3、逡巡
季節は廻りアリアンナと初めて会ったまだ肌寒い季節から花の盛りを過ぎ、若葉が生い茂り太陽がまぶしく感じる季節が近づいて来ていた。
「……え? 今なんて言ったの? アリー」
「今月いっぱいで国に帰ると言ったのよ。トリーと会えなくなるのは寂しいけど、また遊びに来るわね」
あっけらかんとそんなことを言うアリアンナにベアトリクスは戸惑った。
「そんな……どうして……」
「あら? 言ってなかったかしら? 元々三か月の契約だったのよ。それでもトリーが素晴らしい生徒だったから熱が入り過ぎてちょっと延びてしまったけれどさすがにそろそろ帰って来いって手紙が来たのよ」
そうだ、忘れていたけどアリアンナはこの国の人ではない。彼女は素晴らしい土の魔導士だ、本国で仕事や待っている人がいるのだろう。
それでも、とベアトリクスは思った。もう少しここに、できればこの国の人間になる事は出来ないだろうか? ベアトリクスの為ではなく、アリアンナを思う彼の為に。アリアンナの前で素を晒すことが出来る彼の為に。
「アリー、どうしても帰らなくてはいけないの?」
「そうねえ、でもあたしも家族に会いたいしね、ごめんねトリー」
「私はいいの、もちろんアリーがいなくなるのは寂しいけれど。でも私よりアルベルト殿下が悲しむと思うわ」
「あっはっは、アルが? いっつも揶揄うあたしがいなくなれば清々するとか言うんじゃない? なんたってあたしはアルの黒歴史を沢山知っているからねえ」
これはダメだとベアトリクスは思った。彼女はアルベルトの気持ちに微塵も気が付いていない。
「そんな事ないわ。アルベルト殿下は貴方の事をわざわざこの国に呼んだのでしょう? それに毎日ここに顔を出すわ。あなたの事を気に掛けているのよ、いえ、気に掛けているどころではなくアルベルト殿下は……」
それ以上言うのは躊躇われた。アルベルトの気持ちを勝手にベアトリクスが言う訳にはいかない。ましてやはっきりと彼の口から聞いたわけでもない気持ちを。
「まあ、あたしが一番頼みやすかったのは事実ね。アルはあたしには身構える必要無かったし。それからここに顔を出していたのは——」
「何の話をしているんだ?」
部屋の入り口から声が聞こえた。
「あらアル、いらっしゃい。レモンゼリー食べる?」
「食う」
アルベルトがソファーにどっかりと座るとアリアンナが早速話を再開した。
「今月いっぱいで国に帰るっていう話をトリーにしたの」
「ああそうか、悪かったな長い間。俺の方にも手紙が来たぞ」
「もう、バルったら。でもね、楽しかったわよ、今度はみんなで遊びに来るわ」
「ああ、俺もベアトリクス嬢も楽しみに待っているよ。な、ベアトリクス嬢」
あっさりとそんな話をされてベアトリクスは面食らった。え? でも……いいの? アリアンナがいなくなってもいいのかとベアトリクスは聞きたかった。
その日の帰り、いつものようにアルベルトに送ってもらいながらベアトリクスはアリアンナの事をどう切り出そうか悩んでいた。
そんなことを考えながら歩いているベアトリクスはいつもより口数が少なく、しかしそのことに気が付かないようにアルベルトも口数が少なかった。
もうすぐ孤児院に着くという頃になってようやくベアトリクスは決心してアルベルトに呼びかけた。
「アルベルト殿下」
「あーベアトリクス嬢」
同時にアルベルトに呼びかけられて二人して口を噤む。
どうぞ、どうぞと押し合いの結果ベアトリクスは重い口を開いた。
「あの……よろしいんですか?」
「ん? 何が?」
「アリーの事ですわ」
「アリーがどうかしたのか?」
アルベルトのあまりの鈍さにベアトリクスはちょっと苛立った。普段冷静なベアトリクスには珍しい。
(私は二人にとって部外者かもしれないけれど……二人には何か既に約束があるのかもしれないけれど)
でもそれならそれで言って欲しいし、そうでないならアリアンナをもっと必死に引き止めるべきだとベアトリクスは思った。ベアトリクスの胸の中は千々に乱れている。本当は辛い、二人並んだ幸せな笑顔を見たくない。でも、大好きな二人の幸せな笑顔を見たい。
「アリーはもうすぐいなくなってしまうんですよ、引き止めなくてもいいんですか」
珍しく語気荒いベアトリクスに少しびっくりしながらアルベルトは少し考えこんだ。
「そうか、ベアトリクス嬢はまだアリーに居て欲しいのか。アリーからは一応ある程度の魔術は教えたし、この国ではそれ以上必要ないだろうと報告を受けたんだがな」
「いえ……私は……」
「すまんな、俺としてもあいつをこれ以上引き止めるのは忍びなくてな。何か不安があるなら俺が相談乗るからそれじゃあダメか?」
そういう事ではないのだ。ベアトリクスは首を横に振った。
「いいえすみません、立ち行ったことを申しました」
「いや……そんなことは無いが……本当に俺が相談にのるぞ?」
「ありがとうございます。それよりアルベルト殿下のお話は?」
心配なのはアルベルトとアリアンナの事だけだ。魔術に関してはひと通りの事は教えてもらった。と言っても多分彼の国では初級の魔術なんだと思う。それでも義弟のローラントが父のファラー公爵から学んだ事よりは多くの事を教えてもらった。
ベアトリクスは曖昧に微笑んでお礼を言うと、アルベルトの話を促した。
「あ、いや、俺の話はそんな大したことじゃなくてな」
途端にしどろもどろになったアルベルトは暫く躊躇していたが、ベアトリクスが黙って隣を歩くアルベルトを見上げると意を決したように早口で言った。
「俺もトリーと呼んでいいだろうか?」
「え?」
「あ、いや、別に嫌ならいいんだ。ただこの数か月でベアトリクス嬢とは親しくなったような気がしてな、俺もアリーみたいに呼んでみたくなったというか……いや、すまん、こんなおっさんに呼ばれたら気持ち悪いな」
「いいえ、そんなことはありませんわ!」
ベアトリクスは急いで否定する。しかしどうなのだろう? 平民は愛称で呼び合うことが多いと聞いたが、貴族では異性間で愛称で呼び合うのは肉親以外では特別な関係だけだ。王族であるアルベルトが醜聞に晒されたら申し訳ないような気がした。
「そうか? しかし俺はベアトリクス嬢よりもかなり年上で……ああ、そうか、親戚のおじさんに呼ばれるような感覚か」
「違いますわ。前も申し上げましたがアルベルト殿下はお若いです。おじ様などと思ったことはございません」
ベアトリクスがきっぱりと否定するとアルベルトは「そうか」と目元を綻ばせた。
立ち止まってベアトリクスに片手を差し出す。
「では、これからもよろしくなトリー」
アルベルトの口から出た『トリー』という愛称はベアトリクスの心に大きな打撃を与えた。慕っている相手から愛称で呼ばれるのはよろしくない。非常によろしくない。心臓に悪い。
それでもベアトリクスは嫌だと言えなかった。自分の事をアルベルトが愛称で呼んだら他の貴族にいらぬ誤解を与えてしまうかもしれないという事も、アリアンナが嫌な思いをするかもしれないという事も言えなかった。
赤くなった頬を見られないように俯いてベアトリクスはアルベルトの大きくて無骨な手をそっと握った。
「うん、このくらい出来たらもういいんじゃないかしら」
目の前の土壁を見てアリアンナが頷いた。
ベアトリクスがアリアンナに習ったのは土を耕したり土を動かして水路のような溝を掘ったりする魔術、土の壁や小山を作る魔術、土の性質を変えて固くして土の壁を盾にしたり、逆に泥状態にする魔術などで攻撃系の魔術はほとんどない。砂礫を飛ばすぐらいだ。凄い土魔導士は岩石を作り出して落としたり、砂嵐を発生させたりできるそうだが、ベアトリクスには必要ない。辺境のヴァルツァー領以外で騎士でもない貴族が、ましてや令嬢が戦う機会など無いのだ。それどころか土を耕したりする魔術も使う機会があるかどうかわからない。貴族の令嬢はそんなことをする必要が無いのだから。
それでもこの魔術を習いながらベアトリクスはこれを役立てるような仕事が出来ればと考えるようになっていた。
お茶の時間にアリアンナが唐突に言った。
「大変! あたしこの国の美味しいお店とかほとんど知らないわ!」
「そうか?」
「そうよ! アルったらどこにも連れてってくれないんだもん」
今日もお茶の時間に合わせて顔を出したアルベルトがクッキーを食べながら明後日の方を向いた。
「仕事が忙しかったんだ」
「そうでしょうとも。誰かさんはこの時間に顔を出すために他の日はお仕事を頑張っているんでしょうから」
ベアトリクスははてな? と首をかしげながら言った。
「毎日この時間にいらしているならその時に二人で街に行かれてはどうですか?」
「あら違うわよ。アルが顔を出すのはトリーが来た時だけよ」
「アリー!」
焦ったアルベルトの声はアリアンナにかき消された。
「私が来ている時だけ……」
「いやその……俺がこいつを紹介したんだ、ちゃんとやってるか心配でな」
アルベルトの答えにベアトリクスはなるほどと納得した。アルベルトは騎士団の総団長をしている時から責任感が強かったと聞いている。それに部下を人一倍思いやり、部下との交流をよくしていたとも。
だから自分が呼び寄せたアリアンナにベアトリクスが失礼な事をしないか心配だったのだろう。アリアンナは平民だから貴族に無理難題を言われても言い返せないと思ったのかもしれない。もちろん純粋にアリアンナに会いたかったのもあるだろうし。でも一人暮らしのアリアンナの所へアルベルトが足繁く通う訳にはいかないだろう。
アリアンナは「心配ねえ……」なんてニヤニヤしているけれど、(心配っていうのは口実でアリーに会いたいっていえない照れ隠しよ)とベアトリクスは言いたかった。そして悲しくて少しイライラした。
アルベルトの思いに気が付かないアリアンナにも、アリアンナにはっきり想いを告げないアルベルトにも。
もしアリアンナが平民だという事を気にしているのならベアトリクスが力になるつもりだ。ファラーの家は出てしまったが籍はまだ残っているし、今はファラーの家名は地に落ちてしまっているが、アリアンナは優れた土の魔術師だから迎え入れる家は沢山あるだろう。
「私、次の授業はお休みしますわ」
唐突にベアトリクスが声を上げると言い合いをしていた二人はきょとんとベアトリクスを見た。
「ですから、その日はアルベルト殿下がアリーに街を案内してあげてください」
「それいいわね」
アリアンナが先に口を開いた。
「おい、アリー」
「でもトリーも一緒に行くのよ」
「いえ、私は……」
「ダーメ。三人で行きましょう。故郷の家族にお土産を選んで欲しいのよ。ねえ、いいでしょアル」
「ああ、そういう事なら。トリーもいいか?」
ベアトリクスは頷いた、二人の邪魔はしたくなかったけれど。
アリアンナは「うふふ……トリーだって」と小声で言って笑っていた。




