7、国王にお願いされるユリアーネ
三年の月日が流れユリアーネは十五歳になった。
「ユリアーネ様、お目覚めですか?」
メイドたちが部屋に入って来てユリアーネの身支度をする。
ユリアーネは今起きたふりをしてメイドたちに朝の支度を頼んだ。
王宮の生活にも慣れた。ユリアーネは王子妃教育を順調にこなし、淑女街道まっしぐらである。
―—表向きは。
貴族の生活は朝が遅い。ユリアーネは辺境に居たときから日の出とともに起きる。だから早朝の時間をストレス発散に使うことにした。
日の出と共に起き出したユリアーネは軽装に身を包みこっそり部屋を出る。向かうのは犬舎である。犬たちが住んでいる犬舎と訓練場はあの事件以来柵で囲われ一般の人が立ち入りできないようになっている。その柵を飛び越え犬舎に近づくと犬たちが騒ぎ始める。一際なついているのはあの時の犬、カールだ。
「お嬢、おはようございます。今日も早いっすね」
毎朝一番に挨拶してくれるのはあの時の世話係、名をライナーという。
結局あの事件の後、世話係にも犬にもお咎めは無かった。王子に飛びかかったのだ、犬も世話係もただでは済まないだろうと数日間ずっとビクビクして過ごしていたのだが、何の音沙汰もなかったのである。
ユリアーネは心配して何度か犬舎を訪れた。そうして他の犬や世話係とも仲良くなり、早朝のこの時間、自由に過ごさせてもらっている。犬たちと戯れたり鍛錬をしたり身体を動かした後、こっそり部屋に帰ってメイドが起こしに来る前にもう一度ベッドに入るのだ。
ちなみにこのことをマルゴットだけは知っている。不測の事態が起こった時にユリアーネが部屋に居ないことを胡麻化してもらうことになっている。
「ユリアーネ様は本当にお綺麗ですわ」
「今日のレモン色のドレスも可愛らしくてよくお似合いですわ」
身支度が終わり、メイドたちが今日も口々に褒めてくれる。
ユリアーネは鏡の隅に映っているマルゴットがニッと笑って親指を立てるのを見て微笑む。
「ありがとう。あなたたちのおかげよ」
ユリアーネの微笑みを見てメイドたちが頬を赤く染めた。
「おはようございますユリアーネ様。本日は午前中は歴史とダンスの授業、午後からは国王陛下にお茶に呼ばれておりますわ」
グラッぺ夫人が入って来てユリアーネに今日の予定を告げる。
「まあ! 陛下と? それは楽しみね。でも陛下はこのところ体調が優れないご様子なの。何か胃に優しくて……そうね、カボチャのプリンを用意して下さるかしら」
ユリアーネが告げるとグラッぺ夫人が「かしこまりました」と頭を下げた。
「それにしてもユリアーネ様はとても所作が綺麗になられましたね」
「ありがとうございますグラッぺ夫人。王国一の淑女になれましたかしら?」
「それにはまだまだですわ。でもそうですね、あと二年、成人する頃には王国一にもなれますわ。きっと、ええきっと」
ユリアーネはグラッぺ夫人とふふ……と笑い合う。
グラッぺ夫人をユリアーネは最初は苦手だった。厳しくユリアーネの一挙手一投足にダメ出しをしたから。でもユリアーネがやる気を見せると夫人は驚くほど良く面倒を見てくれた。「私がユリアーネ様を王国一の淑女に育てて差し上げますわ」というのがグラッぺ夫人の口癖になった。
午後になり本宮にある国王陛下の執務室に向かう。
無理矢理婚約を結びユリアーネを王宮に呼び寄せた元凶でもあるが、ユリアーネを一番気遣ってくれたのは国王陛下だった。王太子とその妃は顔合わせ以来ほとんど会った事がない。ユリアーネは成人前なので夜会には出席しない。なので式典などで見かけるくらいだった。
国王陛下は忙しい執務の合間にユリアーネを偶に呼んでくれる。そうして執務室の続き部屋にあるソファーで御菓子を食べながらユリアーネの故郷での話に二人で笑ったり、国王陛下の若い頃の失敗談や今は亡き王妃殿下とのなれそめなどにユリアーネは目を丸くするのだ。そのひと時が意外に心地よく、王宮に来て以来家族との愛情に飢えていたユリアーネはまるで本当のお爺様のように感じていた。
その日も二人で歓談していると国王陛下はポツリと言った。
「そなたには酷な事をしてしまったな」
「陛下?」
「王宮の生活は窮屈であろう」
はい、ともいいえ、とも答えることが出来ず、ユリアーネは少しずらした回答をした。
「グラッぺ夫人にご指導いただいて立ち居振る舞いがとても綺麗になったと褒められましたわ。これはヴァルツァー領ではできなかったと思いますわ。それに様々な事を学ぶのはとても楽しゅうございます。各教科の先生方にも可愛がっていただいておりますの」
(内緒でちょっと息抜きはしてますけど)
「しかしな……テオドールとはどうだ?」
どうだ? といわれても答えようがない。ユリアーネは定期的に設けられるテオドールとのお茶会を思い浮かべた。
とにかく時間まで無言でお茶をすするお茶会を。
テオドールもそうだろうがユリアーネもこんな時間を無駄にするようなお茶会はしたくない。テオドールは終始むっつりと黙り込んでユリアーネを見つめて? 睨んで? いるだけなのだ。だからユリアーネも黙って辺りを見回しているだけだ。庭園でのお茶会なら木々や花々、鳥などを眺めていられるが、先日のサロンでのお茶会など、しょうがないので壁際の護衛騎士の房飾りを数えていたらなぜか護衛騎士が顔を赤らめてテオドールがますます睨みつけてきた。
「テオドール殿下はお元気そうですわ」
(うん、病気なんかしていそうもなく元気に睨んでいたもの)とユリアーネが言葉をひねり出すと国王陛下は微妙な顔をした。
「テオドールは勤勉だ。あれは自分の責務をわかっておる。努力もしておる。しかしな、あれの環境が悪すぎる」
(環境?)聞き返すことも出来ずユリアーネは曖昧に微笑む。
「父親は無関心。母親は都合のいい時だけ可愛がり甘やかしておる。それにな、あれの容姿がもう少し人並みなら良かったのだが見目が良いせいであれの周りには褒めそやす者しかおらん。それであんなに自惚れが強い人間になってしまった」
(まあたしかに。王太子殿下と妃殿下の事はわからないけれどテオドール殿下は優秀だと聞いているわ。国王陛下の政務もお手伝いを始めたらしいし。でもねえ、あの俺様でナルシストな態度はいただけないわ)
「わしはな、そなたにあれの鼻っ柱をへし折ってもらいたかったんじゃ。ヴァルツァーの娘ならこの王宮に新しい風を吹き込んでくれるのではないかと期待してしまった」
それは初めて聞く言葉だった。辺境でユリアーネはラウレンツからこの婚約の事情を聞いた。国王陛下は英雄になったヴァルツァー辺境伯を牽制し、王家に取り込む意図を、ヴァルツァー辺境伯は領地への復興援助を。双方の事情から結ばれた婚約だった。もっとも、父からは婚約は取り止めにしていいと言われたのだが。父を殴って部屋を飛び出した翌日、ユリアーネは頬を腫らした父に謝られたのだ。でもユリアーネは婚約を受けることにした。領地の復興のためにユリアーネが決めたのだ。
「陛下は……」
何と言っていいかわからずユリアーネは口ごもった。
「そなたは領地の為にこの婚約を受けたのだろう。わしの方にも目論見はあった。だが今言った理由もあったのだ。そしてそなたを知り、今ではこの理由の方が大きくなっておる」
国王陛下は両手でそっとユリアーネの手を包んだ。
「テオドールを頼む。あれが立派な王になるようにそなたに支えてもらいたい」
(む、む、む、無理ですーー!!)
この手を離して今すぐ部屋に逃げ帰りたい衝動をユリアーネは何とか抑えた。
国王陛下の事は好きだ。有無を言わせぬ婚約に恨んだこともあったけど、この王宮で唯一家族のように接してくれた人だ。でもテオドールは無理だ。ユリアーネはこれっぽっちもテオドールに惹かれていない。寄り添うなんてこと出来そうもない。王国一の淑女になるなんて言ったけどあれは意地でテオドールの隣りに立ちたいからではない。
(でも私が成人したら結婚するのよね。私、覚悟が足りなかったのかな)
ユリアーネの心の支えは領地で聞いたラウレンツのあの言葉だ。
「五年後、もしテオドール殿下との結婚をお嬢様が望まなければ、この俺、ラウレンツ・フェア・アスマンがお嬢様をお迎えに上がります」
どうしても嫌ならラウレンツが迎えに来てくれる。現実ではありえないと思いながら心の奥底でそんなことを思っていたからテオドールと結婚する覚悟が出来ないのかもしれなかった。
「陛下……どうして今日はそんなお話を?」
手を握られながら「嫌です」と振り払うことも「はい、お支えします」と頷くことも出来ずユリアーネが国王陛下に訊ねる。
「いや、悪かった」と国王陛下はユリアーネの手を離し、ため息をつた。
「わしも歳じゃからな、もう長くないかもしれん」
次話予告『歩み寄ろうとして失敗するユリアーネ』です。