2話:30日後に死ぬなら今日でもいい
高橋が見上げた俺の顔を見て、ぎょっとする。そして土手を降りて俺のもとに駆け寄ってくる。
「また、竹山先輩に絡まれたのか?」
「え…あっ…まあ」
「あの人、今日部活来なかったから休みなのかと思ってた」
竹山は高橋と同じバスケ部らしく、悪い噂をいっぱい耳にして、俺が絡まれているのを心配してくれていた。
「まあ、俺が多分気に障るようなことをしたんだよ」
「なんでも自分のせいにすんの、悪い癖だぞ!」
ああ、高橋には金を要求されたことを相談できるだろうか。でも…もし高橋を巻き込むようなことになったら、きっと俺は相談したことを後悔するんだろう。
「ありがとな」
なんてことない顔でへらっと笑っておく。高橋は納得していないような顔をしているけど、俺が言わなければそれ以上は踏み込んでこない。そういうところが、高橋を気に入ってる理由だ。
高橋と少し話しながら家に向かって歩いていれば、少し頭も冷静に回るようになっていた。さっきの悪魔とかいう声も燃えた蝶も、きっと夢でも見ていたんだろう。
「じゃあ、俺こっちだから」
「透。まじでなんかあったら、すぐ言えよ」
珍しく高橋が真剣な顔で言うので笑ってしまう。
「ああ、わかった」
高橋に背を向けて歩き出し、スマホの時計を見れば、17時49分だった。走ればギリギリ18時を過ぎないはずだ。
走りながらもまた、今後のことを考える。バイトをしていない俺がどうやって3万を用意するのか、そもそも竹山の言いなりになったところで、また次の要求額が増えるだけだ。そんな関係を俺は家で何度も見ていた。かといって、学校を休んでも、先生に相談したとしても、母さんに連絡が行くのは避けられない。だったら、母さんに相談する…いや、自分の息子が先輩に恐喝されてるなんて聞いたら、またヒステリックを起こすんじゃないか?あの男が家を出ていった1年前のように。
ふと、土岐の顔が浮かんだ。あの人なら、母さんの状態を話して、竹山のことを言えば、うまく隠して竹山のことも解決してくれるんじゃないか?なんて。信頼できるかはわからないけど、一番期待できそうな気がした。
そこまで思考がまとまったときには家の前まで着いていた。しかし、そこで違和感を感じた。
…ドアが開いてる。
母さんが締め忘れたんだとしたら、危ないと言わなければ。でももう一つの嫌な予感も頭に浮かんだ。例えば、泥棒か空き巣が入っていたとか…
恐る恐る中に入って、咄嗟にキッチンで包丁を取った。もし母さんだったら、すぐに戻せばいい。そう思ってリビングへ入ろうとした瞬間、目を見開く
ガタンと、母さんが床に倒れ込んだのが見えたからだ。
「久しぶりに帰ってきた男に、こんなはした金しか渡せねーのかよ、あ゙あ゙?」
その声で、耳鳴りがした。
「ごめんなさい、真司さん。家に置いてるのは、それで全部で…。そうだ、今日透の試験が出るって言ってたから、一緒に見ましょう?」
「はあ?透?ああ、いたな。あいつバイトしてねーの?」
「透は勉強に専念させるためにバイトさせないって…」
あの男が母さんを殴る。
「勉強なんて意味ねーんだよ。この世は金だ。頭が良くても意味ねー。…それともお前は、俺が馬鹿だから金が渡せねーのかよ」
ああ、そうだった。この男はこんな声をしていた。こんな顔をしていた。こんなことばかり言っていた。1年経って帰ってきても、何も変わらずにいた。
こんな人間が生きてていいんだろうか?こんな人間を信じて、毎日ご飯を作る母さんが恐ろしかった。
『こんな世界はおかしいであろう?』
耳元でまた、あの声がした。
「契約って、俺は何を代償にしたらいいの」
『ふむ…強いて言うならば、貴様の命か』
「どうせ人類皆死ぬのに?まあいいや、契約しよう」
『よかろう』
顔の見えない彼女がニヤリと口角を上げたことは分かった。包丁を握っていた手の甲に焼印を押されるような激しい痛みが一瞬走った。そこを見れば、一瞬だけ紋章のようなものが見えてすぐに消えた。
『これで契約完了だ。貴様はもう自由』
「自由…」
これで、人類は30日後に滅亡するのか。意外とあっさりとしているんだな。
でも、何かの重りが取れたように、頭はすっきりとして冷静だった。
30日後に俺もあいつもどうせ死ぬのなら、今、俺が殺してもいいんじゃないか?
あの男をまっすぐ見据えると、目が合った。母さんは気を失ったようで、倒れていたけれど、そんなことも気にならなかった。
「ああ、透、帰ってきたのか?元気だったか?父さん、金がないんだ」
後ろに持っている包丁をぎゅっと握った。こんな状況でまだ、父親面するこの男に感心してしまう。
「なんとか言えよ、透。笑ってねーでさ」
「いらないと思う」
軽い足取りであいつに近づく。躊躇いもなく心臓の位置を狙って、包丁を刺した。
「は?」
全く想定もしてなかったんだろう。笑いながら自分に刺さっている包丁を見ている。状況が理解できていないうちに、それを一度抜いてもう一度刺す。多分俺よりも力は強いだろうから、抵抗されてやり返されたら嫌だなと思ったから。抜いたときに飛び散った血が頬についたけど、目の前の化け物が死ぬなら我慢できそうだ。
あいつはバランスを崩しかけたので、そのまま仰向けに倒れさせて、馬乗りになった。そしてひたすら包丁を振り下ろし続けた。
汚いあいつの声が聞こえた気もするけど、そこからあんまり記憶がない。ただ、何度も刺して静かになってほしいという気持ちだった。
何回刺したかわからない。ただ自分の上がった息の音だけが聞こえて、下の物体が動かなくなったことを確認した。
「…死んでも汚いな」
カランと包丁を投げて、血に染まった制服を脱いだ。そのまま風呂に入ってシャワーを浴びる。驚くほど気分が良くて、何故か達成感があった。無意識に鼻歌を歌っているほど。
部屋着に着替えて、タオルで髪を乾かしながらリビングに戻って電気をつければ、ちゃんと動かないあの男とまだ気を失っている母さんがいた。
「良かった。夢じゃなくて」
母さんを抱き上げて、寝室に運ぶ。起きた瞬間、叫ばれたら面倒くさい。驚きすぎて、もう一度失神してしまうかもしれないけど。ついでにリビングから椅子を持って来て寝室のドアの前に置いた。少しは時間稼ぎになるだろう。
キッチンの冷蔵庫を開けて、夕食に出されるはずだったであろうプリンだけ食べた。調理しなくても食べれるものがそれしか入っていなかったからだ。
自分の部屋に戻って早めに寝ることにした。明日は早く家を出よう。きっとこのベッドで寝るのは最後かなと思いながら眠りについた。
セットしていたアラームを止める。4時32分。
母さんの寝ている寝室を見ると椅子が少し動いていたから、一回起きてはいるんだろうけど静かだ。耳を済ませると寝息が聞こえる。
まとめて置いた荷物を持って外に出る。昨日プリンしか食べなかったせいでひどくお腹が空いていたから、コンビニでパンを買って食べた。
死ぬまでに30日あるのなら、昔何かの本で読んだ警察から逃げるみたいなことをしてみようと思った。しかし、あまり遠くには行かず、お昼になるまで待った。学校をサボったのは初めてだ。俺は竹山に会うために学校へ向かった。
いつもあいつが呼び出す校舎裏に行ってみると、予想通り竹山がいた。
「お前、逃げたのかと思ったぞ。俺がせっかく朝迎えに行ってやったのに、来てないって言うからよ。制服を売ってきたのか?男の制服を買うなんてもの好きがいるもんだな」
べらべらとうるさいやつだな…。
「で?3万、持ってきたんだろ?」
当たり前のように手を差し出す。その姿が昨日殺したあいつと重なる。包丁持ってくればよかったな。
「お前に渡す金なんてない」
「じゃあお前、なんのために来たんだよ」
笑いながら拳を上げる前に、竹山を殴った。
まさか自分が殴られるなんて考えてもいなかったんだろう。鳩が豆鉄砲をくらったような…とはこういう時に使う言葉だ。
「てめーっ何すんだよ」
「お前が俺を殴るのに、なんで俺が殴ったらだめなんだよ」
こいつに今まで何回殴られたっけ。多分5回以上は…。そんなことはどうでもいい。俺が好きなだけ殴れば良いんだから。
「透!?」
その声に顔を上げた。高橋が戸惑ったように見ている。
ああ、高橋には少し見られたくなかったかもしれない。でもさ、俺もお前も、もう死ぬんだから仕方ない。相談してくれって言ってたのに悪いな。
その瞬間、後ろから引っ張られて、竹山から引き剥がされた。
「何してんだ!透」
「土岐先生」
目線だけ後ろにやって軽く睨む。この人こんな怒った顔もできるんだ。やっぱ先生だな。もし、ベルミナに出会わなかったら、土岐は俺を助けてくれたんだろうか?
「お前、悪魔と契約しただろう」
連れて行かれた生徒指導室で、土岐は竹山を殴った理由でも学校を無断欠席したことでもなく、そう聞いてきた。…聞いてきたと言うより断言した。
「えっ…」
「その手の刻印を見れば分かる。何の悪魔とどんな契約をした?」
指された手の甲を見る。確かにベルミナと契約したときに、痛みを感じた場所だけど、俺には何も見えない。
「土岐先生は一体…」
『ほお…この時代にもエクソシストは存在するのだな』
「!」
俺はハッは顔を上げると、ベルミナの声は土岐にも聞こえているようだった
「お前は誰だ」
いつの間にか土岐の手に拳銃が握られているのが見えた。どこから出したんだ。というかそんなものを教師が持ち歩いていることが衝撃だ。
『無礼な。ベルミナ様に銃を向けるなど…まあよい。ベルミナ様は昨日、透と契約できて気分が良いのでな。姿を見せてやろう』
大きな風が巻き起こり、目の前が薔薇の花びらでいっぱいになる。
風が収まり前を見ると、そこには禍々しいオーラを纏った少女と呼べるくらいの女性が立っていた。薄紅色の髪を後ろに流す。真っ赤なドレスが昨日見た血のようだなと思った。
「さっき、ベルミナって言ったか」
『ベルミナ様だ。人間。』
銃を向けられていることも気にせず、ベルミナは俺の元に近寄り、そっとまだ治りきっていない頬の傷を触る。昨日と同じひんやりとした感触があった。
『こいつはお前の可愛い生徒だったか』
「…何の契約をした」
『契約内容?ああ』
ベルミナはくすりと笑って、俺の顔を引き寄せたせいで、気味の悪いほど美しい顔から目を離せなかった
『_紫宮透が人類を滅亡させる__っていう契約だ』
「…は?」