可能性は低い。死体の状態や目撃者の有無、周囲の“因果”に左右される。改ざんされても、失踪扱いとか、事故に変わる可能性の方が高い」
「……そうですよね」
少しだけ、ほっとしている自分がいた。 あいつがまた俺の前に現れるなんて、考えたくもない。
土岐はそんな俺の顔を見て、しばらく口をつぐんだあと、ぽつりとこぼした。
「お前の家庭が普通じゃないことは感じてたんだ。でも、お前の様子をみて、大丈夫だと思ってしまった。竹山のことも気づかなかった。教師として失格だな」
「先生が気づかないくらい、いい子でいられてたってことですね。先生が悪いところはないです。それに俺、ちゃんと先生を頼ろうと考えたことありますよ」
「もし、ベルミナに会ってなかったら、お前は父親を殺してなかったと思うか?」
唐突な問いに、返事が詰まった。
あの日、帰ってあの男を見て、ベルミナの声が聞こえなかったら、昔のように黙って殴られていたのか?
「わかりません。…でも人類が滅亡するなら俺が殺してもいいと思ったのは確かです。」
小さく息をついた土岐は、穏やかに、だけどはっきりと言った。
「俺は、お前に契約を解除してほしいと思ってるよ。お前を平和な生活に戻せるなら、戻してやりたい」
俺はその言葉に、何も返せなかった。 契約を解除して、俺はまた“いい子”に戻るのか。
土岐は無理に返事を急かさなかった。そのまま土岐の部屋のソファを借りて眠った。
次の日の朝、土岐は朝食がないと言って、一緒にコンビニ向かった。流石に5時半だと人も少なく、大きめのフードも被っているから、大丈夫だろうと思った。
「透、俺ちょっと一服していくから、店の前で待ってて。なんかあったら大声出せよ」
「はい」
先生ってタバコ吸うんだなと思いながら、朝の少し冷たい空気を吸った。そのとき、少し強い風が吹いて、フードが脱げた。慌てて戻そうとした瞬間、声をかけらる。
「やっぱり透だ」
心臓が大きく跳ねた。今一番会いたくないと思う声だった。