5、豪雨
雨が降っている。
アリアンナを見送った日はあんなに青空が広がっていたというのに。
アリアンナが故郷に帰って半月。ベアトリクスの日常は以前に戻った。戻ったけれども以前と同じままではいられない。いろいろな事にベアトリクスは気づいてしまったから。
あの買い物に出かけた日以来アルベルトとはギクシャクしたままだ。主にベアトリクスがアルベルトを避けている。アルベルトがベアトリクスに向ける視線は相変わらず熱がこもっている。その焦れるような視線をベアトリクスは気づかないふりでやり過ごした。
アリアンナにも「トリー、いいの?」と聞かれたがベアトリクスがとぼけると「そっか」とそれ以上は何も言わなかった。
「今度は家族みんなで遊びに来るわね!」
満面の笑みでアリアンナは去って行った。
去り際にアルベルトの襟首を掴んでぐっと引き寄せるとアリアンナは低い声で言った。
「アル、まさか簡単に諦めたりはしないわよね」
「当たり前だ。これは俺の最後で最大の勝負だ。絶対に負けない」
「その意気よ。諦めなけりゃいつか勝つわ」
「お前なあ……」
「あっはっは、頑張ってね」
そんなことはベアトリクスは知らない。
そしてアリアンナの帰国と共にベアトリクスとアルベルトの糸もぷっつりと途切れた。
雨が降っている。
ベアトリクスの心の中のように。
ベアトリクスはファラーの家を出た時の事を思い出していた。こんなにひどい雨ではないけれどあの日も雨が降っていた。
「義姉上、僕に気を使わなくてもいいんですよ」
養子になったローラントがベアトリクスを引き留めた。母はあの夜会から床に臥せったままだ。
それでもここにはいられないとベアトリクスは思った。
一つにはローラントの言うように彼の為だ。ベアトリクスはファラー家の唯一の直系の子だ。ベアトリクスがいてはローラントの妨げになる。使用人もこの家で育ったベアトリクスの方を立てることが多い。しかしこの家の後継者はローラントに決まったのだ。
それに父の面影が残るこの家にいるのは辛かった。
ベアトリクスに一度も関心を寄せない父だった。それなのに……
最後に庇ってくれたことが嬉しかった。命を懸けて守ってくれたことが嬉しかった。父はあんなことを仕出かした罪人なのに、この先ベアトリクスは罪人の娘として生きていかなくてはいけないのに。それなのに命を懸けて守ってくれたことが嬉しかったのだ。嬉しくて悲しかった。文句を言いたい父はもうどこにもいない。
いたたまれなくて家を出た。
馴染みだったこの孤児院に身を寄せた。
孤児院の院長先生や職員たちはベアトリクスを暖かく迎えてくれた。子供たちは喜んだ。
メイド一人を連れてこの孤児院で一人前に生きてきたつもりだった。
でも気付いてしまった。ベアトリクスは一人でなんか生きていない。一人で着替えが出来たりお茶を入れられるくらいなんだというのだろう。料理も洗濯も掃除も出来ないベアトリクスはきっとここではお荷物だ。メイドのセイラが、そして職員たちがカバーしてくれていたのだ。そしてセイラに給料を払い、孤児院に寄付をしてくれているローラントのおかげだ。
いつまでもここにはいられない。それでもファラーの家に帰る気にはなれなかった。
自分の中にやりたい事が形になりつつある。アリアンナに魔術を教わり、アリアンナと過ごすうちにぼんやりと見えてきたやりたい事。
本当はアルベルトに相談したかった。
でもアルベルトを拒絶してしまったベアトリクスにはその資格がない。違う、アルベルトに会うのが怖い。あの熱をはらんだ甘い瞳を向けられなくなるのが怖い。
自分勝手なのだ、とベアトリクスは思う。
アルベルトと結ばれるわけにはいかないのに心の奥底ではアルベルトを求めている。いつまでもあの瞳に見つめてもらいたい。自分から拒絶しておいてアルベルトの関心が無くなるのが怖いのだ。
雨が降っている。
夏の盛りに差し掛かろうというこの時期は雨が多い。それでも王都にこんなに雨が降るのは珍しかった。
三日ほど降り続いた雨で、まったく外に出ることが出来ず、子供たちはストレスをため込んでいる。小雨程度なら夏のこの時期は多少雨に濡れても元気に外に飛び出していく子供たちも、さすがにこの土砂降りの中に飛び出していくわけにはいかなかった。
ちょっとしたことですぐに喧嘩に発展する子供たちを仲裁したり、体調を崩した子供の看病をしたり、ベアトリクスも忙しく立ち働いていた。
ドンドンドン!
玄関のドアを激しく打つ音が響き、皆がビクッと音の方角を凝視した。
「私が見てまいりますわ」
院長を制してベアトリクスは玄関に近づいた。
「どなたでしょうか!」
声を張り上げないと雨の音にかき消されてしまう。
「トリー俺だ、開けてくれ」
微かな声が聞こえてベアトリクスは急いでドアを開ける。
雨の音で声色は分からないけれど、ベアトリクスの事をトリーと呼ぶのは一人だけだ。
全身ずぶ濡れで玄関の中に飛び込んできたのはアルベルトと数人の騎士だった。
「アルベルト殿下! まあ! 今タオルをお持ちしますわ」
「後でいい」
アルベルトは院長に至急会いたいという。
ベアトリクスは全身から水を滴らせているアルベルトと騎士たちを案内した。
「院長、トリーも聞いてくれ。この裏の堤が決壊しそうなんだ」
アルベルトの言葉に息を呑む。
この国は川が多い。それが肥沃な大地を作っているともいえるが、毎年どこかで水害が起こっていた。
しかし、王都はここ百年ほどは水害にあった事はない。王都の地形や地域性のおかげかは分からないが、だから王都は順調に発展してきたのだった。もちろん水害対策で川岸の堤は高くしてある。今回の雨はその高い堤を上回る水量らしかった。
「いいか、もし堤が決壊すればこの辺りは濁流にのまれる。その前に子供たちを連れて避難するんだ。目指すは王宮。あの辺りは小高い丘になっているからな。衛兵には通達済みだから王宮に避難させてくれる。持ち物は最小限だ。この者たちがサポートする」
アルベルトの言葉に皆急いで準備を始める。
「病で臥せっている子が……」
「僕が布団ごと抱いていきましょう」
一人の騎士が申し出てくれる。
子供たちが少しでも雨に濡れないようにレインコートを着せながらベアトリクスはあることに思い至ってアルベルトに呼びかけた。
「アルベルト殿下、決壊しそうな場所を見に行くことが出来ますか?」
「…………土の魔術か」
さすがにアルベルトはベアトリクスの考えていることを即座に理解してくれた。
「どのくらい出来るかは分かりません。無駄足かもしれません」
しかし一帯が濁流にのみ込まれれば命は助かっても住む場所を失う人が沢山出るのだ。
「危険だぞ、いや、トリーの身は俺が守る、絶対に。それなら問題ないな。よし行こう!」
アルベルトの決断は早かった。
騎士の一人に子供たちの避難を任せるとレインコートを纏ったベアトリクスの手を引いて孤児院を出た。
外に出た途端、叩きつけるような雨で視界が全く効かない。
ベアトリクスはアルベルトに半分抱えられるように手を引かれて川に向かう。
「あそこだ! 見えるか?」
怒鳴るようなアルベルトの声が聞こえて目を凝らすが水煙でよく見えない。
「もう少し近くに!」
「わかった!」
もうこの場所は堤が決壊したら一番に濁流にのまれる場所だ。でもベアトリクスに不思議と恐怖心は無かった。自分を必ず守ってくれる力強い存在の温もりを感じているからだろうか。
堤の真下でベアトリクスは地面に手を付き呪文を唱える。
周囲の土がうねって盛り上がっていく。しかしその土の山は降りしきる雨ですぐに泥と化し崩れてしまう。
「……駄目だわ」
数度試してベアトリクスはがっくりと膝をつく。
「硬化の魔術を同時に掛けるのよ」
不意に耳元で声が聞こえてベアトリクスは驚いて顔を上げた。
「さあ、私が手伝うわ。あなたならきっとできるわよ、ベアトリクス」
ベアトリクスの傍らに寄り添う金髪の美しい女性。この豪雨の中で煌めく金の髪は少しも濡れていない。それどころか彼女はふわふわと宙に漂っていた。会った事はなくてもベアトリクスは彼女の事を良く知っている。
「はい、フリーデリーケ叔母様、お願いします」
呪文を唱え魔力を流すベアトリクスの手にフリーデリーケの手が重ねられた。
土がぐんぐん盛り上がる。今度は崩れることなく決壊しそうな場所を補強していく。ひび割れ、ちょろちょろと水がしみ出していた堤が補強され更に高さが増した。
「もう大丈夫だ! よくやったぞ、トリー!」
アルベルトにぎゅっと抱きしめられてベアトリクスは我に返った。
「アルベルト殿下、他にも決壊しそうな場所があるのではないですか?」
ベアトリクスの問いにアルベルトは頷いた。
五カ所目の補強を終えたところで朝日が一条の光を投げ掛けた。
気が付けばあんなに酷かった雨は上がっており堤の上から見る遠くの山々がオレンジ色に染まり、数日振りの太陽が顔をのぞかせようとしている。
その荘厳な光景に気を取られ足を滑らせたベアトリクスはアルベルトに支えられる。
アルベルトに助けられたのは何度目だろう。アルベルトがベアトリクスを守ってくれたおかげでベアトリクスは魔術に集中できたのだ。
「あなたにはちゃんとナイトがいるのね、良かったわ」
もう一人、ベアトリクスを助けてくれたフリーデリーケの存在は今はもう感じられない。
数年前に命を落としたフリーデリーケ、増水した川や湖を見に行ったきり帰ってこなかったフリーデリーケ。今はもう確かめようがないけれど、彼女も土の魔術は扱えたのだ。
「雨が上がった。これでひとまずは安心だ。頑張ったな、トリー」
アルベルトに褒められて全身の力が抜けた。
「あっ トリー! どうしたんだ、大丈夫か?」
アルベルトの慌てた声を聞きながらベアトリクスは意識を手放した。
次が最終話になります。




